「アイザック・マクドゥーガル、貴様に移動命令が出ている」
自分が何を言われたのか、すぐには理解できなかった、数日前に出した退職届はどうなったと聞きたかったが、上司の視線は問答無用と言わんばかりだ。
しかも、辞めたければ新しい上司、大佐に直接と言われてアイザックは唇を噛んだ。
「どうです、久しぶりにお茶でも」
尋ねてきた白スーツの男は、にっこりと笑う、仕事はうまくいっているのかと聞くと、そうですねと肩を竦めた。
「軍にいたときとは違います、色々と不便な事もありますが、でも楽しいですね」
「楽しいだと、以外だな、人殺しでもしてるのか」
「まさか、人妻の浮気調査、家出人の捜査、行方不明のペットを見つけたりとか」
まさか、本気で言ってるのか、だとしたらいかれている、いや、おかしくなったに違いないと思っただろう、ひねくれて世間を斜めに見ている性格を知っているからだ。
コーヒーを一口啜り、男は自分を見ると、にやりと笑った。
「実は今、人捜しを、それで軍の資料を覗きたいんですが、私は民間の探偵、いわば一般人ですから、おいそれと施設に入ることはできないんですよ、それで」
協力して欲しいんですと言われ、アイザックは何故という顔になった、浮気調査や家出の調査なら何故、軍の資料室など関係ない筈だ。
「突然、姿を消してしまったんです、しかも理由がない」
そんな事、珍しくないだろう、生活に不満を抱いて現状から逃げだそうとしている人間は大勢いる、子供だろうと、いや、大人でも関係ない。
「ドクター・マルコー、元、軍の医療班に所属していました、ご存じですか」
面識も顔も見たことはない、だが、名前だけは聞いたかもしれないとアイザックは記憶をたぐりよせた。
「医者が行方不明なのか」
元軍に所属していたなら頷ける、ところが、いいえと予想外の答えが返ってきた。
「先生の助手です、ですが、医療に関しての知識はない、皆無です」
なんだ、それは、しかも一般人、市井の人間だと続く言葉にアイザックは言葉が出ない、このとき、まさかと思った。
いや、この男に限ってあり得ないと思いながらも聞かずにはいられなかった。
「助手というのは、もしかして、女なのか」
キンブリーは頷いた。
「先生が捜索願を出されているのを知りましてね、それで」
「それは警察の仕事、いや、医者に直接依頼されたのか」
男は首を振った。
「なら、ただ働きにならないか」
「そうですね」
何だ、今の返事は、正直、返す言葉がない、いや、出てこない、これが他の人間なら笑い飛ばして女の気を引く為か、ご苦労な事だ、久しぶりに飲みに行くか、話を聞かせろ、酒の肴に丁度いいと思っただろう。
だが、この男、キンブリーだ、言葉が出て、いや、何を言えばいいのかわからなかった。
退職届は握り潰されてしまった、こうなったら新しい上司に直談判するしかない、しかし、ロイ・マスタング大佐というのは結構な有名人らしい、仕事はほどほどだが、影で画策したり卑怯な手を使い部下の女、恋人を片っ端から奪って横取り、いや、手を出しているらしい。
仕事ができるとか、それ以前の問題ではないだろうか、そんな男が自分の上司か、正直、働く気力も起こらないというか、最初からない。
ただのスケベ野郎だ、そんな男が上司だとは、絶対、退職するぞと決意が新たになったのは言うまでもない。
セントラルの街に着くと宿を取った、今日はゆっくりと街を散策して軍に出向くのは明日だ。
ついでに新しい仕事も見つけたい、そういえば、あの男、キンブリーのやつはどうしているだろう、連絡先を知らない事に気づいた自分に正直、呆れてしまった。
通りに出たときだ、自分の前を歩く人物の後ろ姿が目にとまった、大きな荷物を持ってあるいているが、足下がふらついている。
追い越そうとした瞬間、相手の荷物が地面に散乱した、いや、相手が転んだのだ。
食べ物、果物、水の入ったボトルが地面に散乱する。
「大丈夫か、婆さん」
アイザックは助け起こそうと体を屈めて手を伸ばした、だが、顔を上げた相手は年寄りでも老婆でもなかった。
女が自分の手を取った瞬間、アイザックは、わずかに緊張した。
ここ数日あまり眠っていなかったせいだろう、宿に着いてベッドに横になると、そのまま眠ってしまったらしい、二人部屋で壁際のベッドにはマルコーがいびきをかきながら眠っている。
小さなテーブルの上にはレモンの輪切りがたっぷりと入った水差し、皿が二つ、ナプキンを取ると山盛りのサンドイッチが置かれていた、空腹を感じて思わず手を伸ばすとマルコーが目を覚ました。
「久しぶりに、よく寝たよ、いい気分だ」
腹が減っているだろうとスカーはサンドイッチをすすめた、手を伸ばしかけたマルコーだが、彼女はと尋ねてきた。
たしか隣の部屋だ、呼びにい行こうと思ったが皿の上の紙切れに気づいた、広げて見るが書いてある文字が読めない、マルコーに分かるかと見せる。
「彼女の伝言だ、買い物に行ってくると書いてある」
「読めるのか」
簡単な言葉だけ教えて貰った、だが、日本語というのは難しいと笑いながらマルコーは皿を見た、空になっている、よかったら自分の分も食べるかいと勧めるが、スカーは首を振った。
「食欲が戻ったのかい、いいことだ」
「別に、いつもと変わらん」
素っ気ない言い方だが、彼らしいと思いながらも、ほっとした、行方不明となっていた間、捜索願い、届けを出した方がいいとアドバイスをくれた、自分の事も、彼女の事も気遣ってくれのだ、だが、それを表には出さない為、周りからは誤解されやすい。
不意に壁のコートを取るとスカーは見てくるとドアに向かった。
「ベッドから起き上がろうとしただけで転けてたぞ」
自分も一緒にといいかけたマルコーをスカーは、いいやと首を振った。
「すれ違いになったら面倒だ」
「そうかい、あと、余計な事を言うかもしれんが、もう少し彼女に」
何を言おうとしているのか分かる、だが、それほど器用ではないのだ、自分は。
「言いたいことは分かる、だが、子供ならともかく、危機感がなさすぎる、正直、腹が立つが、責める気はない、悪かったと思っている」
「そうか、おまえさんの顔を見るとだな」
「この顔は生まれつきだ」
自分よりは若いのに婆さんなんて言ってしまった、悪かったと思いながらアイザックは立ち上がった女を見た、ズボンが土で汚れている、転んだのは初めてじゃないのか。
このとき、自分でも驚くような言葉が何故か、すなんなりと出た、家まで送ってやると。
宿に泊まっているんですと言われて、そういえば外見からして、この国の人間じゃないと、改めて気づいた。
女と並んで歩き出したが、しばらくしてアイザックは視線と気配を感じた。
つけられている、自分が任務の最中なら、そういうこともあるだろうが、今は違う、確認するつもりで靴紐がほどけたふりをして地面に屈み込んだ。