「これ、美味しいわ、絶品ね」
クリームを挟んだ生地はサクサクとして美味しいのだが、ミルフィーユというのは正直、食べづらいケーキだ、フォークで切るとパイ生地がぽろぽろとこぼれてしまうのだが、これは手づかみで食べる、それも一口で、だから店によっては普通のケーキよりも小さめのサイズらしいという事をマルコーは思い出した。
「手づかみで食べてもいいって知ってる」
「もしかして、教えて貰ったのかね」
正解と言いながら、食べてと言いつつ、自分の口元に持ってくる、仕方なくマルコーは口を開けてケーキを飲み込んだ、恥ずかしいが、仕方ないと、ここまできたら諦めもつく。
しばらくして、マルコーは自分を睨んでいた男がいないことに気づいた、店を出たのだろうか、大丈夫だろうか、まさか、外で待ち伏せしていて、そんな自分の気持ちを察したのか、出ましょうかと席を立った。
自分が払うとレジに向かうラストに、お茶代ぐらいと言いかけたマルコーに彼女は笑いながら手を振った。
「だったら、もう一つお願いをきいてくれないかしら、医者としてね」
バイト先の本屋に来る客と知り合いになり、話をするようになった、そして今まで色々な医者にかかったが、一向に良くならず、愚痴をこぼしているのよと言われて、そんな事ならとマルコーは引き受けることにした。
だが、これが後になってまずかった。
「そうなんだ、いいんじゃない」
シーツにくるまって床でゴロゴロと転がっている女をラストは困ったわと言いたげな顔で見た、明らかに不機嫌、というより落ち込んでいるのだ。
自分がマルコーを腕のいい医者だと紹介したことが発端なのだ。
時間外診療という事で宿に帰って来た後、軽い夕食をすませて出掛けていくのだが。
「この街だって医者は沢山いるでしょう、先生は忙しいのに」
何故、軍での仕事が終わった後にまで時間外診療なのか、帰りが遅くなってくる日もあって心配だ、そんな彼女の不満そうな口調にラストは仕方ないと頷くが、実際の所、彼女が難しい顔をしているのは、そんなことではないのだ。
「人当たりが良いのよね、ドクターは親身に看てくれるから」
診察が終わっても女はマルコーを引き止めているらしい、世間話や茶を出して、だ。
ドクターもモテルのねと笑うラストを見て彼女は、むっとした顔で見た。
「この街にも医者は沢山いるんでしょう、しかも主治医になってほしいって、それはどうかと思うんだけど」
「金持ちの未亡人だし、亡くなった夫は軍の関係者だって言ってたから少し強引なところがあるのかもね」
その言葉に、彼女の表情がわずかに暗くなる、あら、ちょっとまずかったわねとラストが思ったのも無理はない、未亡人はマルコーの事を根掘り葉掘り聞いて、自分の主治医になってくれたらラストにも礼をすると言い出したのだ。
マルコーの性格からして、まさかと思うが、なあなあになってしまいかねない、まずいわねえとラストは考えた。
「先生に看て頂くようになって、とてもよくなってきたんです、本当に感謝していますわ」
女性の言葉に、それは良かったとマルコーは帰り支度を始めた。
お茶をと声をかけてくるが、内心、早く帰りたい、最初は軽い気持ちで引き受けたが、今になって多少の後悔を感じていた。
主治医になって欲しいと言われて一度は断ったのだ、それだけではない、この街、セントラルで開業してはと言われたのだ、そんなつもりは毛頭無ない、イシュヴァールの、あの診療所があってこそなのだ。
ブリックス行きの事を話すと亡くなった夫が軍の関係者だという、予想もしなかった台詞を口にするのだ。
どうやって断ればいい、相談できる相手は一人だ。
「ドクター、モテルのね」
「馬鹿な事を言わんでくれ、開業資金まで出すと言われたときは驚いたよ、その、なんだ」
多分、あの未亡人は強引に迫ったのではないだろうか。
美夜には言わない方がいいわよと言われてマルコーは、ぎくりとした顔になった。
「落ち込むわね、そんな話を聞いたら、ううん、撃沈かしら」
マルコーは一瞬、顔を歪めた。
「仕方ないわね、私が紹介したせいだし、なんとかしましょう」
なんとかって、どうするつもりだ、不安を感じたのも無理はない。
その日、診察が終わるとマルコーを迎えに来たラストの様子に未亡人は不思議そうな顔で彼女の左手を見た、すると気づきましたと言わんばかりにラストは口づけ、プレゼントなんですとマルコーに向かってチラリと視線を向けた。
「あら、そうなの、もしかして」
するとラストは、まさかと笑いながら、いるんですよとドクターにはと軽く指をひらひらとさせた。
「独り身だと思っていましたけど、ドクターは」
とんでもないとラストは肩を竦めた。
館を出たマルコーは安心しながらも不安になった、隣を歩くラストを感心しながら見てしまう、自分が妻帯者だなどと、よくもあんなでまかせを言えたものだ、軍では結婚もしたことがないのは皆が知っているというか、周知の事実だ、あの未亡人が知ったら文句の一つでも言ってこないだろうか。
「知り合いに眼鏡をかけた医師がいたでしょ、彼に頼んだらいいわ、診療は今日で終わりよ、結構しぶといわね、あたしの話も疑っていたし、仕込みをしておいたほうがいいわね、ドクター、少しぐらいは余裕があるんでしょ」
「余裕って、一体、何をだね」
「給料何ヶ月分がいいかしらね」
だが、そこまで言われても何補言われたのか、マルコーにはわからなかった、だが、にんまりとした彼女の笑みを見て、はっとした。
「ええっ、先生と夫婦って、それは」
ほら、やっぱり無理がある、宿に帰り、ラストの提案したフリでいいから夫婦になろうというとう作戦を聞いた彼女は無言になった。
「いや、その、これには、色々と理由が」
相手が病人で治療の説明や病状を説明するのとは訳が違う、内心焦りながらマルコーは、どう言って説明すれば良いのかと迷ってしまった。
そんな自分の様子を横で見ていたラストはじれったいといわんばかりに、面倒ねと呟きながら言った。
「フリじゃなくて、事実にしてしまえばいいんじゃない」