友人日記サイトに、「僕はゴダールの『気違いピエロ』が好き」、などと書き込んだことが発端だ。書き込みながら、それにしても「気違い」なんて、今にして思えば大胆な言葉を使ったもんだなあと、ふと思ったりした。
それについて、一世代若いウェブパルから、自分は『気狂いピエロ』だと思っていたとの発言あり、ウェブで検索すると確かに『気狂いピエロ』で出ている。
気狂いピエロ
ははあ、いわゆる差別語問題における規制による改題だったのかと納得した。この映画は65年の制作で、当時は「差別語」という概念はまだなかったように思う。『気違いピエロ』の原題は『Pierrot Le Fou』、調べたらfouというのは英語でinsane、『気違いピエロ』は特に意訳でもなく、まあ直訳邦題だった。
で、『気狂いピエロ』の方だが、関係者の苦肉の策なのだろうが、「気狂い(きぐるい)」って言葉、聞いたことがないので変なの、と思ったのだ。ATOKで変換すると「器具類」になってしまう。「気違い」だってすんなり変換されなかった。
それで、いろいろ「差別語」を思いつくまま、漢字変換しようと試みたが、見事に変換されないのでちょっと驚いた。僕の知らぬ間にこうした言葉が世の中から完全に抹殺されてしまったのかと思い、三省堂「明解国語辞典」を引くとみーんな、しっかり出ている。
ちょっと癪に障ったので、ATOKの単語登録機能を使って思いつく差別語の漢字変換を登録した。
気違い、盲、唖、聾、跛、小人、癲癇、支那ーこれらの言葉はATOKでは変換されなかった言葉だ。何とATOKは自主規制していたのだった。これにはちょっとビックリ。
で、ふと「ことえり」ではどうだろうと思って(僕のMacには「ことえり」と「ATOK」の2種類の文字変換ソフトが入っている)、「ことえり」を試すと上記の「アブナイ言葉群」は見事に変換された(一発変換ではないものもあるが、選択肢にちゃんと入っている)。
Mac信奉者でさえ、「ことえり」はちょっと(機能面で)、というのがあるが、こういうところで「気概」を感じたりした。文字変換ソフトが自主規制してどうする! と僕はATOKに言いたい。
放送コードや映倫、出版社の自主規制などは、必要悪な部分もあるとは思うが、できるだけ少ない方がより自然で成熟した文化国家という気がする。「言葉狩り」問題で断筆した筒井康隆の例にもあるように行きすぎるとほんとに低レベルの論争になってしまう。まだまだ日本はこういった部分、成熟してないなあ、と思うのだった。
気違い沙汰、盲滅法、聾桟敷、支那そば、こうした言葉、若い世代は知らないかもしれない。差別語という概念を設けることで、差別する心をなくそうというのは短絡だという正論がある一方、ますます世の中は短絡思考の方向に向かっているような気がする昨今であります。
追記、ATOKで「支那」は変換されなかったが「三国人」は一発変換できた。差別語自主規制するのなら、これは「片手落ち」ではないか。「片手落ち」っていうのも差別語?
それについて、一世代若いウェブパルから、自分は『気狂いピエロ』だと思っていたとの発言あり、ウェブで検索すると確かに『気狂いピエロ』で出ている。
気狂いピエロ
ははあ、いわゆる差別語問題における規制による改題だったのかと納得した。この映画は65年の制作で、当時は「差別語」という概念はまだなかったように思う。『気違いピエロ』の原題は『Pierrot Le Fou』、調べたらfouというのは英語でinsane、『気違いピエロ』は特に意訳でもなく、まあ直訳邦題だった。
で、『気狂いピエロ』の方だが、関係者の苦肉の策なのだろうが、「気狂い(きぐるい)」って言葉、聞いたことがないので変なの、と思ったのだ。ATOKで変換すると「器具類」になってしまう。「気違い」だってすんなり変換されなかった。
それで、いろいろ「差別語」を思いつくまま、漢字変換しようと試みたが、見事に変換されないのでちょっと驚いた。僕の知らぬ間にこうした言葉が世の中から完全に抹殺されてしまったのかと思い、三省堂「明解国語辞典」を引くとみーんな、しっかり出ている。
ちょっと癪に障ったので、ATOKの単語登録機能を使って思いつく差別語の漢字変換を登録した。
気違い、盲、唖、聾、跛、小人、癲癇、支那ーこれらの言葉はATOKでは変換されなかった言葉だ。何とATOKは自主規制していたのだった。これにはちょっとビックリ。
で、ふと「ことえり」ではどうだろうと思って(僕のMacには「ことえり」と「ATOK」の2種類の文字変換ソフトが入っている)、「ことえり」を試すと上記の「アブナイ言葉群」は見事に変換された(一発変換ではないものもあるが、選択肢にちゃんと入っている)。
Mac信奉者でさえ、「ことえり」はちょっと(機能面で)、というのがあるが、こういうところで「気概」を感じたりした。文字変換ソフトが自主規制してどうする! と僕はATOKに言いたい。
放送コードや映倫、出版社の自主規制などは、必要悪な部分もあるとは思うが、できるだけ少ない方がより自然で成熟した文化国家という気がする。「言葉狩り」問題で断筆した筒井康隆の例にもあるように行きすぎるとほんとに低レベルの論争になってしまう。まだまだ日本はこういった部分、成熟してないなあ、と思うのだった。
気違い沙汰、盲滅法、聾桟敷、支那そば、こうした言葉、若い世代は知らないかもしれない。差別語という概念を設けることで、差別する心をなくそうというのは短絡だという正論がある一方、ますます世の中は短絡思考の方向に向かっているような気がする昨今であります。
追記、ATOKで「支那」は変換されなかったが「三国人」は一発変換できた。差別語自主規制するのなら、これは「片手落ち」ではないか。「片手落ち」っていうのも差別語?