人類猫化計画

「基本的な生き方は猫に学べ!」を提唱するイラストレーター●山下セイジの猫並みな日々雑感記

刻んで生きる

2008年03月17日 17時44分52秒 | 猫並み日記
かつて「共同幻想論」という70年代サヨク活動家のバイブルとされたような本がありましたが、僕など70年代初頭の屈折少年時代、団塊兄の書棚にこの「共同幻想」なる文字が躍る背表紙を見つけ、何故かわくわくする心持ちでパラパラとページをめくるが、何が書いているのかさっぱりわからず、しかし、つまり世界は人々の集団的、共同的幻想によって成り立っていると、確かな実体などないんだよ、みたいなことは分かったような、わからないような。そうか、あれもこれも幻想だったのか、道理で世の中は無知で繊細な少年にとってすごく理不尽にできているのか、なーんだ幻想であれば、そういう前置きでそれなりの生き方をすればいいのかと少年なりに解釈したのでした。

その本を書いたのは吉本隆明、ばななのパパですが、彼の近著「幸福論」というのを読んでいて、こちらはすすごく平明、彼が茶でも啜りながら、たらたらと語ったことを編集者が聞き書きしたような、口承体というのか、そういうご本。活字もでっかくて僕のような「老眼の微老人」には読みやすい。

結局、いろんなことは悩んでも仕方ないことで、つきつめて深く考えたところでいいことはないよ、と仰有っている。だから、日々、今日は旨いパンを食ったからそれでいい一日だったことにしよう、とか、今日がイマイチだったとしても、明日もイマイチと限らないし、悪いことはそんなに長く続かない、まあ、良いことも長く続かないけどね、みたいにひょうひょうと語っている。めちゃくちゃ深くいろんなことを考えたワタシ(吉本さん)が言うんだからホントだよ、みたいな感じなんですね。

「刻んで生きてみよう」というのが、この本のテーマで、長いスパンで先のこと心配したって鬱になるだけで、いいことはない。結局、老いて朽ちて死んでいくことから人間はどうしても逃れられないわけで、そのことが分かっていながら、そのことをつい考え、心が鬱っぽくなるのは、わかりもしない先のことを考えるからであって、だから先のことはなるべく考えないで、とりあえず「刻んで」いきましょう、と。まずは今日一日、明日、明後日くらいまで、やるべきこととか。で、1週間くらい刻んだら、またちょっとちょっと刻んで生活する、ということです。


1月は55才になったこともあって、「今年はGo! Go!」なんて息巻き、お気楽ウクレレモードで年初は過ごしましたが、2月に入り、なんとなく懸念し、「こうなったらちょっとやだなあ、困るなあ」と思っていた「最悪のシナリオ」が現実のものとなり、途端随分落ち込みました。若い頃はよく落ち込んだけど、近年最悪の精神状態であった。で、どうにかしないといけないので、根が真面目な僕はやるべきことを考え、せっせと事態改善のための仕事をしてまいったわけです。

それで、なんだか忙しくなって、基本的に猫並の生活がベースですから、とにかくやるべきことが多くて、ここ2週間くらいは死ぬほど忙しかった。フリーランスが「忙しい」と言えば、「それはけっこうじゃないの」と思われますが、先月から今月にかけての忙しさはあれですから、啄木的「ぢっと手を見る」類の忙しさ、働けど、働けど、です。

ところで、一昨日は僕が授業をやっている学校の卒業式でした。式が無事終わり、そのあとの謝恩会でスピーチをしたのだけれど、保護者、生徒の前で喋っている内、ふいに万感迫るものがあって、泣けて、泣けて。今回で17回目の卒業式ですが、今までうるっと来ることはあっても、ここまで言葉に詰まり、涙を抑えることができなかったことはなかった。

君らはとてもとても不器用にしか生きられないだろうけれど、小器用にずるく、人を出し抜いて生きるような人間に比べれば、ずっと素晴らしいよ、俺はね、君らが何故か大好きなんだ、だから、こんなに長くやってるんだよ、とかぺらぺら喋っている自分の言葉に酔って、ビールも大分入っていたので、ビールにも酔って、もうみっともないくらい泣いちゃいましたね。一昨日までめちゃくちゃ忙しかったから、その疲れ、安堵感もあって、涙腺は緩みっぱなし。

それで、昨日は虚脱状態。な~~~にもやる気になれない。今日になってもなんだか気持がそぞろで、やるべきことに手が着かない。久しぶりに日記でも書こうか、と思ったのでした。昔、フランキー堺がB級戦犯を演じ、絞首刑となるテレビドラマ「私は貝になりたい」なんてのがあったけれど、「私は猫になりたい」よ、まったく、と向かいのアパートの片隅に座り、春の日差しをあびてうつらうつらしている近所猫を窓から眺め思ったのだった。

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