人類猫化計画

「基本的な生き方は猫に学べ!」を提唱するイラストレーター●山下セイジの猫並みな日々雑感記

イイニクキュウの日

2005年11月30日 01時32分08秒 | 猫並み日記

過ぎてしまったが、11月29日は「イイニクキュウの日」ということらしい。基本的に猫好きは肉球好きでもある。と思う。

ふにふに、ぷにゅむにゅの感触が好きで、猫の前脚持って自分の顔にぺたこたさせたりするが、大抵の猫はそれを嫌がり、前脚をぐーっとつっぱって「いやいや」をする。

それがまた嬉しくて、強引にぺたこたさせる。肉球,舐めんばかりに。そんなことをしていて、ふと猫の肉球の間を見ると、猫トイレの砂が入っていたりする。一瞬、うげっ、と思うが、すぐに同じ事をしてしまう。猫好きはたぶんちょっと変態なのかも知れない。

僕は、実は(って言うほどのこともないが)肉球より猫の鼻が好きだ。濡れた鼻が少し乾いてひんやりとしている状態。子どもの時からそうだった。でも、鼻に触れるとやはり大抵の猫は嫌がる。嫌がられても、する。猫好きはけっこう自分本位な人間なのでは、と思う。

画像左:以前にも登場したお隣のチーちゃん。このコの肉球は桜色でなかなか上質。寄りすぎてぶれてしまったが。

画像右:肉球まんじゅう、じゃなくて「猫の手まんじゅう」、猫好きな人しか、たぶん買わないと思う。

まわり見て歩こう繁華街

2005年11月29日 15時46分52秒 | 猫並み日記

僕は方向音痴だが、その理由の一つに「まわりを見て歩かない」ということがある。単一指向性。

散歩ロードなど、のどかな場所では視線はあちこちと彷徨うが、都市部繁華街を歩いていると、気がつけば遮眼帯をつけた競走馬のようになっている。ビルの街は僕にとっていつまでも迷宮だ。

昨日はアメリカにいたときの旧友(在米日本人)と久しぶりに会うことになって、新橋に出かけた。新橋というロケーション、僕の人生にあまり縁がなく、地理にも当然疎い。

電車の遅延もあって、JR駅に着いたときは約束時間を少し超えていた。焦り気味に約束場所に向かっていると、歩いている僕の視野(狭い)の片隅で変なおじさんが「ちょっと、いいですかー」と僕に声をかけた。

一瞥して、なんかの勧誘だと思い、「急いでるんで」と振り払ってずんずん歩いていった。と、そのおじさん、追いかけてきて、また「ちょっと、いいですかー」。無視して行こうとすると後ろからむんずと肩を掴まれ、「まわり見て歩こうよ」と。

さすがに少し恐怖を覚え、件のおじさんを凝視したら、会うことになっていた僕の友人でした。

たぶん、彼は建物の陰かなんかに潜んでいて、歩いている僕を見つけ、「ちょっと、いいですかー」と声をかけてみた。そういうイタズラめいたことをやるのが好きな友人ではあります。

というわけで、その友人とお世話になっている同行の編集者T氏とおされな居酒屋で串焼き食べつつ、杯を交わし、旧交を温めたのでした。

「まわり見て歩こう繁華街」、忘年会シーズンの直前、これを当面の標語としたい、とかように思ったのでした。


画像は昨夜行った、オープンしたばかりの銀座の居酒屋「泡沫(うたかた)の恋」店内。
http://r.gnavi.co.jp/g600115/

「泡沫(うたかた)の恋」を友人は「ほうまつの恋」と読み(普通、そう読むよね)、笑った。このお店、長続きするだろうか。

電飾ハウス2005

2005年11月27日 02時26分17秒 | 猫並み日記

近所(歩いて30秒)の名物電飾ハウス。今年も点灯開始。

ええっ! もうクリスマスかよ! もう今年は終わりかよ! もうすぐ正月かよ! かよかよと毎年、この時期になると月日の経つ早さに焦りまくっていたが、もはや今年は言うまいと。素直に過ぎゆく年を見届けようと。かように思っとります。

授業をサボって称名寺

2005年11月26日 15時03分10秒 | A学院のこども達

僕が90年代初頭から関わっているアンデルセン高等学院は、京浜急行金沢文庫駅から徒歩7分くらいのところにあるが、学校からさらに東方向、歩いて5分くらいのことろに称名寺という寺がある。

境内はもとより、界隈の野原や公園には生徒を引き連れての散策、ボール遊びの場として大変お世話になっている。

桜の名所としても地元では有名だが、晩秋の紅葉風景もなかなかのもの。昨日、日和も良く、授業にも飽いたので(僕が)、思い立って午後、生徒を引き連れて称名寺散策に出かけた。

生徒はいつでも教室の中より外の方が好きなので、「称名寺に行こうか」と言うと「わーい!」と。可愛い奴らだ。先生だって授業をサボりたい時はある。

というわけで、小一時間の称名寺リトル・ツアー、紅葉の色づきはもうひとつだったが、銀杏の黄色はなかなか見事だった。

ここでは、水彩スケッチなどしている趣味の方々が多く、今日もそこここでイーゼルを立てて、みなさん、おもむろに筆を走らせていた。僕もアンデルで教え出して最初の頃、美術の時間に生徒を連れて、よくここで写生をさせていたものだ。

その頃、やんちゃな男子生徒がいて、写生の最中、友達との口論から、何を思ったか、いきなり池の中にざぶざぶと入っていった。その後のことは良く覚えていないのだが、ずぶぬれのその生徒と称名寺の関係者の方に平謝りしたことを覚えている。十数年前のことだ。Sという名前の生徒、元気にやっているだろうか。


画像左:銀杏越しの朱塗りの橋。どこを撮っても「絵葉書」のようになる。
画像右上:称名寺赤門、くぐるとそば屋などあり、多少俗っぽい。
画像右下:晩秋の午後の陽射しに透ける紅葉。境内奥からのショット。

猫探知の技術と応用

2005年11月26日 01時36分22秒 | 散歩下がって猫を撮る

第1ステージ:猫発見。(注1)
第2ステージ:近寄る。(注2)
第3ステージ:語りかける。(注3)

注1:基本的に建物、敷地の隅、路地、後ろが塀、柵等でふさがれている場所がねらい目。今の時期であれば、陽の当たる場所。

注2:「さりげなく」をこころせよ。猫をあまり注視せず、時折よそをみながら、じわりと。この段階(猫から3メートル~5メートル圏内)でしばし立ち止まり、当該猫に「念」を送る。「私は君の味方だよ」と。

注3:当該猫が「オッケー」と答えたら、再度さりげなく、ぐっと近寄り、できるだけ優しく柔らかな声音で「やあ」と語りかける。軽く舌をチッチと鳴らすのも良い。


このコは半年ほど前にも「車の下の猫」として登場した。久しぶりに会った。元気で良かった。

散歩ロード・1周年

2005年11月24日 19時51分37秒 | 散歩下がって写真を撮る

今日は幾分暖かい。小春日和。

散歩ロードの柿の木もおよそ収穫され、わずかばかりの実を残しほぼ全裸の木となっていた。全裸より色っぽい。うーん、例えがちょっとエロだった。

今年は、柿は豊作だそうだ。そう言えば、昨年の今時分より柿の実の朱色が目につくような。

と、こんな事を言えるのも、ちょうど1年前の今頃、近隣川沿いの遊歩道を歩くことを始めて、めでたく1周年を迎えることとなったからなのでした。日課とまではいかないが、そこそこ散歩は続いている。この1年、ぎっくり腰にもならなかった。病気ひとつしなかった。後は、ウェストをもう少し絞り込んで、もう少しかっこいいおじさんになりたい、と思うのであった。。

散歩するのが
腰にいいと父が言ったので
今日は「散歩記念日」


画像下は先日アップした「10月桜」のアナザー・プレイス、アナザー・バージョン。柿の実の向こうに桜。

「みんな貧乏になる」が環境問題の解決策

2005年11月23日 05時12分17秒 | イラストレーション

夏の終わりくらいからずっと関わっている、子ども向け環境問題の本のイラストレーション仕事が終わりに近くなってきた。

先程、とりあえず最後に残ったコラージュ2点(フォト・コラージュの仕事は思えば初めてかな)を送信して、後は監修待ちの最終仕上げが残るのみ。

終わりが近づいたから言うわけではないが、この仕事、今までのイラスト仕事の中で一番難しかった。本来の自分のスタイルとは違うことは承知で受けた仕事だが、案の定、けっこう苦労した。

それにまあ、この「環境問題」。まじめに論じれば論じるほど、心にひゅうひゅうと秋風がたつような。誤解を恐れず申し上げるなら、「けちくさい」し、「しみったれている」し、ペシミスティックだし、何より欺瞞に満ちた論調が目につく。

「地球に優しい」という言葉がいい例だ。この言葉が嫌いなのはやっぱりその欺瞞ぽいからですね。人間ごときに「優しく」されようとされまいと地球は別に屁とも思ってないのではないか。人間がやりたい放題して地球が破壊されるのではなく、そのことで人間自身が自分の首を絞めているだけなんで、人類滅亡しても地球は存続するんですからね。

いや、僕は基本的に環境擁護派だし、車も持ってないし、生活も質実な方だし、破壊と創造のお祭り20世紀の負の遺産をしこしこ返していくことしか、人類の存続はないことは明かであることはよくわかっている。

分かってはいるが、環境相だかの小池某なぞに「クールビズ」やら、冷房温度を28度に、なんて政府主導のけちくさい「指導」されるとウザイ。

自治体からしちめんどくさいゴミの分別を指導奨励されると何かムカツク。きまじめな僕の母はゴミの分別をこんがらがった頭で悲愴な顔をしてやっていた。包装の簡略化、プラスティックを使わない容器の必要性が叫ばれて相当たつのに、いっこうに目に見えての変化は伺われない。製品とともに膨大なゴミを生産している製造業者に対しての規制を強化したり、責任を問うことはあまりない。ゴミは製造業者が仕分けしろ、と言いたい。

何故、そうならないか、答えは簡単。経済原則と環境保全は原則的に相反するからだ。たくさん売ってたくさん買って豊かになる図式は変わっていない。物資的にもそこそこ豊かでありたいし、地球環境にも「優しく」ありたいなんて欺瞞でしょう。

ぐだぐだ書いてしまったが、ピカピカの「ハイブリッドカー」の乗用車なぞ見ると、それは「地球に優しい」のだろうけど、何なら車なぞ乗るのを止めたらいいではないか、と思うのだ。

えーと、何が言いたいか、環境問題はシリアスであることは間違いないが、妙に気取ったエコ文化人にはなりたくない。みんな貧乏になればいい。みんな不便になればいい。けっこう豊かな人間本来の生活が待っていると思うんですけど。バック・トゥ・江戸時代あたりね。


そうは言っても、こうやってパソコンつけっぱなしで、暖房つけて、よっぴいて起きているわけで、偉そうなことは言えませんけどね。何というのか、これだめ、あれだめの「環境全体主義」の臭いが少し、嫌なんですね。

これからもほどほど貧乏に生きていきます。「地球に優しい」僕。

散歩ロード・花折々ー晩秋~初冬編

2005年11月22日 04時43分52秒 | 散歩下がって写真を撮る

「散歩が趣味」と吹聴しているが、このところサボリがちであった。今日は午後、郵便物を出しついでにヒット・ザ・散歩ロード。そろそろ初冬の気配がする「黄昏の散歩ロード・正規ルート」を1周、およそ4000歩をたったと歩いた。

で、久しぶりの「散歩ロード・花折々ー晩秋~初冬編」。

画像:上「十月桜」というらしい。僕はこの歳になるまで、冬に桜が咲くなんて知らなかった。いや、ぼんやりと知っていたかも知れないが、それがどうした、というくらい風流、風雅のセンスがなかった。

デジカメ片手に散歩するようになり、何となく道ばたや軒先に咲く花を撮るようになって、急にネイチャー派おじさんになったが、花に関してはにわか仕立ての付け焼き刃の知識しかなく、それ故、けっこう自分なりの発見があったりしておもしろい。

とにかく、歩いていて民家の軒先に桜が咲いていたのでちょっとびっくりしたのだった。春の桜のあでやかさとまた違って、クールで透明な初冬の空に咲く桜は凛としてなかなか美しい。

本来、陽気で明るく、こぼれんばかりに艶っぽい女優が、暗いトーンの悲恋系映画に出演し、まあ、それは妻子ある男と不幸な恋に落ちるというありがちなストーリーで、彼女は絵に描いたような薄幸の人生を辿るが、愛する男との逢瀬のひとときに、時折見せる穏やかな笑顔のような感じだ。冬の桜。


画像下左:童謡「たき火」の♪さざんか、さざんか、咲いている、の山茶花。寒椿との違いは、寒椿は一度に全部の花弁が落ちてしまうのに比べ、山茶花は一枚一枚花びらが散っていく、とのこと。背丈が高いのが山茶花で、これは背丈が高かったので山茶花であろう。付け焼き刃の知識だが。

昔、山茶花究という俳優がいた。3×3=9ということですね。八波むとしという喜劇役者もいた。これは8×8=64。他には思いつかない。八波むとしの弟子で七波五十六(いそろく)とか。


画像下右:これが菊であることはさすがの僕にも分かる。菊にもいろいろ種類があるのだろうが、そこまでは知らない。黄色と白と赤色の菊が寒空の下、笑顔を振りまいている。でも何となく公明党のおばさんのような笑顔だ。いや、この菊が植わっている花壇のすぐ側に公明党の支部があるので。他意はない。

Gavin Bryars「Jesus' Blood Never Failed Me Yet」

2005年11月20日 04時04分25秒 | 映画やら音楽やら小説とか

♪みなさま、変わりはないですか
日ごと、寒さがつのります~
さして金にはならぬけど
寒さこらえて描いてます~

ところで、僕は眠れないタチだ。僕の不眠症は母親譲りで、近年は無理して眠ろうとせずにどろどろに眠くなるまで起きていて、しかるのちばったり眠るという誠に不規則な生活習慣だ。

眠らなきゃ、と念じて目を閉じ、暗闇の中で空しく過ぎていく時間がもったいない、と思うようになったのだ。時間が有り余るほど目の前に横たわっていると思えた時はいつしか過ぎ去り、人生の第3コーナーにさしかかっていることを思えば、眠る時間は仕方ないが、眠ろうとしていて眠れない時間は空しく時間を消費している感じがする。

毎週2回、早起きして学校の仕事をしているが、当然当日はいつも寝不足で、しかし僕の場合、寝不足だと妙にテンションが高くなるので、常時テンション高めの生徒を相手にするのに特に不都合はない。授業が終わるとぐったりして非常に疲れはするが。

早起きも毎日のことではないので、週末は寝だめをする。それで、まあ、とりあえず問題はない。しかし、明日は早いから早めに眠りたいな、と思うときにすっと眠れたらいいなとは思う。睡眠導入剤の類を何度か試したことがあるが、最悪だった。

眠る前、ずっと本を読む習慣があったが、最近本を読むかわりに音楽を聴くようになった。ヘッドフォンでかなり大音量で聴く。暗闇の中で目を閉じて真剣に聴く。何も考えないでとにかく集中して聴く。これが眠気を誘う。なかなかいい。

で、最近の「眠りにつくための音楽」としてのお気に入りがGavin Bryarsの「Jesus' Blood Never Failed Me Yet」という楽曲。

ギャビン・ブライヤーズはイギリスの音楽家で、ミニマル・ミュージックというのか、お芸術系の音楽の人で、トム・ウェイツのクレジットがあったので随分前このアルバムを入手したのだが、最初一、二度聴いて「何じゃこりゃ」と思い、ずっと聴くこともなかった。

ところが「眠りにつくための音楽」としてベッドルームの闇の中、目を閉じて聴くと、これがすこぶるいい。なんともハート・ウォーミングて豊かで深遠な音楽だ。

ブライヤーズは、彼の友人が製作した映画の中で、ホームレスの老人が口ずさんだ短い宗教歌を、テープ・ループにし、オーケストラゼーションを徐々に加えることで、甘美でセンチメンタルな楽曲に仕上げた。

Jesus' blood never failed me yet
Never failed me yet
Jesus' blood never failed me yet
There's one thing I know
For he loves me so...

歌詞はこれだけ。遠くから、打ちひしがれたような、それでいて妙に明るくオポチュニスティックな歌声が聞こえてくる。独特なリズムと間。それにシンプルな弦がからみ、次により厚い編成の弦楽が被さり、次に管が加わり、フルオーケストラへと、徐々に徐々に楽曲は甘美でノスタルジックな色を帯びてくる。

後半、老人の枯れた歌声はトム・ウェイツのそれにとってかわり、トム・ウェイツがオーケストラをバックに切々と歌い上げていく。ぐわーっと盛り上がって終わるかと思えばまた始まる、もう終わるだろうと思うとまた始まる、ああついに終わると思うとまた…。どこまでも持続するクライシス。

1分にも満たないメロディーが、とにかくCDいっぱい74分続くわけです。

Jesus' blood never failed me yet
Never failed me yet…………………
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……………………………………………

だんだん眠くなる、だんだん眠くなる、だんだん眠くなる…、
というわけですね。不眠症の僕でさえ、トム・ウェイツが登場する前に眠りに落ちてしまう。

ということで、不眠症気味の方は是非、聴いてみて。

Gavin Bryars Official HP
サンプル音源