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慶応ボーイの植木屋修行

ランドスケープアーキテクト福川成一のエッセイとオーベルジュ・スミの庭の記録

私たちのもてなしの庭

2007-01-11 16:15:53 | オーベルジュ・スミ物語
 父はベットの中から『植木屋はもう帰ったか』と何度もたずねた。もう父がこの一日二日で死ぬことは私も母も、そして何より父自身がよくわかっていた。今、父の最後のもてなしである葬儀のために、私は植木屋を急ぎ手配して庭の手入れをさせていた。白い花以外はすべて摘ませた。父は皆さんが駆けつけた時、植木屋のトラックがあったり、道具類が散乱しているのではないか、と心配していたのである。皆を迎える準備が整うまで生きようと思っていたのだろう。

現在の庭 その夜、私達家族と丁度見舞いに来た、いとこ夫妻と日本酒で乾杯し、静かに混濁して明くる日、天国に旅立った。庭は父を送るために、芝の緑がいまだかつてない程の美しい刈り後の縞を見せていた。私も母も、不思議な満足感で涙は出なかった。 父にガン宣告をし、6ケ月の命といわれてから自宅で18ケ月の間、ほんとうに何人もの方が見舞いにいらっしゃり、もう二度と会えないことを双方が理解しての大切なそれぞれの感謝の気持ちを聞くことができた。父が多くの人々とすばらしい知己を得ていたことがよくわかった。父が死んでもこの草一つ混じらない芝生の緑が私達をしっかりと支えていてくれた。父が死んでも、庭と共に父の風景は生きたままだった。


私の父はもてなすことに生きた人生だつた。休日は良く友人を招待していた。母は料理が得意で、おいしい食事とレコードの音楽でもてなした。私は中学・高校時代は御客様の喜びそうなレコードを選び、又会話に合わせてレコードをかけ替える係だった。私が大学生になってまもなく御殿場に引っ越すことになった。父は当時1、2ケ月は海外に仕事で行き、そこで外国人の友人達の温かいもてなしに感激していた。彼らと同じように自分の家に招待し、家族でもてなしたいと考えたからである。富士山の麓に奮発して千坪の土地を買い、家を建て、庭を作る前に国旗掲揚塔を二本立てた。彼等が来た時、日本の旗と彼等の国旗を立てるためである。

こうして30年程前、この庭は生まれた。
建物が出来た頃 家が建つ前の最初の焚き火


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