律令、すなわち法典に基づく国家体制を構想した天武天皇は、体系的な律令の編さんを開始します。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)といわれるものです。681年から9年を掛け、全22巻が姿を見せたのは、天武天皇の没後3年たった689年でした。前回説明した官僚制度、位階制度などはこの令の施行によって進められていくんですね。
一方、694年、朝廷は三方を山に囲まれた手狭な飛鳥から、大和の平野部に乗り出します。奈良盆地の南方につくられた藤原京です。天武天皇の亡き後、志を継いだ持統天皇が建設した、日本初の首都の出現ですね。それまでの天皇が所在した飛鳥、難波、近江などは、あくまで天皇の在所、宮(みや)を中心とした空間でした。これがはるかに大規模な都(みやこ)、つまり都市となったのは、この藤原京が最初です。唐の都にならってつくられた碁盤の目のような整然とした都市計画だったんですね。
『日本書紀』には、683年に天武天皇が出した「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)があります。「銀銭」とは当時、貨幣のように使われていた無文の銀の地金を指しますが、それを禁じて、「銅銭」使うよう命じた。これが、唐の制度を倣って初めてつくられた日本の貨幣、富本銭(ふほんせん)です。
初めて今の造幣局にあたる鋳銭司(ちゅうせんし)がつくられ、富本銭はそこで鋳造されたんですね。藤原京では、さらに708年(和銅元年)に、有名な「和同開珎」がつくられます。ちなみに和同開珎の銅銭1つで、今のお金にすると7千~8千円の価値だといわれていますね。
ところで、capitalという英語は、知っていますよね? 「首都」という意味と、「資本・資金」という両方の意味があります。天武天皇と持統天皇の国づくりの基本は、まさにcapitalプラン、藤原京という都市づくりと、国家による通貨をもとにした経済制度の構築にあったのですね。こうして日本という国の骨格が浮上してくるのです。
国内に落ち着きと新たな繁栄が見え始め、天皇の権威が高められた藤原京の宮廷には、柿本人麻呂のように天皇を和歌で歌い上げる歌人も登場します。とくに有名な歌があります。
「大君は神にしませば 天雲の雷の上に庵せるかも」
天皇は神であるから天上界の雲上の、雷のその上に、庵を建てることでしょう、という意味です。人麻呂は和歌にひそむ言葉の力をつかって、天皇が神の権威をもっている、と告げているのですね。
もう一つ、大事なことがあります。国内がまとまる一方で、天武天皇や持統天皇は、戦争で緊張した当時の国際関係を緩和させていく。しかし、従来の倭国の国号のままでは、それまで戦ってきた唐や新羅との交渉が難しかった。そこで初めて「日本」を国号とすることを正式に定めたんですね。
702年、実に32年ぶりとなる遣唐使を唐に派遣するんです。そのとき、使者は中国側に、壬申の乱によって唐と戦った倭国は滅び、「日本」という新しい国ができたと主張した、と平安初期の歴史書『続日本紀』が伝えています。唐の歴史を記した中国の『旧唐書(くとうじょ)』東夷伝(とういでん)にも、この時代に初めて「日本国は倭国の別種なり」と「日本」が記されました。こうして東アジアの中で「日本」というものが認められたのです。いよいよ日本国の出発となったんですね。
さあ、ここでもう一人の天才が藤原京に現れます。鎌足からの藤原姓を継いだ最初の世代、次男の藤原不比等(ふじわらのふひと)です。今後、まったく独自なキーマンとして目が離せない存在、藤原氏の活発な国家プランニングが、ここからまさに本格化するんですね。
【次回は8月5日(木)、03 「日本」の出現、Z=藤原不比等の1回目です】
一方、694年、朝廷は三方を山に囲まれた手狭な飛鳥から、大和の平野部に乗り出します。奈良盆地の南方につくられた藤原京です。天武天皇の亡き後、志を継いだ持統天皇が建設した、日本初の首都の出現ですね。それまでの天皇が所在した飛鳥、難波、近江などは、あくまで天皇の在所、宮(みや)を中心とした空間でした。これがはるかに大規模な都(みやこ)、つまり都市となったのは、この藤原京が最初です。唐の都にならってつくられた碁盤の目のような整然とした都市計画だったんですね。
『日本書紀』には、683年に天武天皇が出した「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)があります。「銀銭」とは当時、貨幣のように使われていた無文の銀の地金を指しますが、それを禁じて、「銅銭」使うよう命じた。これが、唐の制度を倣って初めてつくられた日本の貨幣、富本銭(ふほんせん)です。
初めて今の造幣局にあたる鋳銭司(ちゅうせんし)がつくられ、富本銭はそこで鋳造されたんですね。藤原京では、さらに708年(和銅元年)に、有名な「和同開珎」がつくられます。ちなみに和同開珎の銅銭1つで、今のお金にすると7千~8千円の価値だといわれていますね。
ところで、capitalという英語は、知っていますよね? 「首都」という意味と、「資本・資金」という両方の意味があります。天武天皇と持統天皇の国づくりの基本は、まさにcapitalプラン、藤原京という都市づくりと、国家による通貨をもとにした経済制度の構築にあったのですね。こうして日本という国の骨格が浮上してくるのです。
国内に落ち着きと新たな繁栄が見え始め、天皇の権威が高められた藤原京の宮廷には、柿本人麻呂のように天皇を和歌で歌い上げる歌人も登場します。とくに有名な歌があります。
「大君は神にしませば 天雲の雷の上に庵せるかも」
天皇は神であるから天上界の雲上の、雷のその上に、庵を建てることでしょう、という意味です。人麻呂は和歌にひそむ言葉の力をつかって、天皇が神の権威をもっている、と告げているのですね。
もう一つ、大事なことがあります。国内がまとまる一方で、天武天皇や持統天皇は、戦争で緊張した当時の国際関係を緩和させていく。しかし、従来の倭国の国号のままでは、それまで戦ってきた唐や新羅との交渉が難しかった。そこで初めて「日本」を国号とすることを正式に定めたんですね。
702年、実に32年ぶりとなる遣唐使を唐に派遣するんです。そのとき、使者は中国側に、壬申の乱によって唐と戦った倭国は滅び、「日本」という新しい国ができたと主張した、と平安初期の歴史書『続日本紀』が伝えています。唐の歴史を記した中国の『旧唐書(くとうじょ)』東夷伝(とういでん)にも、この時代に初めて「日本国は倭国の別種なり」と「日本」が記されました。こうして東アジアの中で「日本」というものが認められたのです。いよいよ日本国の出発となったんですね。
さあ、ここでもう一人の天才が藤原京に現れます。鎌足からの藤原姓を継いだ最初の世代、次男の藤原不比等(ふじわらのふひと)です。今後、まったく独自なキーマンとして目が離せない存在、藤原氏の活発な国家プランニングが、ここからまさに本格化するんですね。
【次回は8月5日(木)、03 「日本」の出現、Z=藤原不比等の1回目です】
このブログ、たいへん楽しく拝見させていただいてます。
松岡正剛先生はホームページの「千夜千冊」を
拝見して、
その博覧強記ぶりに感心させられました。
これからも、このブログを楽しみにしています。
中田文子です。
コメントありがとうございます。
3うささんのブログ見に行きました。
夢日記とか、物語のプロットとか・・・
不思議で、ちょっとワクワク
3うささんの律令国家の話を読んで
思い出したのですが、
松岡先生がよくいうお話に、
日本は、中国のシステムを取り入れながら
それを朝議、朝廷として、
内裏では、和風のしくみを残したと。
だから朝令暮改はあたりまえで、
そこが日本のおもしろいところだって。
天武天皇の国内重視政策への大転換。
そんな話とまぜまぜしながら、
いろいろ考えてます・・・。
ありがとうございます。
なるほど日本は中国のシステムを
とりいれながらも「裏」というか「奥」には
日本のシステムが動いてたんですね。
「裏」や「奥」の成立ともいえますね。
現代日本のシステムとおなじですよね。
現代での「システム」というのは国家や社会に限らず、
日本人ひとりひとりの思考や行動パターンのこととも
いえると思います。
こちらのブログのテーマはおもしろいので、
ほかの分も拝見させていただいて、
また思うことを自分のブログに書いていきたいと思います。
これからも、よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
先週終わった
松岡先生のNHK人間講座
「おもかげの国うつろいの国」でもやってた
真名と仮名の話も、この和と漢を
ごちゃまぜにしながら
新しいしくみをつくる話ですよね。
そのうえ男と女も混ぜちゃった
紀貫之ってとんでもない・・・
(いつになったらXYZで登場かな???)
薬師如来に関してブログに書きまして、
こらちにトラックバックさせていだたくときに、
二重に実行してしまいました。
ちょいと失敗です。反省しとります。
僕もときどき現実世界の自分と
ネット世界の自分が混ざったりします。
ネットというものが出現した現代も、
なにかとなにかが混ざる時代かもしれません。