最近のマスコミは、やたらとジェンダーレスやLGBTを取り上げている。
政治家、コメンテーター、有識者と称するよくわからない立場の人たちは、物知り顔で理解者ぶって、やたらと同調しているように見えてならない。
時にはジェンダーレスに理解のない人を吊るしあげるようなコメントだったり、理解しない人なんて信じられないだのと、そうした一方的な意見が多くなった。
NHKでさえも、まるで何かの意思に操られているかのようにジェンダーレス擁護の報道が多くなっている。
LGBTの当事者がつらい経験や苦しい胸の内を語るようなシーンを見ると、気の毒に思うし理解できる部分があるのだが、それと同時に、どうしても拭い去ることができない違和感を覚える。
なにより違和感を感じるのは、LGBTやジェンダーレスを「受け入れなければならない」といった同調圧力的な世論形成であったり、キャンペーンを張って世論操作しているようなマスコミの報道のあり方だ。
「LGBT」「ジェンダーレス」といった単語を、まるで流行語のように利用していないかな?
日本人は、新しい外来語や、音の響きがいい単語については、なんだかカッコよく感じちゃうところがあるからね。
杉田水脈議員は、新潮45への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」でバッシングを受けたが、自分はその意見に納得できるところが多い。
一部を取り上げて、ことさら差別主義者のように報じられていたが、少子高齢化が進む日本にあって、国会議員として国を憂い、将来を見据えれば当然の発言と言える。
マスコミの顔色ばかりを窺う政治家が多い中、おそらく批判されることも承知のうえで自分の意見を主張できるのは、立派な政治家だと感じたね。
先日、テレビを見ていると、海外のレズ夫婦が他人の赤ちゃんを養子として受け入れる話をしていた。
当事者は、究極の愛のカタチだとか、自己満足でなく他利的で福祉的な行為だと言っていたが、はたしてそうか?
本人がレズとしてどう生きていこうと構わないが、赤ん坊の気持ちはどうなの?
子供が欲しいからって、ペットじゃないんだよ? といった疑問が沸き上がった。
それは、彼女が語った言葉と正反対に「究極の自己満足、欺瞞に満ちた愛」としか感じられなかった。
このままジェンダーレスを進めることに、何の意味があるのだろうか?
理解ができない私は、古い人間ということだろうか?