「 i(アイ)」西加奈子著を読んでみました。何気にブックオフで手に取った本です。西加奈子さんの作品を読むのも初めてです。
主人公のワイルド曽田アイは、シリア難民の子で生まれて間もない頃に、アメリカのダニエルと綾子夫妻に養子として引き取られる。
そこは裕福な家庭でアイは両親から溢れんばかりの愛情を注がれるが、自分の身の回りや、世界のあらゆるところで起こっている不幸な出来事があるたび、自分が被害者側でなく、幸福の側にいることの罪の意識に苛まれる。
その都度日付と出来事と死亡者数をノートに記録しそれら出来事を自分に刻み付けている。
現実逃避から勉強、特に数学の世界に没頭し虚飾のない数式が織りなす美しさ魅了されていき大学院でも研究に没頭するが、罪の意識の強い感受性による責め苦からは逃れることは出来ず、むしろより意識を内側へと向かわせる。
様々な過程をへて暖かい両親、高校で知り合った親友のミナや、夫の佐伯ユウに支えられ前向きに生きる力を得、自分自身で決断し、自分自身を肯定するようになり、最後は作中何度も繰り返される「この世界にアイは存在しません」という呪縛から解放される。
主人公アイの幸福の側にいることについての罪の意識への強い感受性は、普段何事もなく生活をしている人には理解し難いものかもしれないと思いました。
アイの罪の意識についての感受性については、15歳から高校生の頃の多感な少女時期、さらには同一性を重んじる日本の教育風土の中での疎外感などが絡みあって、彼女にとって一層強いものになり自身を苦しめたのだと思います。
少し前に読んだ村上春樹氏の「海辺のカフカ」で想像力があるところに罪の意識があると書かれており(言い換えれば〝被害者側の苦しみを想像できない人に罪の意識はない″。ユダヤ人を虐殺したアイヒマンの話の例で)、主人公アイの場合、被害者のイメージがが高波のように押し寄せ、自分の精神を蝕むくらいに罪の意識に苛まれてしまう。
アイは夫のユウから「幸福の側にいることに感謝をしなければならない(それにより亡くなった人達にどう思われようとかまわない)」との救いの言葉を掛けられる。
この言葉はありふれた言葉かもしれないですが、このストーリーを通じて投げかけられると強い救済の言葉として心に強く響きます。
また流産の辛い経験はアイを、自分も完全には幸福の側にいるのではないと考えるきっかけとなって、ユウの心の力添えもあり前に向かって結果的には進むきっかけとなったと思う。
アイの罪意識ついては「そりゃ考えすぎだよ。」って思いながら読んでいました。読む姿勢としては失格であることは重々承知ですが。
ただアイのような生い立ちは特殊すぎて、アイの苦しみを理解でき「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとがアメリカや日本にはいなかった。
養子として引き取られて、単独アメリカに移住したようなものだから、同じ境遇の人同士のコミュニティーもなく、「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとなどいるはずもないですね。
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