会社で残業して、7時半ごろ、さあ帰ろうとしたら、しっとりとひんやりとした風が吹いてきたと思ったらザーッとすごい雨が。
雨具を着て自転車にのって雨に叩かれながらかえってきました。雨で濡れた顔を拭きながらでずが、この時期の雨は生暖かく、雨に打たれて気持ちよくもありました。
雨というのはなんと喜ばしい感触をもったものなのだろう。なんと生命力に溢れたものなのだろう。
イラストは題して「傘を忘れちゃいました」です。ずぶぬれになって終わった今日一日を今日の美しくイラストを描くことによて、せめてもの慰めにしようと思いました。
イラストですが、タブレットのタッチペンが壊れてしまってマウスで描きました。いつもだいたいマウスで描いています。なんだかもうこっちの方に慣れてしまいました。
イラストを描いているうちに雨がやんだようです。外からは田んぼの蛙の声がなり響きます。都会育ちのうちの嫁さんは蛙の合唱が気持ちわるいそうですが、自分にとっては心地よい響きです。
「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」の齋藤茂吉の短歌での表現のように、蛙の声は、その音でもって静寂をより強調している。
これは日本人独特の感性であって、海外では理解されないと聞いたことがあります。
たとえば齋藤茂吉の短歌をGoogle翻訳すると「He is sleeping with his mother who is close to death. The quiet voices of frogs in the fields can be heard all the way to the heavens」のようになんとも無機質で味気のない表現になってしまいます。この表現から感動は得られにくいと思います。
ところでGoogle翻訳してみて、天はheavens(天国)と訳されていました。自分は、この短歌の「遠田」と「天」について、「遠田」で平面的な奥行を表し、「天」ははてしない高さを表現し、併せて縦横高さの広大な立体感を表現して、蛙の声が広大に響き渡っているという表現だと思っていました。一般的にもこの解釈じゃないかなと思っています。
ですがheavens(天国)と翻訳されてびっくりしました。「死に近き」という表現から天から天国を連想するのも不自然ではない。天は「はてしなく高い空」と「天国」を掛けているのでしょうか。
「天国」というとらえ方をすると、蛙の声は静けさを表現するというよりも「死に近き」を濃厚にする静寂の表現になると思います。
この短歌「天」の言葉のとらえ方次第で「かわづ(の声)」の役割もまるで変わり「静けさ」と「死」どちらを引き立たせるのかが変わります。
ロールシャッハテストのように読み手の心情でどちらが濃厚に感じられるのか変わるものかもしれません。自分も今はこの短歌から「静けさ」を感じとっているけど、人の死を間近にしたら「死」を感じ取るようになるかもしれません。
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