
幻のきれい寂び、建築家・村野藤吾に作家・井上靖が見たという。
「綺麗寂び」は茶道の世界の言葉だ。
華やかなうちにも寂びのある風情。
特に小堀遠州の好みのに使われる。
井上靖は言う。
「しかし、“きれい寂び”は“きれい寂び”として、
今や遠州と切り放して、独自美の範疇を言い現わしている言葉として受けとっていいだろうと思う。
華やかなうちの寂びということは、反対の言い方をすると、寂びの中にある華やかさと言うことになるが、
おそらくそのように言ってもいいものであろう。」
そして井上靖は“幻のきれい寂び”を心に抱き、お茶会へお道具に、漂い観て感じようと探す。
廻り合えないでいるいることを楽しんでいるかのように、
「めったに正体を現わさぬ“幻のきれい寂び”である」と言う。
そして“幻のきれい寂び”を。村野藤吾に見るのである。
「しかし、私が心の中に長く持っていた“幻のきれい寂び”は思いがけず、
村野先生が身に着けておられるものに吸収され、ぴったりと収まり、跡形もなくなってしまったのである。」
綺麗寂び:きれいさび ~原色茶道大辞典より
華やかなうちにも寂びのある風情。
また寂びの理念の華麗な局面をいう。
この言葉は特に小堀遠州好みを指す。
遠州伊賀・遠州薩摩・朝日焼・御本立鶴など、
茶室建築における台目畳のある小間の書院風の襖・長押などにみられる。
参考文献:村野藤吾和風建築
綺麗さびを探しに 「小堀遠州 美の出会い展」
「綺麗寂び」は茶道の世界の言葉だ。
華やかなうちにも寂びのある風情。
特に小堀遠州の好みのに使われる。
井上靖は言う。
「しかし、“きれい寂び”は“きれい寂び”として、
今や遠州と切り放して、独自美の範疇を言い現わしている言葉として受けとっていいだろうと思う。
華やかなうちの寂びということは、反対の言い方をすると、寂びの中にある華やかさと言うことになるが、
おそらくそのように言ってもいいものであろう。」
そして井上靖は“幻のきれい寂び”を心に抱き、お茶会へお道具に、漂い観て感じようと探す。
廻り合えないでいるいることを楽しんでいるかのように、
「めったに正体を現わさぬ“幻のきれい寂び”である」と言う。
そして“幻のきれい寂び”を。村野藤吾に見るのである。
「しかし、私が心の中に長く持っていた“幻のきれい寂び”は思いがけず、
村野先生が身に着けておられるものに吸収され、ぴったりと収まり、跡形もなくなってしまったのである。」
綺麗寂び:きれいさび ~原色茶道大辞典より
華やかなうちにも寂びのある風情。
また寂びの理念の華麗な局面をいう。
この言葉は特に小堀遠州好みを指す。
遠州伊賀・遠州薩摩・朝日焼・御本立鶴など、
茶室建築における台目畳のある小間の書院風の襖・長押などにみられる。
参考文献:村野藤吾和風建築

茶の道は奥深い・・・、畳、お軸、襖、長押、お道具etc・・・すべてが華美ならず美しく。
遠州好みの「きれい寂び」、日本ならではの表現ですよね。
>村野藤吾の画像で“幻のきれい寂び”を探してみてください。 ですが、写真を見る限りでは良くわからないのですが、村野先生にまとわりつく身のこなしと言いましょうか、おもむきでしょうか、そんないでたちに漠然と感じる雰囲気みたいなものなのではないでしょうか??
「きれい寂び」で私が思い出すのは、お茶の先生のお宅の古いお茶室の障子を、夏は七草が透かし彫りになっている枠付きの障子に変えるのですが、その七草のレリーフがなんとも「きれい寂び」感漂う美しさなのです。
台目畳のある小間の書院風の襖・長押、さらにお道具、お軸etc・・・全てが華美ならず美しく・・・
遠州好みの「きれい寂び」大変日本的な表現ですよね。村
>村野藤吾の画像で“幻のきれい寂び”を探してみてください ですが 写真をお見受けする限りお顔のみ・・・でも十分「きれい寂び」感は漂いますよね。
私が思うに、村野藤吾先生の立ち振る舞い、まとわり漂う空気雰囲気みたいなものなのではないかと思いましたがいかがでしょうか?
是非、「続き」を楽しみにしておりまする。
それよりコメント嬉しいです。どうもありがとう。
枠付き障子の七草なんて想像するだけでぐっときます。
障子って、なんであんなに風情があるのでしょうね。
綺麗寂び、実は身近なところに!?
麦&トラの美しき風情漂う背中に!!
たぶん飼い主にしか分かりませんが…親バカです♪(*^ ・^)ノ⌒☆