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日本の暮らし文化・デザイン・アート探求記

日本文化から茶道・工芸に建築・布や着物・器と料理
心地いい日本の暮らし・日本文化・新日本様式とは何か?

建仁寺の潮音庭

2007年02月15日 | 茶室~建築

日本最古の禅寺・建仁寺の「潮音庭」。庭師、北山安夫氏の代表作の一つとされる。
中心に据えられた3つの石が四方からどこから見ても正面に見えるよう計算された枯山水の庭。

NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」 第41回 2007年2月15日、 
本日の放送予定は、『己を出さず、自分を出す~庭師・北山安夫~』

この放送の告知で一昨年秋に訪れた建仁寺のことを思い出した。
画像からも分かるように日差しがとても心地好い日で、
随分と長いこと白砂に縁苔と巨岩を配した枯山水の前庭「大雄苑」を眺めていた。

茶室「東陽坊」西側にある「建仁寺垣」は「遮蔽垣」。
背後の影を遮断して目隠しするように塀状に竹を編んだ遮蔽垣として、
銀閣寺垣・木賊垣・鉄砲垣・御簾垣などもある。

匠の技によって様々な姿に変わる竹の姿を目にすると、
竹という植物は古来から日本の暮らしの中に深く溶け込んでいるのだと感じる。

江戸時代の作庭秘伝書「石組園生八重垣伝」には40種近い竹垣デザインが図解されているそうだ。


日本最古の禅宗本山寺院―建仁寺~以下サイトより抜粋~

臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁2年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。800年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。

開山
明庵栄西
禅の心と茶の徳を伝える―開山 栄西禅師
開山の栄西という読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般には「えいさい」読まれています。字は明庵(みんなん)号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。

伽藍と宝物
方丈(重要文化財)
 慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から移建したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。白砂に縁苔と巨岩を配した「大雄苑」と称される枯山水の前庭は、大らかな味わいがあります。

茶席「東陽坊」
 草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。二帖台目席でもっとも規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています。

法堂
 明和二年(1765)上棟。仏殿兼用の「拈華堂」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。また、その天井には、平成十四年(2002)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。


建仁寺献茶式 ~双龍のもとで厳粛に栄西禅師の威徳を偲ぶ~
開山忌法要にともなう献茶式が平成18年6月5日、裏千家・千 宗室家元奉仕により執り行われました。

開山堂[非公開]
 旧名・護国院、古くは興禅護国院といい、開山栄西禅師の入定塔(墓所)です。苔むした庭に開山お手植えの菩提樹が今も茂っています。客殿本尊は赤旃檀釈迦如来像。襖絵は加藤文麗筆「竜虎図」、原在中筆「孔雀図」等。

風神雷神図(国宝) 俵屋宗達筆 紙本金地著色
 本図には落款も印章もありませんが、宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされています。二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いています。

勅使門(重要文化財)
 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。元来、平清盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと言われています。

奈良国立博物館

2005年11月27日 | 茶室~建築

                                                                             

               

 

ホクホクジャガイモ片手にテレビをつけたら、新日曜美術館が残り15分のところ。

吉村順三を取り上げてる。

吉村順三デザインの椅子に座ってる「はなちゃん」は今日もキュートだ。

へぇー、奈良国立博物館(新館)は吉村順三の設計だったんだ。

吉村順三の設計は何気無さがいいのかな。

 

上画像は奈良国立博物館(本館)と奈良公園を夜な夜な闊歩する鹿 。

正倉院展最終日、閉館一時間前に飛び込むも幸運なことに空いていた。

見終わり外に出ると夕刻6時。奈良公園には夜の帳が降りていた。

 

 東京藝術大学 大学美術館で12月25日まで吉村順三展開催。

上野の森へ急がなくては、北斎展は12月4日まで東京国立博物館。

 東京藝術大学 大学美術館

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/current_exhibitions_ja.htm

東京国立博物館

http://www.hokusaiten.jp/index_jp.html

奈良国立博物館

http://www.narahaku.go.jp/


吸い寄せられて埼玉県立近代美術館

2005年09月30日 | 茶室~建築
またしても、吸い寄せられて埼玉県立近代美術館。
浦和での用事を急いで済せスパニッシュ展に行ったのは一昨日。

20年以上前のこと、庭に鎮座する彫刻に勝手に名前を付けた。
ふとそんなことを思い出した・・・きっと寂しい青春だったのだろう。
なんだかそんな昔に脱力感が。展覧会のことはまた今度書こう。


 ねえねえカラス 

 はとポッポー

 キツイパンツの人   



巨体な人

建築家 アスプルンド

2005年09月28日 | 茶室~建築
いつもタイムリーではない私。
本棚にちょっと黄ばんだ<現代の建築家アスプルンド>を見つけた。
しばし鑑賞・・・。

これまたエセ建築ファンの私には笑える?解説も付いていた。
在りし日のアスプルンドの顔写真についてまで熱く語ってくれている。
小難しい部分も一緒に抜粋したが、ぜひ読んでいただきたい。

 ストックホルム市立図書館(1920~28)


内は<現代の建築家アスプルンド> 建築家・菊竹清訓 解説より抜粋一部要約

    エーリック・グンナール・アスプルンド(1885~1940)

アスプルンドは、北欧スウェーデンの生んだ偉大な建築家として、傑出しており、その爽やかな作風は、人々をして忽ち建築を好きにしてしまうという極めて魅惑的でユニークなことによってつとに有名である。
この理由はいろいろと言われているが、私は彼が<かたの建築家>であったことにもっとも大きな根拠をおきたいように思う。このことについては後にふれるとして、彼の作品を分析すれば、このことが容易に理解されるし、それはまた<かたの建築家>のデザインのアプローチが、いかに成果をあげるかということでもあり、またすぐれた建築をつくるうえに有効であったかを証明してみせてくれるものでもある。これほど建築家として成功し、建築を確固とした社会的存在として決定づけた建築家はいないように思う。




アスプルンドに直接お会いしたことは無いが、今井先生を通じて、その作品にふれ、作品をとおして、想像のなかに建築家アスプルンド像を勝手に組立て思い描いてきた。
 私のアスプルンドは北欧共通の端麗な容姿で、ノーブルな顔立、八頭身の高い背丈と伸びた足、そしてそのなかにゲルマン民族の重厚さが、胸や肩のあたりにただよい、顔は、額と顎にその頑丈さがあふれているといった風で、深いノーブルの眼から、鼻にかけて、繊細な芸術家としてのおもかげがありあり、それは金髪の髪型や、口元そしてピンクの肌の首筋にかけてよく表れている。
 ところがアスプルンドの写真を見て、イメージがすっかり狂ってしまった。これでは、まるで伊達男である。それに口髭などたてて、あれほどの素晴しい建築の数々をつくってきた人物とは思えないような、しゃれ者にみえる。そこで私は、このアスプルンドの写真が悪いんだと思うことにした。
 やはりエストべりや、アアルトのように偉大な建築家には、それに相応しい風貌を与えたいし、アスプルンドも実際は恐らくそうなのであろう。
仮にそうでなかったにしても年老いた晩年には哲学者か詩人のような顔であったと想像している。
 しかし不幸なことに丁度今の私と同じ年の55才でなくなっている。建築家としては、これからという時期にである。

さて私は建築家には、特殊条件から出発して、一般解にいたる普遍的<かた>をつくり出す作家と、
特殊条件から特殊解としての<かたち>を指向する作家のふたつがあるように思う。
そのいずれが望ましいかは、各々の建築家の判断にまちたいが、
少なくとも社会的には、<かた>をつくり出す建築家が、より大きな影響力をもち、広く受け入れられることは疑いないことである。
そういう意味で現代建築の多くの<かた>に迫り、<かた>を創造していったアスプルンドは、
極めて大きく現代建築の推進に貢献した建築家であった。そういうアスプルンドを私は偉大な建築家として心から尊敬している。

建築家・菊竹清訓 氏、そういうあなたの風貌は?
これを書かれたのが昭和58年。御歳77才になられてるはず。
ググってみた。愛地球博の総合プロデュースをされたらしい。
 愛地球博HPより http://www.expo2005.or.jp/jp/T0/T1/T1.6/T1.6.1/T1.6.1.2/


 森の礼拝堂(1918~20)


「北欧近代建築 先駆者の美」と題して9月26日(月曜日)の日経新聞に、
吉村行雄氏がスウェーデンを巡って撮影したアスプルンドの作品群のことが書いている。
吉村氏は建築家で写真家。1971年に武蔵野美術大学建築学科を卒業後、竹中工務店に入社。
現在は設計本部で自社建築物の撮影をしている。
このほど「アスプルンドの建築1885~1940」(TOTO出版)を出したそうだ。

 リステール州裁判所(1917~21)

汐留ミュージアムで2006年2月にアスプルンドの展覧会が開かれる。
9月25日までは清家清の展覧会を開催していた。行きそびれた。
ぜひアスプルンドの展覧会は観にいこう。

   森の火葬場(1935~40)


*アスプルンド建築物画像等は<現代の建築家アスプルンド>鹿島出版会より 

吉村順三 京都国際ホテル ライトスタンド

2005年09月12日 | 茶室~建築
そのホテルの客室が紹介されている。

写真におさまっている客室のライトスタンド。

ページをめくる手が止まる。

お内裏様とお雛様の両脇にある雪洞!?
その雪洞みたいなライトスタンドにソソラレル。

今もこの客室がそのまま残されているのなら
十五夜の日に泊まってみたい。

夜な夜な、心に浮かびくるものを、
雪洞の明かりに照らし出してみたい。

「障子の本」 監修 林雅子

2005年09月09日 | 茶室~建築
「障子の本」監修 林雅子。1978年3月1日刊。
ちょっと黄ばんだ家人の本。本棚から引っ張り出してみた。

一枚のメモが挟まっていた。
「障子紙は焼けて黄ばずむ。
破れるなど傷みのひどいものだけ新しい真白なものと張り換える。
そこに無作為な黄と白の市松が生まれる。」
栗田美術館にて 9.30 '78

ページを捲る。

序・林雅子
障子小史・伊藤ていじ
現代住宅と障子・吉村順三
私の障子考・清家清

~~ 中、略 ~~

巻末に現代障子紙のいろいろ(付サンプル)とある。


先日の日経新聞の記事~「NIPPONのカタチ 和のちから1 紙のみぞ知る暖かみ」

『“手すき和紙という伝統技術をベースに革新的な手法を取り入れ、和紙の応用範囲を広げている”例を紹介。

“障子や襖などの和紙は戦後、洋風の波に押される一方だった。しかし「ここ数年、やや追い風が吹いてきた」
「海外の一流ホテルが装飾用に長尺和紙を使うなどの引き合いも珍しくない」”

その一方で東南アジアや南米などが手すき和紙を低コストで製品化。
国内の手すき和紙の老舗メーカーに生き残りへの提言。企画力とデザインの力。』

この本から四半世紀、和紙は進化を遂げ、また新たな局面を迎えている。

「障子の本」平成版はあるのかな?

小山敬三美術館~村野藤吾の

2005年09月06日 | 茶室~建築
綺麗寂びを辿る途中に、ちょっと寄り道。。。

長野に行ったついでに、ちょっと寄り道。

村野藤吾の設計した小山敬三美術館。

村野藤吾に‘きれい寂び’、だとすれば、
小山敬三に‘どうだこれはっ’、そんな押し出しの強さを感じた。

この美術館、外見と中身が似つかわしくないような気がした。

小山敬三(1897~1987)は洋画家。
美術館に飾られた写真の中の彼は、勲章みたいな物をつけて満足そうだ。
巨匠に設計させた美術館も満足だったのだろう。

なんだか腑に落ちない美術館だった。

私の独断?偏見?好み? 気を悪くされたら申し訳ない。

幻のきれい寂び~村野藤吾に

2005年09月04日 | 茶室~建築
幻のきれい寂び、建築家・村野藤吾に作家・井上靖が見たという。

「綺麗寂び」は茶道の世界の言葉だ。
華やかなうちにも寂びのある風情。
特に小堀遠州の好みのに使われる。

井上靖は言う。
「しかし、“きれい寂び”は“きれい寂び”として、
今や遠州と切り放して、独自美の範疇を言い現わしている言葉として受けとっていいだろうと思う。
華やかなうちの寂びということは、反対の言い方をすると、寂びの中にある華やかさと言うことになるが、
おそらくそのように言ってもいいものであろう。」

そして井上靖は“幻のきれい寂び”を心に抱き、お茶会へお道具に、漂い観て感じようと探す。

廻り合えないでいるいることを楽しんでいるかのように、
「めったに正体を現わさぬ“幻のきれい寂び”である」と言う。

そして“幻のきれい寂び”を。村野藤吾に見るのである。
「しかし、私が心の中に長く持っていた“幻のきれい寂び”は思いがけず、
村野先生が身に着けておられるものに吸収され、ぴったりと収まり、跡形もなくなってしまったのである。」


綺麗寂び:きれいさび ~原色茶道大辞典より
華やかなうちにも寂びのある風情。
また寂びの理念の華麗な局面をいう。
この言葉は特に小堀遠州好みを指す。
遠州伊賀・遠州薩摩・朝日焼・御本立鶴など、
茶室建築における台目畳のある小間の書院風の襖・長押などにみられる。

参考文献:村野藤吾和風建築

綺麗さびを探しに 「小堀遠州 美の出会い展」