しいたけの伊豆高原情報と放浪旅

伊豆をバイクで10年、伊豆に住んで27年目に突入!(古い記事は過去になってるので注意です)

伊東:「宇佐美」地区は北緯35度なんです!

2014年06月14日 | 雑感&放浪
・              【北緯35度とは知りませんでした】

北緯45度は道産子ですから、かつては北洋漁業の操業の地でした、荒海の寒風吹きすさぶ厳しい
オフォーツクの海で荒くれ漁師達が活躍していました、北緯35度は温暖で「みかんの花咲く丘」の
歌碑が作られている「宇佐美」の土地なんです

(伊東市になりますが駅でいうと1つ熱海よりの土地です)



江戸城築城石を切り出しました!


・               【戦乱が終わり平和が訪れて江戸城を作る計画が持ち上がりました】

徳川家康は全国の大名に命じました

「江戸に入り壮大な城を築く際、基礎となる石垣用の石の大部分は伊豆から運ばせたそうです。
 特に伊東はその中心的な場所にあたり、家康から命ぜられた各大名は石丁場
 (石の切り出しを行なう場所)を設けて盛んに石を切り出し、江戸へと運んでいきました。
 多いときには3,000艘もの船が月に2度づつ行き来したとも言われています。
 その石切場の跡は、宇佐美のナコウ山の周辺にのこり、石を運んだ途中の道には
 各大名が自分の仕事である証明に刻印を刻んだ石も数多く見られます」

岩に楔を打ち込み水を含ませて膨張させると四角く切り出せました、四角に切り出せても
海まで運んで船に乗せるのは大変な労働で300人が掛かりでやっと船に積み込んだと言われております

(積み込めないで打ち捨てられた「ぼなき石」というのが北川の崖の上にありました)



石切り場は丁場といわれ、伊豆全土で石切丁場跡が見られます

(西伊豆:松崎には「室岩堂」という観光スポットがあってロウ人形の人夫さんが突然明るくなって活躍しています)


・               【羽柴越中守とは細川家の事です】

ナコウ山という石切丁場があります、石を切り出す重労働で「泣いた」そうです

「石切り丁ばで働いていた石工たちがその辛さに泣いたという説と
 故郷を思い泣いたという説からナコウ山と呼ばれたそうです」

このような武士階級による強制労働はいつ果てる事無く続いておりました、従って平民出身の僕は「武家屋敷」と
いうものが全国にありますが好き所ではありません



これが「刻印石」なのです


・              【この刻印のため多くの苦労話があった筈です】

歴史は何も語ってくれません、江戸城を作ったのは「大田道灌」といいますが
実際に作ったのは何も語られない大工さんであり左官職人だと思いますが、歴史には何も残っていません、石垣を作る苦労話は歴史に埋没しております

大田道灌は家康の家来で、今でいうと大臣クラス人物になるのでしょう!

「彼は江戸城を拠点化するために、上記のような小さな漁村のお城だった江戸城を
 大規模に改築します。普請に動員される人数は遥かに多くなり、現在の江戸城の
 本丸・二の丸にあたる大きさ(結構デカイです)を持つ、武蔵の国でも有数の大きな
 地方城郭となります。
 この時の道灌の築城ですが、彼は大名家の家老でしたから、当然ながら彼は大工
 さんでも無いし設計士ですらありません。自分の戦いの経験から城の設計(縄張り
 と云います)に口を挟んだ可能性はありますが、自ら工事に携わった立場では無かったのです。
 城の築城や改築には、何百何千人の人足を指揮する立場の奉行(最高監督者)の下で
 一大工事が行われます。当時は柱一本や板一枚を造るのも現場で丸太から加工したので、
 建築資材を作る作業場すらも同時に建設して、工事にあたりました。まさに一大プロジェクトです
 よって太田道灌は、現在のゼネコンのような建設作業管理者ですらなく、現在の
 国交省大臣か県庁土木部長のような存在で、江戸城建設を指揮する立場だった
 と言えるでしょう」

何はともあれ、家康はこれで外様大名の経済力をそぎました、余りに遠方の薩摩は監視の目を盗んで琉球密貿易に
走り巨万の富を築き、家康打倒を果たしました、同じ武士階級によって変革が行われたので革命とは言わずに明治維新と言いますね

(今は遠いという感覚がありません、日本全体はフラット化しております)



晩年の「阿久悠」さんは宇佐美に住んでいました!


・             【「蜜柑と魚」の歌碑が残っていました】

詩人:阿久悠

「1937年2月7日 - 2007年8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。
 本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。淡路島(兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原)出身。
 第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。
 2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。
 それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)
 8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。
 70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの
 「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。」

四国で生まれても伊東に住む有名人は多いです、僕のお風呂仲間にも日活映画黄金時代の
裕次郎世代の人がいて撮影の裏話を聞けます!

(祐ちゃんは酒が強かったとしみじみ語ってくれます)




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2 コメント

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築城石 (taka)
2014-06-06 09:01:19
宇佐美が北緯35度線上にあるとは初めて知りました。
不勉強でした。
築城石が伊豆東海岸で切り出された理由にはきっと海運の利便性があったんでしょうね。それにしても、重機械が無い時代にどうやって移動させたのか興味津々です。
ある意味、お城は日本のピラミッドですね。
返信する
taka様:お城の話の中には (しいたけ)
2014-06-06 11:14:21
暗いイメージのものがあります、松本城では門を作る時事件がありましたし
熊本城では築城の秘密を守るために山伏が犠牲になりました
武家のシンボルなのでしょうが暗い逸話もあります
返信する

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