・ 【伊豆高原駅まで散歩に行きました】
3年前でしょうか、この大石が展示されています!何かのイベントの時だったと思います
石を囲む綱の色や台座の木も黒く変色しています、石の展示ですらメンテナンスなんて必要ないと思っていました
展示するからには野外でほったらかしではいけませんね、単純なものでも年に1回は磨いて上げましょう
(伊豆には伊豆石という、お風呂で滑り難い緑色の石も切り出されます)
江戸城の掘割や土台は伊豆から運びました
(千葉県からも運びました、金谷のこぎり山なんてその跡地だと思います)
・ 【江戸城を作った築城石が飾られています】
【江戸城築城石】
「1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)
征夷大将軍になり江戸に幕府を開きました。そして翌1604年(慶長9年)6月
江戸城拡張工事の計画を発表しました。
家康が入城した時の江戸城は、本丸の他に二の丸と三の丸があり、堀も巡らせてあって
一応城の形は整えてありましたが、周囲は土累でまだ石垣は築かれていなかったと言います。
それから慶長11年(1606年)3月に工事に着手するまでの間、築城石を運搬するための
石船の建造や採石場所の確保など、準備が進められました。
築城用の大石を採取して運搬する命令は、28の大名に下されました。石高十万石につき"百人持の石"
(人夫百人で運搬できる石)1、120個が課せられました。
これらの築城石に用いられるのは、固く大きな安山岩や花崗岩です。
それらの石は真鶴半島や熱海、湯河原、宇佐美、東伊豆町の大川や稲取などで産出されます。
命令を受けた大名はこぞってこれらの産地を確保し、石工(石切り人夫)を派遣しました。
切り出された百人持の石は、石船に2つずつ積まれ、江戸との間を月に2度往復したと伝えられています」
石きり丁場跡は宇佐美、稲取、大川、松崎にまで及んでいます
四角くに石を切り出す技はどうしてできたのでしょう、硬い石を切り出す技、重い石を運ぶ技、据え付ける技、
重器もない時代です、相模灘や東京湾に人知れず沈んでいる石もあると思いますが、職人芸はすばらしいね!
城を作るのは難事業だと思います!
(熊本城を作る時、城の方位を定めた大勢の山伏が秘密保持のため殺されました、松本城の大手門
を作る時も工事を早めるために人夫が惨殺されました、全国に城や城跡が沢山ありますが築城の裏に
いろんな暗いエピソードがあると思います)
・ 【300人で運んだ大石です】
伊豆:大川の崖の上には作業の途中で引っかかった大石が「ぼなき石」として放置されています
松崎の室岩同には当時の作業風景が蝋人形で展示されています、なんとも過酷な労働でした
(金、銀、鉱物資源の採掘は悲惨な労働の上に成り立っています!)
伊豆は散歩しても楽しいね、横浜の我が家はコンクリートで固められた住宅地です、安全で車の来ない遊歩道も
ありまして、散歩には売って付けなのですが、何か物足りません、伊豆にいますから本日は休んでるテニスコート
まで行きましょう、我が家からテニスコートまで全て上り坂です、「かんぽの宿」付近は急坂です
国道まで上がって、桜並木途切れるグルメ通りを登って行きますとテニス仲間が待ってます、
ママが先に行ってますから驚かしてあげましょう、到着しますと「大丈夫なの?」と皆さん気を使ってくれます
(2回目の脳梗塞ですが、テニス位できます、本日はちょっと寒いのでお休みです、バイクも乗れますし
お酒も飲めます、このように散歩もできます、テニスもできますから心配ありませんよ!!)
情けないことにラケットを素振りはできますが、向かって来るボールを打ち返せません、サーブしようと
ボールをトスしても旨くサーブできません、フルスイングができないのです、多分1回目の時と同じです、
1回目より身体機能は劣化していますが、徐々に快復して行くと思います
(あせる必要はありません、1日1歩の進捗で良いのです)
お酒の量はほんの少しですが、お酒の酔い方と脳梗塞のふらつき方が似ています、
少しのお酒でも歩き方が倍返しで揺れてしまいます
(伊豆では3食きちんと取っていますのに痩せて来まして今日は77kg昨日は76.9kgとなりまして
メタボ体形ですから痩せるのは良いことなんです、退院後一番痩せてきました)
3年前でしょうか、この大石が展示されています!何かのイベントの時だったと思います
石を囲む綱の色や台座の木も黒く変色しています、石の展示ですらメンテナンスなんて必要ないと思っていました
展示するからには野外でほったらかしではいけませんね、単純なものでも年に1回は磨いて上げましょう
(伊豆には伊豆石という、お風呂で滑り難い緑色の石も切り出されます)
江戸城の掘割や土台は伊豆から運びました
(千葉県からも運びました、金谷のこぎり山なんてその跡地だと思います)
・ 【江戸城を作った築城石が飾られています】
【江戸城築城石】
「1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)
征夷大将軍になり江戸に幕府を開きました。そして翌1604年(慶長9年)6月
江戸城拡張工事の計画を発表しました。
家康が入城した時の江戸城は、本丸の他に二の丸と三の丸があり、堀も巡らせてあって
一応城の形は整えてありましたが、周囲は土累でまだ石垣は築かれていなかったと言います。
それから慶長11年(1606年)3月に工事に着手するまでの間、築城石を運搬するための
石船の建造や採石場所の確保など、準備が進められました。
築城用の大石を採取して運搬する命令は、28の大名に下されました。石高十万石につき"百人持の石"
(人夫百人で運搬できる石)1、120個が課せられました。
これらの築城石に用いられるのは、固く大きな安山岩や花崗岩です。
それらの石は真鶴半島や熱海、湯河原、宇佐美、東伊豆町の大川や稲取などで産出されます。
命令を受けた大名はこぞってこれらの産地を確保し、石工(石切り人夫)を派遣しました。
切り出された百人持の石は、石船に2つずつ積まれ、江戸との間を月に2度往復したと伝えられています」
石きり丁場跡は宇佐美、稲取、大川、松崎にまで及んでいます
四角くに石を切り出す技はどうしてできたのでしょう、硬い石を切り出す技、重い石を運ぶ技、据え付ける技、
重器もない時代です、相模灘や東京湾に人知れず沈んでいる石もあると思いますが、職人芸はすばらしいね!
城を作るのは難事業だと思います!
(熊本城を作る時、城の方位を定めた大勢の山伏が秘密保持のため殺されました、松本城の大手門
を作る時も工事を早めるために人夫が惨殺されました、全国に城や城跡が沢山ありますが築城の裏に
いろんな暗いエピソードがあると思います)
・ 【300人で運んだ大石です】
伊豆:大川の崖の上には作業の途中で引っかかった大石が「ぼなき石」として放置されています
松崎の室岩同には当時の作業風景が蝋人形で展示されています、なんとも過酷な労働でした
(金、銀、鉱物資源の採掘は悲惨な労働の上に成り立っています!)
伊豆は散歩しても楽しいね、横浜の我が家はコンクリートで固められた住宅地です、安全で車の来ない遊歩道も
ありまして、散歩には売って付けなのですが、何か物足りません、伊豆にいますから本日は休んでるテニスコート
まで行きましょう、我が家からテニスコートまで全て上り坂です、「かんぽの宿」付近は急坂です
国道まで上がって、桜並木途切れるグルメ通りを登って行きますとテニス仲間が待ってます、
ママが先に行ってますから驚かしてあげましょう、到着しますと「大丈夫なの?」と皆さん気を使ってくれます
(2回目の脳梗塞ですが、テニス位できます、本日はちょっと寒いのでお休みです、バイクも乗れますし
お酒も飲めます、このように散歩もできます、テニスもできますから心配ありませんよ!!)
情けないことにラケットを素振りはできますが、向かって来るボールを打ち返せません、サーブしようと
ボールをトスしても旨くサーブできません、フルスイングができないのです、多分1回目の時と同じです、
1回目より身体機能は劣化していますが、徐々に快復して行くと思います
(あせる必要はありません、1日1歩の進捗で良いのです)
お酒の量はほんの少しですが、お酒の酔い方と脳梗塞のふらつき方が似ています、
少しのお酒でも歩き方が倍返しで揺れてしまいます
(伊豆では3食きちんと取っていますのに痩せて来まして今日は77kg昨日は76.9kgとなりまして
メタボ体形ですから痩せるのは良いことなんです、退院後一番痩せてきました)
これが本当の「冷えとり」の手引書 | |
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77kgなんて減量の途中だと思います、食べても太らないとは羨ましい、かんぽの宿付近では
ギブアップを考えました、おじいさん歩きでも一歩歩めば一歩進みます
健康(脂肪燃焼)目的では、運動の強度より持続時間が重要です。城ヶ崎入口交差点⇒池入口の方が遠回りですが、持続時間を稼げます。私は30歳代は週5回テニスをやっていましたが全然ダイエットにはなっていませんでした。食事量も多かったと思いますが、67kg辺りで安定していました。