1972年4月、筒井康隆が神戸市垂水区に居を構えるまで、そこは存在自体が不確かな場所であった。
まったく漠然として曖昧であった。
だから垂水を知らぬ人々が垂水について知りたいと思うとき「漁港があるらしい」「釘煮というものを食べるらしい」「須磨の西にあるらしい」「明石の東にあるらしい」というあくまでも推測の域を出ない会話から、ぼんやりと垂水というものを想像する以外に方法はなかった。
そこに何かがあり人が住んでいることは多くのデータから予想されてはいた。
しかし、垂水と思われる場所を特定すれば垂水住民らしきものの挙動はまったく判然としなくなり、その住民について知ろうとすれば場所の特定が不可能になるため、ほとんどの人はそのエリアのすべてを明らかにすることについて諦めざるを得なかった。
垂水に行ったことがあるという者も、いるにはいた。
ただ、その者が多くを語らなかったためそれが事実かどうかの確証は得られなかった。
それが嘘であったのか、事実であったが語りたくなかったのか、垂水に語るほどの内容がなかったのか、それは今も不明である。
垂水には鉄道の駅があった。
山陽電鉄と当時の国鉄である。
これらの鉄道の利用者は「つぎはあ、たるみい、たるみい」という自信のなさそうな車掌のアナウンスを聞いた。
そして電車が垂水駅に近づくと、まず電車自体が不明確な存在となった。
駅自体も周囲の風景もぼんやりとした不確かなものであった。
電車が駅に到着し、垂水の住民と思われる客がホームに降りた途端、彼は霧がかかったように朧げな存在となった。
そして乗車してくる客は、車両に乗った途端実体化した。
垂水を通る海沿いの国道もあった。
国道2号線である。
須磨を越え垂水に近づくと、道や景色は徐々に間にぼんやりと霞みはじめた。
輪郭を伴わない曖昧な周囲の状況に不安を感じた運転手達が急激に速度を落とすため、近辺の道は常に渋滞した。
兎にも角にも、1972年4月以前の垂水とはそういうエリアであった。
筒井康隆が垂水入住を決めた直後に、垂水は現実感を伴って神戸の西、須磨と明石との間に現出した。
誰もが目で見てその実体を詳らかにすることができる状態となった。
なぜなら、そうしなければ筒井康隆に住んでもらえないからである。
そして、垂水が茫漠とした場所であった時代を「筒井康隆以前」と呼び、確固たる実体として現出した後を「筒井康隆以後」と呼ぶ。
また、ここで「筒井康隆」と敬称なく記述しているのは、例えば「イエス様」や「お釈迦様」を「イエス・キリスト」や「釈迦」と呼ぶことも一般的であり、別段それが彼らに対して不遜だというわけではなく、神性を損なうものでもないのであって、つまり垂水において「筒井康隆」はそういう存在であるということである。
「筒井康隆以後」の垂水は色々と大変であった。
なにしろ、筒井康隆が普段歩く道々に筒井康隆が気に入りそうな本屋、コーヒーショップ、寿司屋、パチンコ屋などを急ぎかつさりげなく配置しなければならなかったからだ。
またここ数年では、神戸三宮にあった筒井康隆お気に入りのインド料理店を海沿いの商業施設内に誘致したりもしている。
それだけではなく、筒井康隆が垂水の日常生活において利用するであろう警察署、幼稚園、学校、神社、動物病院なども筒井康隆が利用しやすい場所にただちに設置した。
なぜかというと、もちろん筒井康隆に出て行かれては困るからである。
・・・もうやめよう。
ここまで書いていて天罰というか仏罰というか神罰というか、何かしら恐ろしいものが僕の頭上に降りかかりそうな気がして仕様がない。
僕としては、単に筒井作品に縁のある垂水近辺の写真を掲載しようと思っただけなのだ。
これは、本当だ。
題名もそういうつもりで付けている。
なぜか知らないが、書き出しからおかしな方向になってしまっただけだ。
さて、1973年の2月から7月というから、筒井さんが垂水に引っ越して来られてちょうど1年ほどたった頃から「夕刊フジ」に連載された『狂気の沙汰も金次第』というエッセイの中に、垂水の美味しいお寿司屋さんの話『寿司』がある。
この『寿司』は、女性誌「ミセス 1972年9月号」に書かれた『とろを食べる』というエッセイの後日談なのだが、なにぶん30年以上前の話であるし、特に10年前の大震災以降、垂水駅前は大きく変貌しているために、駅前商店街にあると書かれている「寿し磯」というお寿司屋さんは、残念ながら見つけることができなかった。
もし今でもあるのなら、是非行って安くて美味しい”とろ”や”うに”を食べてみたい。
*垂水区民の台所「垂水センター街」は垂水駅前を東西に貫く
「文學界 1993年1月号」に掲載された『十二市場オデッセイ』という短編は、もしかしたらこの商店街がモチーフのひとつになっているのかもしれない。
あるいは、今はアーケードがなくなってしまった「垂水銀座」だろうか。
「小説新潮」に連載されていた最近作である『銀齢の果て』での老人バトルロワイヤルエリアも、商店街周辺の地区を彷彿とさせる。
さすがに今はされないだろうが、筒井さんはその昔結構パチンコを打たれていたようだ。
今の電動式ではなく、手打ちの時代である。
『狂気の沙汰~』の中の『パチンコ』には、1日に1時間以上は必ずパチンコをすると書いている。
そして『同じ建物内の2軒続きが2ヵ所にある』と書かれているのだが、前述のように、垂水の駅前は大きく変貌しているため、残念ながらこの2軒続き2ヶ所合わせて4軒のパチンコ屋を特定することはできなかった。
しかし、震災後にできた駅前の商業ビルの1階に2軒続きのパチンコ屋が1ヵ所ある。
パチンコ屋はなかなか潰れないから、筒井さんが興じられた店と同じ系列のものかも知れない。
*手前の店「ラ・ソレイユ」と奥の店「プレミオ」
どちらも開店前から人が並んだりしていて、それなりに繁盛しているようだ。
神戸市の広報誌「神戸っ子」にも『狂気の沙汰~』とほぼ同時期にエッセイが連載されているが、特に1973年3月号に掲載された『垂水・舞子海岸通り』には、当時の垂水南部の風景が数多く描かれている。
順番に紹介していきたい。
まず、現在僕もよく利用する書店「文進堂」について。
垂水駅東口から北に上がる通りにあるのだが、ここは以前はアーケードがあり「垂水銀座」という愛称で親しまれていたようだ。
文進堂は、エッセイが書かれた当時には『垂水でいちばん大きい本屋』であったようだが、今は3番目くらいだろうか。
ここには筒井さんのサイン本が置かれていたりして、ファンにはとてもうれしい書店なのだが、もう少し筒井作品を取り揃えて宣伝していただくと、さらにうれしい。
*続々と客が入っているように見えるが、これは偶然である。
『狂気の沙汰~』の『愛車』や「別冊小説現代 1975年1月号」掲載の『神経性胃炎』いうエッセイにも、垂水銀座の名前が出てくる。
文進堂から垂水銀座を南に下りると、JR(当時は国鉄)と山陽電鉄が並行している線路の高架下にあった通称「たるせん」。
この「たるせん」の語源については、「垂水専門店街」の略なのか「垂水線路下商店街」の略なのか、よくわからない。
残念ながら「たるせん」は今年になって完全リニューアルしてしまったため、昔の面影はなくなってしまったが、地元の人は今でも愛着を込めて「たるせん」と呼んでいる。
*垂水駅高架下の「MOLTI」
実は「MOLTI」は山陽電鉄高架下の商店街で、JR高架下は「Viento」という商店街。
名前の違う商店街が隣り合って高架下を東西に貫いているので、待ち合わせの時などややこしくて仕方がない。
『ぼくはいつもここでコーヒーを飲む』と書かれている「上島コーヒー店」(UCC)は、垂水駅東口周辺を探したが見つからなかった。
家に帰ってからネットで調べてみると、どうも現在垂水にはUCCのショップはないようだ。
社長か会長が垂水に住んでいるはずだが、どうなのだろう。
さらに南に下ると(といっても100メートルほどか)、海沿いを走る国道2号線に出る。
昔の宿場町の面影を残す旧い家並みは、残念ながら新しい住宅や大きなマンションに圧されて消えつつあるが、思わぬところに和洋折衷の旧家が残っていたりする。
*国道2号線に掛かる歩道橋から西向きに撮影
手前に見える「福田橋」は、大正15年に造られた旧き良き垂水の象徴。
当時はそのまま海に出て泳ぐことができたようだが、今はコンクリートで護岸され遊泳は禁止されている。
ちなみに、僕の母は戦時中垂水に疎開していたことがあり、水着のまま家から歩いて海岸まで行き泳いでいたそうだ。
*現在の垂水漁港
次は国道2号線沿いにある「海神社」。
地鎮祭や七五三はもとより、お祭り、普段のお参りなど、垂水住民にはたいへん愛着のあるなくてはならぬ重要な場所である。
*海神社
*海神社南側にある大鳥居
国道2号線をはさんで海神社の南側にあった「垂水警察署」は1986年頃に垂水北部に移転し、現在は建てかえられてちょっと大き目の交番になっている。
エッセイに書かれているとおり、旧垂水警察署は警察署とは思えない立派な木造洋館で、もともとは大正時代に別荘として建てられた「旧四本萬三邸」であったそうだ。
*垂水駅前交番
右側の尖塔に昔の面影を残そうとはしてはいるが、趣もへったくれもない建物になった。
「文學界 2000年5月号」から連載された『恐怖』に出てくる、老朽化した文化財として価値のある税務署は、旧垂水警察署のことではなかろうか。
「
旧四本萬三邸」がどのようなものであったかをネットで調べてみたが、たったひとつしか見つからなかった。
四本萬三氏がどのような人であったのか、エッセイには『ある成金』と書いてあるのだが、これは調べてもよく判らなかった。
もしきちんと管理して保存していれば、立派な観光名所になっただろう。
もちろん警察署としてではなくだが。
エッセイに書かれているとおりに、国道2号線を西へ向かってみると「舞子公園」があり「移情閣」が見える。
移情閣については、ネットででもちょっと調べればたくさん出てくるので、エッセイと同様に説明は省こう。
ただし現在の移情閣は、明石海峡大橋を建造する際に、邪魔になるという理由で移転されたもの。
続いてエッセイに書かれている『有名な舞子の松』が有名であることを僕は知らなかったのだが、『車の排気ガスでもはや見る影もない』ために植え替えられたのか、今はきれいなものである。
*舞子の松
かなり長々と書いてきたが、もう少しなので我慢していただきたい。
「別冊小説宝石 1975年5月号」に掲載された『平行世界』は、筒井邸に近い「厄除け八幡」から上で紹介した海神社まで、南北数百メートルのエリアが無限に連なった世界でのドタバタを描いたものである。
厄除け八幡の境内は、夜になると真っ暗で怖いほどだ。
*厄除け八幡
*海神社境内からJR垂水駅のホームを見上げる
「SFマガジン 1990年10月号」に掲載された、夢か現か判らぬ不思議な短編『禽獣』には、筒井邸から南に2、3百メートル離れたところにある動物病院が『獣医の旗谷さん』として、名前だけ登場する。
*旗谷さんには、僕の家で飼っている犬と猫もたいへんお世話になっている
厄除け八幡の近くにある「愛垂幼稚園」もあるエッセイに登場するのだが、そのエッセイが何であったのか忘れてしまった。
それでも写すだけ写しておこうと思い幼稚園に赴いたのだが、ちょうと遊び時間中だったようで園児が大勢外に出ていた。
いまどき幼児にカメラを向けているとロリコンと思われて、誰何されるかただちに警察を呼ばれる可能性もあったので、撮影は断念せざるを得なかった。
まだ他にも垂水の風景を取り込んだ筒井作品があるかもしれないが、読み返しているうちに気づいたものがあれば、追加していきたいと思う。
文中、地名や施設名、誌名などについては必要な部分を「」で括り、筒井作品名および作品中の文章の引用についてはすべて『』で括った。
また、年代の一部については、”非公式”ファンサイト「
筒井康隆症候群」に公開されているデータを参考にさせていただいた。
支那さん、法水さん、メンバーの皆さんありがとう。
本当に役に立つわ、これ。