生死について、というテーマは、わたしにとってすごく身近で、幼少から持つ続けていることだ。
テレビでたまたま、生を哲学し続けていると言う人が出てきた。
生きるとはなにか、というテーマで話をしていた。
生きるとはなにか。
わたしは、死んでいないことだと思う。
気がつけば、自分があった。それが生きていることだと言う。
生きるは少なくとも自分自身の選択ではなかった。
自分がある、という状態を、生きている、というなら、まあ、生きているのかも、と思う。
いつも生死は自身とはまったく関係のないところから舞い降りてくるもののように思う。
生死は自分のもののような顔をしながら、まったく別の時間軸に生きるものだ。
生きる、を能動的に、または受動的に感じられるかで、生きる、の構築もおのおの変わってくると思う。
おそらくそれは、無意識の世界で選別されていることで、本能的に選択されていると思うけど。
現在がある、そのことに伴走したい、と、そう思う今日でした。
テレビでたまたま、生を哲学し続けていると言う人が出てきた。
生きるとはなにか、というテーマで話をしていた。
生きるとはなにか。
わたしは、死んでいないことだと思う。
気がつけば、自分があった。それが生きていることだと言う。
生きるは少なくとも自分自身の選択ではなかった。
自分がある、という状態を、生きている、というなら、まあ、生きているのかも、と思う。
いつも生死は自身とはまったく関係のないところから舞い降りてくるもののように思う。
生死は自分のもののような顔をしながら、まったく別の時間軸に生きるものだ。
生きる、を能動的に、または受動的に感じられるかで、生きる、の構築もおのおの変わってくると思う。
おそらくそれは、無意識の世界で選別されていることで、本能的に選択されていると思うけど。
現在がある、そのことに伴走したい、と、そう思う今日でした。