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サンタフェより

高地砂漠で体験したこと 考えたこと

ホームシック

2006年05月11日 | 旅人希望
あれだけよい思いをしたのだから(3/25から4/12の日記参照)一ヶ月ほど経ったことだしそろそろだなと覚悟していたら、やはり今日はちょっぴりホームシックだ。でも、ありがたいことにとても心地いいやつで、こういうんだったら浸ってもいいかなんて思っている。痛みがないわけではない。胸キュンだ。気持のよいマッサージにかかっているような感覚。

まずは母や伯母の手料理にはじまり、ちょっと酸っぱくなった野沢菜漬けの味。

友人やいとこの子供たちの声。

雲隠れの富士への憧憬の念。

弟と父のいびき。

おこたのぬくもり。

ひかえめに握り返してくる友人の握手の感触。

濡れた地面を踏んで歩くグジュッグジュッという音。

日本語の雑音。

祖母の仏壇のお線香の香り。

挙げ句の果てには、雨の日浅草橋駅から地下鉄へ降りる階段あたりの、湿ったいやな匂いまでが懐かしい。

東横線渋谷駅の構内放送も聞こえてくる。



「ああ~やるせない・・・」なんて言いながら、頬がゆるみっぱなしの一日だ。

機上で思うこと

2006年04月13日 | 旅人希望
前日あまり寝ないこと。これが私の時差ぼけ防止の特効薬だ。だから。機内食の時間も知らないほど寝てしまうことが多いのだが、今回はちょっと違った。興奮して眠れないのだ。旅というのは、出発前の計画や想像、実際の体験、そして「振り返り」と一粒で三度おいしいものだと思う。特に一人旅だと、帰りの道中思いっきり回想に浸れて楽しい。

ちょうど三週間に渡る私の里帰りは、とても有意義でエキサイティングで喜びに満ちていた。やりたいことの中でできるだろうと思ったことの、三分の二が実現したので上等だ。人に話すと「随分あちこち回ったね。忙しくなかった?」と言われるのだが、やりたくないことはせず、会いたい人にだけ会い、話したいことだけを口にして、食べたいものだけを食べていたせいか、どちらかというと「ゆったり」全てを経験することができたように思う。マイペースの底力だろうか。

サンフランシスコからの飛行機では、左側の窓側席に限る。グランドキャニオンが眼下に広がると、さあ第二の故郷が待っているぞ!

注:ここ三週間は、書き流しで写真もアップできなかったので、ぼちぼち手を加えるつもりです。機会があったら、遡ってみて下さい。4/8書き込みました。

おしまいの一日

2006年04月12日 | 旅人希望
名古屋から帰るので、日本最後の夜は静岡で過ごした。なぜ静岡かと言うと、サンタフェで通訳をして知り合った、とてもすてきな芸術家のご夫妻がいるからだ。今回名古屋からの出入りを決めたのも、飛行機の切符が格安だったのと、彼らを絶対に訪ねたいと思っていたからにほかならない。駆け足はいやなので、芹沢介美術館と岡部にある玉露の里に絞って案内していただいた。

芹沢美術館は、弥生時代の遺跡がある登呂公園内に建っている。京都で訪ねた河合寛次郎記念館に次いで、民藝運動のエッセンスを満喫できるオススメスポットだ。「おいしい蕎麦を食べまくる」という、この旅のもうひとつの目標をしめくくるのにふさわしい、歯ごたえのよい蕎麦と安倍川もちで腹ごしらえをすると、緑に囲まれたまあるい弥生の住居跡を通り抜けてゆく。「民藝」という言葉からは想像もつかぬ、現代的な石造りの建物がひょいと現れた。展示は芹沢氏自身の(主に)型染め布作品と、彼が世界中から蒐集した工芸の作品の数々。のれんや絵本の挿絵は以前どこかでお目にかかったこともあったが、紙すきの村風景を描いた着物や帯に心を惹かれた。よく言われることらしいが、洗練された彼のデザイン力と色使いのユニークさはどの作品を見ても明らかだ。「こころやすらぐ」という人が多いらしいが、私は「こころ躍る」感のほうが強かった。

玉露というと、単に「高級な煎茶」と思っているひとが多い。実は葉の種類だけでなく栽培方法が違い、味が全く違う。収穫の前に覆いを被せることでアミノ酸が増し、カテキンが減って、まったりと甘くて渋みの少ないお茶ができる。私の母はお煎茶の点前をたしなむので、結構親しみのある味なのだが、慣れないと「あまりおいしくない」のが玉露。説明に困るとつい「味の素が入っているような」と言ってしまうのだが・・・

ともあれ、私のお茶好きを知っている友人が、人に聞いて探してくれたのが「玉露の里」。静岡から国道1号線を下って北西にはずれると、雨上がりのすがすがしい風が両側の山肌を覆う竹林を揺さぶりはじめた。竹は他の木と異なり外側へこうべを垂れてしなるので、背の高い森の精がゆさゆさと頭を揺らして話しかけてくるようだ。比較的に新しい(平成3年より)「つくられた観光地」にしては、しっとりとして朝比奈川のせせらぎが気持よかった。瓢月亭というお茶室もあり、抹茶か玉露を選んで一服いただくこともできる。瓢箪モチーフは、少しくどかったが、ここで観る月の出は風情があるという。時折バスで観光客が来るらしいので、それを避けられるのであればまた来たいと思った。

夜はおいしいお酒と気の効いたおつまみを肴に、サンタフェでの不思議なご縁、芸術談義、おいしいもの談義に花が咲き、まだまだ終りにしたくない最後の夜が更けて行った。

伊那の谷

2006年04月04日 | 旅人希望
下諏訪から諏訪湖半を、北西に回ると岡谷市になる。かつてお蚕(かいこ)さんを育て、絹の製糸がさかんだった町だ。第二次大戦後急激に没落し、今は他の町と同様精密機械系の会社が連立する。(諏訪は農業のほか、その季候ときれいな空気や水を必要とする精密機械で栄えた町で、SEIKOの「諏訪精工舎」や「チノンカメラ」「ヤシカカメラ」などで知られている。)ここから天竜川が流れ出し、伊那谷へと中央、南の両アルプスの間を下り、田畑をうるおしている。

この天竜川沿いに西側の山あいを走り、辰野を抜け、箕輪町の梅苑(信州伊那梅苑:上伊那郡箕輪町一宮 0265-79-4086)を訪ねた。例に漏れず、このあたりでも梅と桜が一緒に咲くらしく、もう二週間待たねばならないそうだ。残念。でも、蕾をつけた何千という梅の木を見て、満開時には「むせるほど」という梅花の香りを容易に想像できた。お土産屋のおばさんたちに、外人への梅肉エキス販売英語口述のミニ講座をしてくれと頼まれ、二三手ほどきたら、去年の収穫で作ったお土産をいろいろ頂戴した。

うららかな一日を期待して、こちらへ来る前に阿久遺跡(原村:縄文前期のすばらしい祭祀場跡が出た)へ行きたいと思っていたのだが、なんと!もう埋められてしまったと知り、愕然。自分の思い込みの激しさと調査不足を恨めしく思い、また事情はわからなくもないが、日本にとってとても重要(と私は思う)な遺産を、「いつか誰かが掘り返したいとおもったら、可能な状態で」(?!)埋めてしまう価値観に、憤りを覚えた。まあ怒って貴重な時間を無駄にしてもいられないので、気を取り直して、伊那にある伊那市考古資料館を訪ねることにした。(伊那市大字西箕輪3054-4:0265-78-6166:みはらしファームから仲仙寺をめざすとよい)



「営利目的ではないので」というわけで、入場料は破格の百円。おじさん一人が管理をしている。お寺のすぐ真下にあり、なにも道しるべがなかったので、探すのに苦労した。農家と段々畑の間を抜け、農作業中家に寄ったらしいおばさんを見つけて聞くと、「あのお寺(仲仙寺)のすぐ下だで、寺の門をくぐって左側だよ。」と教えてくれた。二本の古木に橋をかけて作った門をくぐると、小さな小さな白い建物が、ひっそりと佇んでいる。管理をしているおじさんは、「週末は遊歩道に野草を見に来る人が、ここに駐車して通り過ぎていくだけで、中に人がきてくれることなんて、まずないだよ。」と嬉しそうに迎えてくれた。ところが、ここの収集の数にわたしは、腰を抜かしそうになってしまった。中央高速道の建設(昭和46年より実施)にあたり、わんさか出た土器や鉄器のうち、状態のすばらしいものは美術館などに持っていって、残りはここへ集めたらしい(所蔵数は2500点あまり)。顔つきの土器をはじめ縄文前期から、弥生、古墳時代から中世、明治まで、ガラスのケースからあふれんばかりに並んでいる。聞くと、まだまだ倉庫にたくさん眠っていて、半年に一度ぐらいの頻度で入れ換えるのだそう。土器、鉄器などの他にも、大きな絵馬の奉納物などもあって、面白かった。江戸時代木曾で洪水があり、馬を売れず困った勘兵衛さんは権兵衛峠を越えて、伊那にやって来た。ここでも馬はなかなか売れず困って、仲仙寺の神様へお願いに行った。「馬が売れたらお礼に千馬の絵馬を奉納いたします」しばらくして馬は売れ、木曾へ帰っていった彼は、一財産築いてから約束通り、千馬の描かれた絵馬を納めた。第二展示室はそんなお話であふれていた。

しだれ梅と土器、伊那へまた来る理由が増えてしまった・・・

下社秋宮へ

2006年04月04日 | 旅人希望
先日サンタフェで知り合った、諏訪大社の権禰宜(ごんねぎ)の方を訪ね、下諏訪町にある下社秋宮へお参りに行った。

諏訪大社は、実はひとつのお宮ではない。上社(神体は山)と下社(神体は木)に分かれ、上社には前宮と本宮、下社には秋宮(山宮)と春宮(里宮)がある。諏訪っ子たちは、周りの山や城址に加え、すべてのお宮に小学校の遠足で行ったことがあるはずだ。下社秋宮へは、初詣に加え御柱祭り、七五三、もろもろで私も過去に多分10回ぐらいは行ったことがある。

鳥居をくぐり、神木でもある大きな木を見ながら神楽殿を回って、拝殿へ。「二礼 二拍手 一礼」とは知っていてもなかなか慣れないので、まずは恥をかえりみずお参りの仕方を教えていただいた。神様の通り道である真ん中は避け、脇から。深くゆっくり二回礼をし、手を合わせる。右手をほんの少し下へずらし、二度打つ。手を元にもどして合わせ、祈願をし、礼をしてすみやかにその場を離れる。

インディアンの信仰と神道の信仰の類似点や違いを話し合い、諏訪大社の由緒や歴史について、いろいろお話をお聞きした。私はお話が好きなので、今の川岸という地区で土着の神(モレヤノカミ)と出雲からきた諏訪明神(クニツノカミ)が、鉄の環と藤の蔓を手に戦った話はおもしろかった。

四月十五日は、上社で一番大きな大切な神事「御頭祭」があるそうだ。残念ながら私はその頃、サンタフェへもどるが、機会のある方は見に行かれたらいい。

信州の珍味

2006年04月02日 | 旅人希望
信州に来て何を食するか?答えは案外簡単で、やはり「蕎麦」につきる。これは、説明不要であろう。

次は、「おやき」。行事というと家庭で作られる焼きまんじゅうなのだが、中身にあんこのほか、野沢菜つけ、かぼちゃ、なすみそなどおかずが入るのが特徴だ。

今の時期だと、ふきのとう、たらのめ、うど、ふき、こごみ、おこぎなどの山菜。うすい衣をつけて揚げた天ぷらを、塩でいただく。または、酢漬けや甘味噌煮。

そして、珍味となると・・・
蜂の子、サザ虫、イナゴと馬刺し。



蜂の子は、クロスズメ蜂の幼虫。
    秋になると、蜂の子取りの人々は、蜂のいそうな野山に出かけて、カエルや魚の肉片を餌に使い、長い棒の先につける。と、何匹かやって来て、肉を食いちぎって飛び去る。仲間を連れて戻ってきたら、今度は細切れの肉に、目印になる真綿を糸状にして結びつけて、食わせる。その白い真綿を目印に追いかけ、巣のありかがわかると、燻してから巣を取り、一匹一匹幼虫を取り出す。これを甘露煮にしていただく。

サザ虫は、カワゲラ・カゲロウの幼虫。
    伊那地方のもので、私はあまりなじみのないものだが、明日伊那に行くので、試してみようと思う。

イナゴは、稲につく中ぐらいのバッタ。
    稲刈りのころ、手で捕まえて手ぬぐいを縫って作った袋に入れて、一晩置く。ふんが出切ったら、茹でてから甘露煮に。かなり砂糖が多めで、カリカリとなることも。地元の人は、スナックとしてお茶うけに食べる。何を隠そう、わたしもイナゴ取りをして育った。

馬刺しは名前の通り。しょうが醤油で。

今日は蕎麦屋に行って、山菜の天ぷら、蜂の子、馬刺しを食べた。長野の野菜は何を食べてもかなりイケル。が、こういった「珍味」が、実は故郷の味となって、人の記憶に残るものだ。私も何度蜂の子やイナゴの味を、サンタフェにいて思い出し、人々に話したことか。

木曾谷を通って

2006年03月31日 | 旅人希望
京都を後にして、名古屋から木曽川に沿って北上し、八ヶ岳山麓に帰ってきた。御嶽山も北駒も健在だ。眼前から隆々と聳え立ち、白絹を頭にまとった中央アルプスを見て、故郷は遠くからばかり想うものではない、と思った。日本の緑は、墨絵にも描かれたように、ドス黒い深い色だ。森の中に入ると、背の高い赤松や白樺が立ちはだかり、天空というものがはるか彼方にある畏れ多いもの、と思い知る。サンタフェの空は、すぐそこに手の届くもので身近に感じ、「父なる大空よ」と声をかけたくなる。こんな二面性を両方味えるとは、随分恵まれているのだと実感した。

上諏訪の駅を通り越すとき、駅にあった露天風呂が「足湯」に縮小されていた。利用者が少なかったからだとか。駅前の国道20号沿いも、あまりいい雰囲気とは言えない具合に開発されてしまって、ちょっと残念だった。

気をとりなおして原村へ。雪がうっすら地面を覆っている。塗れた松葉を踏んで歩き、ほのかなその香りを胸いっぱいに吸って、今夜は八ヶ岳の大きな懐に身を任せよう。

水郷佐原

2006年03月27日 | 旅人希望
古い町並みを残して、小江戸と自称する千葉県の佐原(さはら)から九十九里浜をめぐる房総のドライブに一日行ってきた。私の母は、小さな専門小売店が好きで、前からちょっとおもしろいのだと話にはきいていたのだが、なかなか楽しく風情のある街だった。成田空港のすぐ近くだから、もっと観光客を呼ぼうと、町起こしをしたらしいが、あまりへんに手を入れた看板などなく、お店も自分のペースで昔ながらの欲のない商売をしているところが多く、好意をもった。



利根川の水運中継地として発展したこの町は、日本地図を作成したことで有名な伊能忠敬の出身地としても知られる。旧伊能宅は、つつましやかで本人が設計したという書斎は、こじんまりとして居心地がよさそうだ。家で切らしていた醤油とごま油で作ったラー油などを購入した。

佐原の郊外には香取神宮がある。明治以前は出雲、鹿島とこの香取のみが「神宮」の称号で呼ばれていたということで、由緒あるお宮なのだそうだ。天照大神(あまてらすおおみかみ)が争いの絶えぬ国を治めようと大国主命(おおくにぬしのみこおと)が力をふるう出雲に送った神々は、ことごとくその使命に失敗。そこで経津主神(ふつぬしのおおかみ・香取神宮の御祭神)と武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が新たな任命を受ける。二神が出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示すと 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本の国を平定して、大御神の元へ復命する。 これがかの有名な「出雲の国譲り」のお話だそうだ。そういうわけで、この神宮は国家鎮護の神がおわす、として古くから厚く崇敬を受けている。



黒塗りに金箔の貼られた本殿は、元禄13年(1700)までは20年ごとに建て直すのがならわしだったとか。屋根がとても立派だった。同じく漆黒色の拝殿とともに、朱塗りの楼門や祈祷殿(旧拝殿)とのみごとなコントラストで、目の覚めるような風景だ。参堂は鬱蒼とした森に杉、イヌマキ、黒松、めいっぱいに膨らんだ桜のつぼみ、眼下にはシダなども生えて、サイズは小ぶりながら荘厳とした佇まいであった。もしかしたら初めて引いたおみくじは「小吉」。旅はよし、焦らずに自分に与えられた幸福を用いて、人のために何かせよということだった。納得。

下総一ノ宮(香取神宮)を後にして、コブシやモクレンで目の保養をしつつ海岸線に出て、潮風を楽しみ、焼きハマグリに舌鼓を打ち、日本の歴史を満喫した一日となった。

旅人希望 卒業

2006年03月15日 | 旅人希望
十年ほどナリワイに追われて暮らし、これじゃいやだなと思い立ったのが去年の夏。以来「旅人希望」を自称してきた。でも、ここサンタフェやネット通信ですばらしい出会いや経験があり、「旅に出る」ことへの執着はなくなった。不思議なもので、「手放す」とその瞬間から手に入るのが「希望」のようだ。

先日久しぶりでアナ ウォルターズさんから、連絡があった。彼女はオクラホマ育ちのポーニー/オットー ミズーリのインディアンで、ナバホと結婚してアリゾナに住んでいる物書きだ。私がディネ カレッジでとてもお世話になった、先生でもある。アリゾナにいた時はもとより、私がサンタフェに来てからも、一度友人とやってきてスウェットをやってくれたりした。白人と結婚して、何人かのネイティブの友人に背を向けられて傷ついていた時も、一緒に涙を流し、「この人種差別の悪循環がなくなる日を待ちましょう。これを理由に、ナバホやインディアンの敵にならないで。」と言ってくれた人だ。彼女も最近学校を辞め、新しいことを始めようとしているのだという。そして、今年で十年目になるという「アメリカのネイティブが、アメリカのネイティブを訪ねる旅」に誘われた。私は、この十年彼女のことを忘れたことはなかった。アリゾナへ行ったら絶対に訪ねたい人だった。それが、一方通行でなかったと知り、とてもうれしい。先日アリゾナ行きを中止しなくてはならなくて、とても残念だったのだが、めぐりまぐって、もっとすばらしい再会となりそうだ。

日本の次はアンデスか・・・悪くないな。

夢破れる・・・かも

2006年02月17日 | 旅人希望
今日、ブログを読んだ日本の友人からメールが来た。私が富士山へ行きたがっているのを知って、メールをくれたのだが、ひとつ大きな指摘を受けてしまった。「富士山の山開きっていつだっけ?」というのだ。

まだはっきりわからないのだが、富士の山開きって七月のはじめ?すっかり浦島太郎になっていた。ショックだ。夢が破れそう。立ち直れない・・・

まあ気を取り直して、五合目あたりで納得することにしたものの、このあふれるエネルギーのやり場がなくなってしまった。残念だ。湿気がキツイので絶対避けようと心に決めていたのだが、そのうち夏に帰らねばならぬ理由ができてしまった。

高地トレーニング?

2006年02月11日 | 旅人希望
ここ数週間、日本に帰ったら富士山に会いたい、という願いがふつふつと湧いてきた。10年前に(その時も三四年ぶりで帰ったのだが)富士を見たくて、箱根や御殿場へゆっくり行って、雲ひとつない青空と赤紫の夕焼けに映える見事な全景を拝んだ。今回は、その地をこの足で踏みしめ、その空気で胸をいっぱいにしたい。それは、このブログを始めてから知り合った人々の影響でもある。母に言ったら「へッ?何でまた。」と言われてしまった。が、行きたいものはしょうがない。それに、日本でしかできないこと、という点ではこれ以上ふさわしいことはないように思えて来た。

清厳さんの富士参拝の記録を読ませて頂いて、「富士に会いに行く」というのは、実は登山だという当たり前のことに今気づいた。日本滞在時間は短いので、山登りをしてへたばったり病気になっている時間はない。ということは、少し鍛えてから行かねば!

いつも言うようにサンタフェは高地である。標高7000フィート(2140メートル)は、富士の六合目当たりになろうか?だから、ここで週に数回心拍数をあげる訓練をして行けば、それ以上特別なことはしなくていいのではないだろうか?一ヶ月ほどだが、何もしないよりはまし。というわけで、犬の散歩をする時、夏のようにスキー場近くまで行こうと決意。愛犬桜(上諏訪出身サンタフェ育ちのパグ:小型犬の割りにはよく歩く)にも協力を頼んだところ、快く?承知してくれた。