A Yaqui EasterUniv of Arizona Prこのアイテムの詳細を見る |
コカの葉は、ペルーの重要な聖なる薬草だ。私が今回訪ねたのは南部の高地だったが、コカは高山病(標高3600m)を助け、胃の調子も整えるのだそうで、この辺りの農民はもちろんみんながガムを噛むように、常に口に含んでその汁を吸っている。雑貨屋の片隅に他のお菓子やお茶と同様売られているし、道ばたで水を売っている人たちに尋ねれば、自分たちが持って来ているのを安く分けてくれる。カフェやレストランでも、簡単に注文できる。味は、まあ乾燥した葉っぱの典型的な、青っくさい風味だ。

このコカの葉を使って占いをするシャーマンたちがいるという。
フォアン・ハブリエル(Juan Gabriel)は、コヨリティという山奥の村から、数日かけてクスコへやって来た。部屋の一角に机を置いて、その上にブランケットや葉っぱを並べはじめる。わたしたちは順番に、お金を机に置き自分の名前を告げる。フォアンは、左手を相談者の頭にのせると、ケチュア語でおまじないを唱え、いく枚かのコカの葉を両手で額の高さに掲げてから、てにフゥーッと息を吹きかけ、葉を机にパラッとまき散らす。数枚気になる葉を指差しながら、相談に答える。基本的には、二者選択で迷っているとか、○○をしようと思うのだがいいだろうか、という質問をするように言われた。「私はどうすればいいのでしょうか?」と聞いても、答えはでないらしい。

私は今まであまり占いなどとご縁がなかったので、今回が初めてだ。アデラに寄れば、かれは観光客あいての占い師とは違うから、信用してよい、とのこと。でも何をどう聞けばよいのか困っていると、彼はそれを承知かのように「あなたの今の状況はこうだ」というような話を始めた。ケチュア語からの通訳で、彼が実際どういう表現をしているのかわからず残念だったが、アデラはできる限りくわしく訳してくれた。その内容は、私の心にしまっておくことにさせていただくが、結構詳細におよんでいて、理解不可能な不思議なことも含め、自分なりに納得のいくものだった。アドバイスもいくつか受けた。
フォアンは占いの最中、不思議な光のベールをかぶっているようだったのに、いざ終わってみんなの緊張感が消え、私たちがあいさつを始めると、笑顔の愛らしいおじさんにもどっていた。
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In Cuzco.
Had a coca leaf reading.

このコカの葉を使って占いをするシャーマンたちがいるという。
フォアン・ハブリエル(Juan Gabriel)は、コヨリティという山奥の村から、数日かけてクスコへやって来た。部屋の一角に机を置いて、その上にブランケットや葉っぱを並べはじめる。わたしたちは順番に、お金を机に置き自分の名前を告げる。フォアンは、左手を相談者の頭にのせると、ケチュア語でおまじないを唱え、いく枚かのコカの葉を両手で額の高さに掲げてから、てにフゥーッと息を吹きかけ、葉を机にパラッとまき散らす。数枚気になる葉を指差しながら、相談に答える。基本的には、二者選択で迷っているとか、○○をしようと思うのだがいいだろうか、という質問をするように言われた。「私はどうすればいいのでしょうか?」と聞いても、答えはでないらしい。

私は今まであまり占いなどとご縁がなかったので、今回が初めてだ。アデラに寄れば、かれは観光客あいての占い師とは違うから、信用してよい、とのこと。でも何をどう聞けばよいのか困っていると、彼はそれを承知かのように「あなたの今の状況はこうだ」というような話を始めた。ケチュア語からの通訳で、彼が実際どういう表現をしているのかわからず残念だったが、アデラはできる限りくわしく訳してくれた。その内容は、私の心にしまっておくことにさせていただくが、結構詳細におよんでいて、理解不可能な不思議なことも含め、自分なりに納得のいくものだった。アドバイスもいくつか受けた。
フォアンは占いの最中、不思議な光のベールをかぶっているようだったのに、いざ終わってみんなの緊張感が消え、私たちがあいさつを始めると、笑顔の愛らしいおじさんにもどっていた。
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In Cuzco.
Had a coca leaf reading.
実際にペルー入りするのは28日なのだが、早朝の出発になるので私たちリザベーション組(私ベンの他3人)は今日フェニックスへ発つ。ハリーの妹さんの家にご厄介になる予定だ。
今朝は6時までぐっすり寝た。母屋へ入ると、ベンが自慢のエスプレッソ・マシンでおいしいコーヒーを入れてくれた。ドイツに住んだ事のある彼は、こういう所がナバホらしくない。20才までは、ナバホであっても他の氏族と交流さえ許されなかったような、いわゆる伝統派の家族に育ちつつ、世界中に友達がいる。実に不思議な人だ。くつろいでいると、「さあさあいつまで座っているんだ。」とお尻を叩かれ外に出る。どうもメディスン・レディが到着したらしい。
彼女は、パウチからトウモロコシの花粉をつまみ出して土に撒き、自分も少しなめてから歌い始めた。よくわからないが、どうもヘビと熊が出て来たようだ。四方向へ向かって四巡すると、祈りは終わった。あまり詳しい説明は得られなかったが、「見知らぬもの(アナイ)へのプロテクション」で女性性を重視した儀式だったらしい。(「アナイ」は「アナーサジ」と類語源の言葉で、言ってみればナバホ以外のものは全て「アナイ」である。)ヘビの歌は「美の法」(Beauty Way)、熊の歌は「山の法」(Mountain Way)から来ているとか。実は私も「アナイ」なのだが、自分で自分に対する保護の祈りをかけていいのだろうか、と言うと「お前が一番危険なアナイだから、ちょうどいい」と笑い飛ばされてしまった。
高速には乗らず、スイスイと裏道を下りながら南下していく。この辺りは国立公園なので、比較的背の高いピニョンの緑が美しい。途中、ベンのひいお婆さん姉妹(大きいお婆さんと小さいお婆さん)の話や白人に仇を討つため白人と結婚して、その後自殺してしまった詩人の弟の話、商売のうまいドイツ人トレーディング・ポストの主人の話など、考えさせられる話を次々に聞いた。ベンはどんな話でも、ウィットでもっておもしろくしてしまう。アナに「おしゃべりだから、真剣につき合っていたら、旅の最後までもたないわよ。」と忠告されつつ、私はついつい性分で、しっかりメモを取っていた。
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On the wway to Pheonix, they explained the meaning of the prayer.
Snake and bear (beauty way and mountain way).
Lots of stories.
Lilian's grapefruits.
今朝は6時までぐっすり寝た。母屋へ入ると、ベンが自慢のエスプレッソ・マシンでおいしいコーヒーを入れてくれた。ドイツに住んだ事のある彼は、こういう所がナバホらしくない。20才までは、ナバホであっても他の氏族と交流さえ許されなかったような、いわゆる伝統派の家族に育ちつつ、世界中に友達がいる。実に不思議な人だ。くつろいでいると、「さあさあいつまで座っているんだ。」とお尻を叩かれ外に出る。どうもメディスン・レディが到着したらしい。
彼女は、パウチからトウモロコシの花粉をつまみ出して土に撒き、自分も少しなめてから歌い始めた。よくわからないが、どうもヘビと熊が出て来たようだ。四方向へ向かって四巡すると、祈りは終わった。あまり詳しい説明は得られなかったが、「見知らぬもの(アナイ)へのプロテクション」で女性性を重視した儀式だったらしい。(「アナイ」は「アナーサジ」と類語源の言葉で、言ってみればナバホ以外のものは全て「アナイ」である。)ヘビの歌は「美の法」(Beauty Way)、熊の歌は「山の法」(Mountain Way)から来ているとか。実は私も「アナイ」なのだが、自分で自分に対する保護の祈りをかけていいのだろうか、と言うと「お前が一番危険なアナイだから、ちょうどいい」と笑い飛ばされてしまった。
高速には乗らず、スイスイと裏道を下りながら南下していく。この辺りは国立公園なので、比較的背の高いピニョンの緑が美しい。途中、ベンのひいお婆さん姉妹(大きいお婆さんと小さいお婆さん)の話や白人に仇を討つため白人と結婚して、その後自殺してしまった詩人の弟の話、商売のうまいドイツ人トレーディング・ポストの主人の話など、考えさせられる話を次々に聞いた。ベンはどんな話でも、ウィットでもっておもしろくしてしまう。アナに「おしゃべりだから、真剣につき合っていたら、旅の最後までもたないわよ。」と忠告されつつ、私はついつい性分で、しっかりメモを取っていた。
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On the wway to Pheonix, they explained the meaning of the prayer.
Snake and bear (beauty way and mountain way).
Lots of stories.
Lilian's grapefruits.
ミュージアム・ヒルというダウンタウンからちょっとはずれた小高い丘にあるインディアン文化美術館では、『蜘蛛女からの贈り物』("Spider Woman's Gift")と題して、ナバホの織物展をやっている。
1860-1880年のいわゆる「クラシック(古典)」時代の後半あたりの作品40点ほどが、長期に渡って展示されている。オープニングでは、織り手の実演や講話もあった。毎週日曜日は、ニューメキシコ州住民なら無料なので、昨日はちょっと重い体を励ますために行って来た。二度目だったけれど、やはり目の覚めるような赤い地に入った大胆な黒や白のボーダーが、とても印象的なショウだ。当時は暖をとるための毛布や着物としての用途が一般的だったので、ポンチョやドレスの形に仕立てたものも少なくない。(生地が厚くなって敷物用になるのは、1890年以降ぐらいから)この時代で一番知られているのは、「酋長のブランケット」と呼ばれているもので、大抵は三色(赤、黒、白または青が多い)のリズミカルなストライプに、短い横縞が入ったり、菱形の模様が入ったりする。他の部族の酋長や白人の軍人、その他政治的な重要人物たちへの贈り物として珍重された。(もちろんメキシコや周辺の白人たちとの交易も盛んだったにちがいない。)
ナバホの言い伝えに寄れば、彼らに織物を授けたのは「蜘蛛女」。神話でも大きな役割を果たす彼女は、もちろんメディスンの道に関わる妖女である。彼女と、実際に台を作った「蜘蛛男」の教えにより、ナバホは直立型の織り台を使うことになった。

私も一応ディネカレッジへ行ったわけだから、織物の初歩の初歩は体験した。刈った毛をすき櫛(犬猫用のブラシのような、長方形の板に細かい針が無数についた道具)二つをこするようにしてすいてゴミを取って柔らかくし、それを紡ぎ棒にくるくる回して巻き付けながら紡ぐ。そうして作った毛糸を使う。(さすがに時間の関係で、草木染めまではくわしく体験できなかったので、今もなお残念無念だ。)縦糸をはじめに全て張り、長い横糸(模様があるので、実際は何本もの糸が、所々からぶら下がったようになる。編み物のフェアアイルなんかと、同じだ)を左右に往復して縦糸の間を通し、一筋渡すたびに木のフォークのような櫛で上から叩き下ろして目を詰める。
私のクラスにはオーストリア人の織物研究者が来ていて、彼女ははじめから目をまん丸くしっぱなしだったたのを覚えている。他の織物がどうなのか知らないが、ナバホの織物はサイズがはじめから決まっている。だから、私たち慣れない者に取って模様(それも左右上下に対称の多いインディアンのシンボル)の辻褄を合わせるのは、けっこう難儀なことである。ところが、おしゃべりに夢中で大して集中しているようでもない彼女たちは、「お婆ちゃんのやるのは見たことあるけど、あまりやったことない」とか言いながら、何の設計図もなしにシャカシャカ、トントン織っていく。できあがると、きちんと対称になって風景が画面におさまっているのだから、本当に不思議だった。
この展示は、古いものながらコンディションがものすごくよくて、すばらしかった。個人的には、タイトルの大きさに比べ時代が限られ過ぎていて、ちょっとバラエティーに欠けるのが唯一の不満だろうか。
ともあれ、冬の星空の下一晩中続くセレモニーに参加する時など、こんな美しい真っ赤なブランケットに身を包んでみたいものだ。
1860-1880年のいわゆる「クラシック(古典)」時代の後半あたりの作品40点ほどが、長期に渡って展示されている。オープニングでは、織り手の実演や講話もあった。毎週日曜日は、ニューメキシコ州住民なら無料なので、昨日はちょっと重い体を励ますために行って来た。二度目だったけれど、やはり目の覚めるような赤い地に入った大胆な黒や白のボーダーが、とても印象的なショウだ。当時は暖をとるための毛布や着物としての用途が一般的だったので、ポンチョやドレスの形に仕立てたものも少なくない。(生地が厚くなって敷物用になるのは、1890年以降ぐらいから)この時代で一番知られているのは、「酋長のブランケット」と呼ばれているもので、大抵は三色(赤、黒、白または青が多い)のリズミカルなストライプに、短い横縞が入ったり、菱形の模様が入ったりする。他の部族の酋長や白人の軍人、その他政治的な重要人物たちへの贈り物として珍重された。(もちろんメキシコや周辺の白人たちとの交易も盛んだったにちがいない。)
ナバホの言い伝えに寄れば、彼らに織物を授けたのは「蜘蛛女」。神話でも大きな役割を果たす彼女は、もちろんメディスンの道に関わる妖女である。彼女と、実際に台を作った「蜘蛛男」の教えにより、ナバホは直立型の織り台を使うことになった。

私も一応ディネカレッジへ行ったわけだから、織物の初歩の初歩は体験した。刈った毛をすき櫛(犬猫用のブラシのような、長方形の板に細かい針が無数についた道具)二つをこするようにしてすいてゴミを取って柔らかくし、それを紡ぎ棒にくるくる回して巻き付けながら紡ぐ。そうして作った毛糸を使う。(さすがに時間の関係で、草木染めまではくわしく体験できなかったので、今もなお残念無念だ。)縦糸をはじめに全て張り、長い横糸(模様があるので、実際は何本もの糸が、所々からぶら下がったようになる。編み物のフェアアイルなんかと、同じだ)を左右に往復して縦糸の間を通し、一筋渡すたびに木のフォークのような櫛で上から叩き下ろして目を詰める。
私のクラスにはオーストリア人の織物研究者が来ていて、彼女ははじめから目をまん丸くしっぱなしだったたのを覚えている。他の織物がどうなのか知らないが、ナバホの織物はサイズがはじめから決まっている。だから、私たち慣れない者に取って模様(それも左右上下に対称の多いインディアンのシンボル)の辻褄を合わせるのは、けっこう難儀なことである。ところが、おしゃべりに夢中で大して集中しているようでもない彼女たちは、「お婆ちゃんのやるのは見たことあるけど、あまりやったことない」とか言いながら、何の設計図もなしにシャカシャカ、トントン織っていく。できあがると、きちんと対称になって風景が画面におさまっているのだから、本当に不思議だった。
この展示は、古いものながらコンディションがものすごくよくて、すばらしかった。個人的には、タイトルの大きさに比べ時代が限られ過ぎていて、ちょっとバラエティーに欠けるのが唯一の不満だろうか。
ともあれ、冬の星空の下一晩中続くセレモニーに参加する時など、こんな美しい真っ赤なブランケットに身を包んでみたいものだ。
ギャザリング・オブ・ネイションズに行ってきた。23日の日記で紹介した、インディアンのダンスイベントだ。夕べサンタフェは雪が降ってぐっと冷え込んだので、山を下ってアルバカーキへ行くのにはちょうどよいタイミングだった。時間に余裕かあるのでいつもの高速I-25ではなく、裏道「旧トルコ石街道」を行くことにする。かつてメキシコとサンタフェを繋ぐ、流通の要だった街道だ。山あり谷ありで少し遠回りだが、気持のよさではこちらの方が数段上だ。夜走っていて鹿にであったこともある。
ネット前売り券は4/10で終了していてチケットを買ってなかったので、入場できるかちょっと心配だったが、大丈夫。開場1時間後に着いたのは不幸中の幸いで、混雑を避けることができてかえってラッキーだった。駐車場も探せば空きがある程度だ。全国からやってきた車であふれていた。

この人たちはノース・ダコタから
$13.50の当日券を買って入場。これは室内球場アリーナなので、まずはぐるっと最上階にお店やスナックのスタンドが並ぶ。歩くのがやっと、ぐらいの混みようだ。ドリームキャッチャー、ジュエリー、皮製品、太鼓、などさまざまな屋台に人がたかっている。まずは席を確保したいので、一番下の広場から放射線状に伸びる通路のひとつを、下りつつ見て歩く。空いているベンチはほとんどがインディアン・ブランケットで覆われているから、もう先客ありだ。間もなく私も落ち着くことができた。新聞に寄ると全米より約500部族、3000人のダンサー、50のドラムグループ、800ほどの店、三日間の期間中の予想来場数はのべ15万人。18000人収容のアリーナ席はほぼ満席で、外にあるもうひとつのトレーディング・マーケットのテントも混んでいた。
グランド・エントリーは12時頃に始まった。(予定表はあるものの、例に漏れずインディアンタイムで進行。)ダンサーが入場し始めると、あっという間に中央アリーナはぎゅうぎゅう詰めになった。加えてドラムのブンブン、諏訪御柱祭りの木遣りを思わせる甲高い歌声、ダンサーが足首や腰に付けた金物の鈴の賑やかな音。ド迫力だ。

ブレていて申し訳ないが、雰囲気は伝わるだろうか?
30以上あるダンスのカテゴリーは、男女年齢別(6-12、13-17、18-34、35-54、55-69、70+)、スタイル(衣装「レガリア」や踊り方)別(チキンダンス、ジングル、ショール、南北伝統、「歩き回り」スタイル、直立など)などだ。中央アリーナに円を描いて入り、ドラムグループの演奏開始とともに踊り出す。ステップは、基本が二拍子づつ片足で取っていくステップ、二拍子分を片足一回で踏むステップ、この二つのバリエーションで足を前、後ろや上へ蹴り上げるもの。皆が一列に進んでいくのではなく、その場で回りながらステップを踏む人、ズンズン前へ進んでゆく人、音楽に合わせてペースが極端に変わる人と様々だ。男性が頭や腰につけている蛇の目傘くらいの大きさの羽飾りは、遠目にみてもゆさゆさとゴージャス。女性は、白いバックスキンやサテンにビーズの刺繍をほどこしたものや、「ジングル」と呼ばれる5cmほどの銀やニッケルでできたラッパ型の鈴を、フリンジ状に縫い付けたレガリアをまとっている。肩からショールをかけていることもあれば、きれいに細長く折りたたんだのを左腕にかけて踊る人もある。みんな右手には、2、3本束ねたイーグルの羽を持っている。

左上の三人はバックスキン、中央下の赤い女性はジングル

男性の羽飾りはとにかく華やかだ
ドラムもコンテストに参加しているので、とても真剣だ。北部の部族は高くて速い緊張感のある音、南部はゆったりとして深い音色のような気がした。大きな丸い太鼓を囲んで6-7人が打つ。リードをとっている人がいるようだ。曲相は数回変わる。これに合わせてダンサーも羽を高く掲げたり、腰を屈めて舞う。何となく始まって終わるように見えるが、リードのドラマーが信号を出しているので、終りはドラムもダンサーもピタリと止まる。これを逃すと、コンテストでの点数がかなり引かれるのだそうだ。
特に感動したのは、「シニア・ゴールデン・エイジ」のカテゴリーだった。エルダー(お年寄り衆)とは言っても、彼らの踊り具合から見て「そんなこと言って、孫がいれば出られるんじゃないかな。20才で2-3人の子持ちが当たり前の文化だし」とタカを括っていた。ところが激しく、そして優雅に踊り終えて席へ帰ってゆく彼らの髪は真っ白だ。後でプログラムを見てみると、70才以上とある。すごい。何十年も踊り続けて、まだ現役。その熟練の落ち着きとそれでいて情感こもった身のこなしは、他の誰も簡単に真似できる物ではなかった。そして、踊り終えてから、他の参加者と握手して静かに退場する様子の凛としていること。やるなぁ~、の一言だ。
お店やスナックを買いに出れば、その辺を一般客に混じってダンサーやドラマーが買い物して歩いている。お祭りモードなので、礼儀正しく話しかければ誰でも比較的気楽に応えてくれる。全国から店や作り手がやって来るので、やりとりはおもしろいし勉強にもなる。インディアン好き、お祭り好きはきっと楽しめるのではないだろうか。人ごみ嫌いの私が言うんだから!
ネット前売り券は4/10で終了していてチケットを買ってなかったので、入場できるかちょっと心配だったが、大丈夫。開場1時間後に着いたのは不幸中の幸いで、混雑を避けることができてかえってラッキーだった。駐車場も探せば空きがある程度だ。全国からやってきた車であふれていた。

この人たちはノース・ダコタから
$13.50の当日券を買って入場。これは室内球場アリーナなので、まずはぐるっと最上階にお店やスナックのスタンドが並ぶ。歩くのがやっと、ぐらいの混みようだ。ドリームキャッチャー、ジュエリー、皮製品、太鼓、などさまざまな屋台に人がたかっている。まずは席を確保したいので、一番下の広場から放射線状に伸びる通路のひとつを、下りつつ見て歩く。空いているベンチはほとんどがインディアン・ブランケットで覆われているから、もう先客ありだ。間もなく私も落ち着くことができた。新聞に寄ると全米より約500部族、3000人のダンサー、50のドラムグループ、800ほどの店、三日間の期間中の予想来場数はのべ15万人。18000人収容のアリーナ席はほぼ満席で、外にあるもうひとつのトレーディング・マーケットのテントも混んでいた。
グランド・エントリーは12時頃に始まった。(予定表はあるものの、例に漏れずインディアンタイムで進行。)ダンサーが入場し始めると、あっという間に中央アリーナはぎゅうぎゅう詰めになった。加えてドラムのブンブン、諏訪御柱祭りの木遣りを思わせる甲高い歌声、ダンサーが足首や腰に付けた金物の鈴の賑やかな音。ド迫力だ。

ブレていて申し訳ないが、雰囲気は伝わるだろうか?
30以上あるダンスのカテゴリーは、男女年齢別(6-12、13-17、18-34、35-54、55-69、70+)、スタイル(衣装「レガリア」や踊り方)別(チキンダンス、ジングル、ショール、南北伝統、「歩き回り」スタイル、直立など)などだ。中央アリーナに円を描いて入り、ドラムグループの演奏開始とともに踊り出す。ステップは、基本が二拍子づつ片足で取っていくステップ、二拍子分を片足一回で踏むステップ、この二つのバリエーションで足を前、後ろや上へ蹴り上げるもの。皆が一列に進んでいくのではなく、その場で回りながらステップを踏む人、ズンズン前へ進んでゆく人、音楽に合わせてペースが極端に変わる人と様々だ。男性が頭や腰につけている蛇の目傘くらいの大きさの羽飾りは、遠目にみてもゆさゆさとゴージャス。女性は、白いバックスキンやサテンにビーズの刺繍をほどこしたものや、「ジングル」と呼ばれる5cmほどの銀やニッケルでできたラッパ型の鈴を、フリンジ状に縫い付けたレガリアをまとっている。肩からショールをかけていることもあれば、きれいに細長く折りたたんだのを左腕にかけて踊る人もある。みんな右手には、2、3本束ねたイーグルの羽を持っている。

左上の三人はバックスキン、中央下の赤い女性はジングル

男性の羽飾りはとにかく華やかだ
ドラムもコンテストに参加しているので、とても真剣だ。北部の部族は高くて速い緊張感のある音、南部はゆったりとして深い音色のような気がした。大きな丸い太鼓を囲んで6-7人が打つ。リードをとっている人がいるようだ。曲相は数回変わる。これに合わせてダンサーも羽を高く掲げたり、腰を屈めて舞う。何となく始まって終わるように見えるが、リードのドラマーが信号を出しているので、終りはドラムもダンサーもピタリと止まる。これを逃すと、コンテストでの点数がかなり引かれるのだそうだ。
特に感動したのは、「シニア・ゴールデン・エイジ」のカテゴリーだった。エルダー(お年寄り衆)とは言っても、彼らの踊り具合から見て「そんなこと言って、孫がいれば出られるんじゃないかな。20才で2-3人の子持ちが当たり前の文化だし」とタカを括っていた。ところが激しく、そして優雅に踊り終えて席へ帰ってゆく彼らの髪は真っ白だ。後でプログラムを見てみると、70才以上とある。すごい。何十年も踊り続けて、まだ現役。その熟練の落ち着きとそれでいて情感こもった身のこなしは、他の誰も簡単に真似できる物ではなかった。そして、踊り終えてから、他の参加者と握手して静かに退場する様子の凛としていること。やるなぁ~、の一言だ。
お店やスナックを買いに出れば、その辺を一般客に混じってダンサーやドラマーが買い物して歩いている。お祭りモードなので、礼儀正しく話しかければ誰でも比較的気楽に応えてくれる。全国から店や作り手がやって来るので、やりとりはおもしろいし勉強にもなる。インディアン好き、お祭り好きはきっと楽しめるのではないだろうか。人ごみ嫌いの私が言うんだから!
来週はいよいよギャザリング・オブ・ネイションズ(国々の大集合)だ。(4/27-4/29)これは、宗教行事ではなく、インディアンの夏の楽しみのひとつ「パウワウ」というダンスコンテストを中心にしたお祭りで、北米一大きい規模だというので知られている。(が、インディアンならみな知っているわけではないので、ご了承を。ちなみに二月に会ったアニシナベの人たちは、ほとんど知りませんでした。)
アルバカーキにある、ニューメキシコ大学の球場アリーナ「ピット」に踊り手、ミュージシャン、そしていろんな工芸や食べ物の出店が集合して、熱気ムンムンの屋内となる。ふつうパウワウと言ったら外の広場で催されるのが普通なので、顔をしかめる人もいるが私はけっこう楽しめると思う。第一日目は、ミス・インディアン・ワールドがあり、二日目にはグランド・エントリー(入場大行進:一日のはじまりではなく、みんなの顔見せの入場で、宗教セレモニーの要素も含む。夜7時頃)や、年齢男女別や混合の踊りのコンテスト、歌とドラムのコンテスト、衣装のコンテストや、ヒョウタン踊りなどのパフォーマンスが次々に繰り広げられる。
インディアンが好きな人、インディアンの工芸品が好きな人、それほど知らないひとも、日本のお祭りと同じできっと楽しめます。インディアン・タコは絶対一度ためしましょう!(油はキツイですが。)入場料は一日$10(木)$11(金)$13(土)。再入場はなし。こちらへ来る機会のある方には、オススメだ。私は昨年逃してしまったので、今年はぜひ行こうと思っている。(その様子は、4/29の日記を参照のこと。)
アルバカーキにある、ニューメキシコ大学の球場アリーナ「ピット」に踊り手、ミュージシャン、そしていろんな工芸や食べ物の出店が集合して、熱気ムンムンの屋内となる。ふつうパウワウと言ったら外の広場で催されるのが普通なので、顔をしかめる人もいるが私はけっこう楽しめると思う。第一日目は、ミス・インディアン・ワールドがあり、二日目にはグランド・エントリー(入場大行進:一日のはじまりではなく、みんなの顔見せの入場で、宗教セレモニーの要素も含む。夜7時頃)や、年齢男女別や混合の踊りのコンテスト、歌とドラムのコンテスト、衣装のコンテストや、ヒョウタン踊りなどのパフォーマンスが次々に繰り広げられる。
インディアンが好きな人、インディアンの工芸品が好きな人、それほど知らないひとも、日本のお祭りと同じできっと楽しめます。インディアン・タコは絶対一度ためしましょう!(油はキツイですが。)入場料は一日$10(木)$11(金)$13(土)。再入場はなし。こちらへ来る機会のある方には、オススメだ。私は昨年逃してしまったので、今年はぜひ行こうと思っている。(その様子は、4/29の日記を参照のこと。)
八ヶ岳美術館へ行った。先月25日に紹介した、ナバホのラグを見るためだ。八ヶ岳美術館へは、JR中央本線・茅野駅下車→原村ペンション行き、又は美濃戸口行きバス40分→原村第1ペンションヴィレッジ(ペンション上)下車、徒歩1分(800円)。タクシーを使ったら2700円ほど。
すばらしいコレクションだった。バラエティとよい、質とよい。展示は、主催の方の織物を探す旅の旅行記的なコメントを追う形で進んでいく。織手のお婆さんたちの写真は、前にも話したことのあるカワノケンジさんに寄るものだ。
感激して、思わず学芸員さんにこのイベントを企画された方に、感想メッセージを伝えていただくようお願いしてしまった。すると、学芸員さんも感動して、その方に電話して下さり、お話しすることができた。彼女も私の行っていたディネカレッジにいたことがあるのだそうだ!!八ヶ岳の真ん中で、ツェイリにいたことのある方とお話しするなんて、なんて不思議なご縁だろう!
この美術館は、常時展にこの辺りにある遺跡の出土品の展示もあり、機会のある方にはぜひぜひ訪ねていただきたい。ゼッタイにおすすめだ。
すばらしいコレクションだった。バラエティとよい、質とよい。展示は、主催の方の織物を探す旅の旅行記的なコメントを追う形で進んでいく。織手のお婆さんたちの写真は、前にも話したことのあるカワノケンジさんに寄るものだ。
感激して、思わず学芸員さんにこのイベントを企画された方に、感想メッセージを伝えていただくようお願いしてしまった。すると、学芸員さんも感動して、その方に電話して下さり、お話しすることができた。彼女も私の行っていたディネカレッジにいたことがあるのだそうだ!!八ヶ岳の真ん中で、ツェイリにいたことのある方とお話しするなんて、なんて不思議なご縁だろう!
この美術館は、常時展にこの辺りにある遺跡の出土品の展示もあり、機会のある方にはぜひぜひ訪ねていただきたい。ゼッタイにおすすめだ。
翌日目覚めると、それほど筋肉痛もなく、よく寝たので疲れも残っていず爽快だった。他の人と話していて、「歩くのは仲間と長い時間を共有する経験、走るのは一人きりで凝縮された時間の経験」だから、両方やったらどうかとススメられた。それもそうだと走ることにする。前もって自分が走ろうと思う距離を申請すると、コーディネーターの人がどの車に乗るか指示をくれる。それぞれの車が、ある地点でひとりを降ろしその人の終点にもうひとりを降ろす。ほんの時折様子を見にデニスさんのバンや関係ないトラックなどが通りがかる以外は、自分と地球の孤独な対話の世界だ。(ほんの数時間なのだから、大げさかも知れないが。)サンタフェ周辺ではよく歩くけれど、走ることは少ないので、多少心配もあったが「競争ではないのだから、苦しくなったら歩けばよい」という他の方達のアドバイスを胸に、自分のペースで走った。
私とパートナーは、すばらしい塩湖(インディアンにとっては聖地である)の真ん前からスタートとなった。彼は全行程に参加しているので、彼にこの名誉を果たしていただくことにした。

塩湖は近くで見るともっと美しい白色だ
もう地元でこの塩湖の話を覚えている人はいない、と聞いた。前にアコマプエブロのコヨーテの話で、人々がダンスの用意をしているのでコヨーテのおかみさんが「私たちもご馳走を作ろう。」と旦那のコヨーテを、塩を取りにやる。足には自信があるものの、怠け者のコヨーテは途中で昼寝をしてしまう。それを見た蝶々たちは、からかってやろうとコヨーテを持ち上げて、家まで運ぶ。空の袋を見たおかみさんは、おこってコヨーテに先を急ぐようけしかける。何度か同じことを繰り返し、首をかしげつつコヨーテはまた塩湖へと向うのだが、なんだかとっても疲れてヘトヘトだ。ついに塩を袋に詰めた後、苦しくて倒れ込んでしまう。かわいそうに思った蝶々たちは、フヮッと彼を持ち上げると、家に帰してやった。でも、このトリックがあまりにもうまく行ったので、おかしくておかしくてお腹を抱えて笑いながら飛び続けた。だから、蝶々は今でもまっすぐ飛べないのだそうだ、というのを聞いたことがある。その時は、もっと西へ行ったズニ族の近くの塩湖の話と思っていたが、ここにはアコマなどが来たそうなので、こちらだったかと知った。
走り終えて、その日の終点に着くとボチボチと他のランナーも到着しはじめる。デニスさんは、ひとりひとりに「よくやった!」と感謝の言葉をかけていた。休息を取る人、電話をかけに受信のよいところへ出かける人、連れて来た犬の散歩をする人など、午後の時間の過ごし方は人それぞれだ。私も何人かのひとと、ゆっくり話をすることができ、大収穫だった。冬眠していて動き始めたのは、私だけではないとも知った。(彼は「竜宮城に行って来た」と言っていたが。他にもいっぱいそういう人を知っているそうだ。)
と、そのうち太鼓を叩いて、歌の練習が始まった。みなが同じ部族ではないので、テープを聞いたり、お互い口移しに歌を覚えるのだそうだ。特にニュー オリンズで大きな音楽のイベントを計画していて、ブルーズの街での演奏に向けて、張り切っているらしい。

クレイジー ホースの妹(姉?)の血を引くという、ラコタ スー族の青年に新しいサン ダンスの歌を習うデニスさん(アニシナベ族)
前にサンタフェに来た人が「焼けるような四日間でした」と言って帰って行ったけれど、私にとっても、火曜日のミーティングから始まって、この四日間は熱かった。インディアンの人たちと文字通り寝食を共にし肌でコミュニケーションし、すばらしいニューメキシコの風景を満喫し、祈りの仕方を教わり、お話に出てくる聖地のひとつをこの目で見、たくさんの知り合いができた。しかも彼らは贈り物をするのが好きなので、ウサギの皮だとか自分で彫ったクジラの石彫刻をもらったり、コーヒーまでおごってもらった。日本人の新しい友人にも、タバコタイや沖縄から来た「こんこんべ」の小さいのをもらった。何だか、こんなにもらうばかりでいいのだろうか?と思いつつ、充電完了の感でいっぱいだ。私がお返しをする番だなぁ
私とパートナーは、すばらしい塩湖(インディアンにとっては聖地である)の真ん前からスタートとなった。彼は全行程に参加しているので、彼にこの名誉を果たしていただくことにした。

塩湖は近くで見るともっと美しい白色だ
もう地元でこの塩湖の話を覚えている人はいない、と聞いた。前にアコマプエブロのコヨーテの話で、人々がダンスの用意をしているのでコヨーテのおかみさんが「私たちもご馳走を作ろう。」と旦那のコヨーテを、塩を取りにやる。足には自信があるものの、怠け者のコヨーテは途中で昼寝をしてしまう。それを見た蝶々たちは、からかってやろうとコヨーテを持ち上げて、家まで運ぶ。空の袋を見たおかみさんは、おこってコヨーテに先を急ぐようけしかける。何度か同じことを繰り返し、首をかしげつつコヨーテはまた塩湖へと向うのだが、なんだかとっても疲れてヘトヘトだ。ついに塩を袋に詰めた後、苦しくて倒れ込んでしまう。かわいそうに思った蝶々たちは、フヮッと彼を持ち上げると、家に帰してやった。でも、このトリックがあまりにもうまく行ったので、おかしくておかしくてお腹を抱えて笑いながら飛び続けた。だから、蝶々は今でもまっすぐ飛べないのだそうだ、というのを聞いたことがある。その時は、もっと西へ行ったズニ族の近くの塩湖の話と思っていたが、ここにはアコマなどが来たそうなので、こちらだったかと知った。
走り終えて、その日の終点に着くとボチボチと他のランナーも到着しはじめる。デニスさんは、ひとりひとりに「よくやった!」と感謝の言葉をかけていた。休息を取る人、電話をかけに受信のよいところへ出かける人、連れて来た犬の散歩をする人など、午後の時間の過ごし方は人それぞれだ。私も何人かのひとと、ゆっくり話をすることができ、大収穫だった。冬眠していて動き始めたのは、私だけではないとも知った。(彼は「竜宮城に行って来た」と言っていたが。他にもいっぱいそういう人を知っているそうだ。)
と、そのうち太鼓を叩いて、歌の練習が始まった。みなが同じ部族ではないので、テープを聞いたり、お互い口移しに歌を覚えるのだそうだ。特にニュー オリンズで大きな音楽のイベントを計画していて、ブルーズの街での演奏に向けて、張り切っているらしい。

クレイジー ホースの妹(姉?)の血を引くという、ラコタ スー族の青年に新しいサン ダンスの歌を習うデニスさん(アニシナベ族)
前にサンタフェに来た人が「焼けるような四日間でした」と言って帰って行ったけれど、私にとっても、火曜日のミーティングから始まって、この四日間は熱かった。インディアンの人たちと文字通り寝食を共にし肌でコミュニケーションし、すばらしいニューメキシコの風景を満喫し、祈りの仕方を教わり、お話に出てくる聖地のひとつをこの目で見、たくさんの知り合いができた。しかも彼らは贈り物をするのが好きなので、ウサギの皮だとか自分で彫ったクジラの石彫刻をもらったり、コーヒーまでおごってもらった。日本人の新しい友人にも、タバコタイや沖縄から来た「こんこんべ」の小さいのをもらった。何だか、こんなにもらうばかりでいいのだろうか?と思いつつ、充電完了の感でいっぱいだ。私がお返しをする番だなぁ
先日書いたセイクリッドランに三日間参加して来た。一日目はスウェット、二日目は25キロほど歩き、三日目は13キロほど走った。彼らは、2/11にサンフランシスコを出て、四月にワシントンDCに着くまで二ヶ月以上歩くのだから、超短期の参加ではあったが、祖母の供養もできたような気がして、行ってよかった。
スウェットは、私が今まで参加した中で、いちばんエネルギッシュで人数も多く(30人以上)、焼け石を30個以上使っていた。冗談なのか60個使うこともある、と聞いた。浄化が目的である。焼け石に杉やタバコをくべて煙を炊き上げ、水を振りかけて蒸気をあげると、むせ返るような暑い空気が鼻孔をくすぐる。咳き込む人もかなりいた。ちょうど祖母のお通夜の日だったし、私がこのグループに参加はじめの日だったので、適切だったのではないかと思う。その後、みんなで食事をするだろうと予想していたので、日本食を少し持って行ったら、日本人以外でも喜んでくれる人がいたようで、うれしかった。いわゆる「オンザロード」(路上の旅人)の環境では、ロクなものを食べていない彼らである。
翌日アルバカーキの市営公園に七時集合。何台かある車に分乗して、出発点に向かう。私は「かなり早歩き」というのを聞いたので、とりあえず日本人の尼さん率いる歩き組に参加した。毎日25キロほどお経を唱えながら歩き、後は車で目的地まで移動する。この尼さんはもう1970年代からこういった「平和の歩き」運動をしている方で、これが彼女の修行なのだそうだ。インディアンたちも慣れたもので、一緒に「南無妙法蓮華経」と唱えながら、プレイヤースティックを掲げて、小さな太鼓を叩いていた。日本人も、常に6-8人いるらしい。私も六人ほどと知り合うことができた。30-40人のグループに七人の日本人というのは、かなり高い割合ではないだろうか?
道中、先頭が掲げている六ネイションの旗と祈りの杖に気づいて、手を振ったり車のホーンを鳴らして支援を示す人がかなりいた。「がんばって("Go fo it!")と叫ぶ人もいた。大地にあいさつをし、つながりを実感し、その浄化を願って祈りながら歩くのだと教わった。私は数日しか参加できない、とがっかりしていたけれど、なぁんだ家に帰ってからも、歩きながら同じようにすればいいのだ。もちろんいつも景色や空気を楽しみながら歩くけれど、「祈りながら」というのは、大きな気づきだった。
(つづく)
スウェットは、私が今まで参加した中で、いちばんエネルギッシュで人数も多く(30人以上)、焼け石を30個以上使っていた。冗談なのか60個使うこともある、と聞いた。浄化が目的である。焼け石に杉やタバコをくべて煙を炊き上げ、水を振りかけて蒸気をあげると、むせ返るような暑い空気が鼻孔をくすぐる。咳き込む人もかなりいた。ちょうど祖母のお通夜の日だったし、私がこのグループに参加はじめの日だったので、適切だったのではないかと思う。その後、みんなで食事をするだろうと予想していたので、日本食を少し持って行ったら、日本人以外でも喜んでくれる人がいたようで、うれしかった。いわゆる「オンザロード」(路上の旅人)の環境では、ロクなものを食べていない彼らである。
翌日アルバカーキの市営公園に七時集合。何台かある車に分乗して、出発点に向かう。私は「かなり早歩き」というのを聞いたので、とりあえず日本人の尼さん率いる歩き組に参加した。毎日25キロほどお経を唱えながら歩き、後は車で目的地まで移動する。この尼さんはもう1970年代からこういった「平和の歩き」運動をしている方で、これが彼女の修行なのだそうだ。インディアンたちも慣れたもので、一緒に「南無妙法蓮華経」と唱えながら、プレイヤースティックを掲げて、小さな太鼓を叩いていた。日本人も、常に6-8人いるらしい。私も六人ほどと知り合うことができた。30-40人のグループに七人の日本人というのは、かなり高い割合ではないだろうか?
道中、先頭が掲げている六ネイションの旗と祈りの杖に気づいて、手を振ったり車のホーンを鳴らして支援を示す人がかなりいた。「がんばって("Go fo it!")と叫ぶ人もいた。大地にあいさつをし、つながりを実感し、その浄化を願って祈りながら歩くのだと教わった。私は数日しか参加できない、とがっかりしていたけれど、なぁんだ家に帰ってからも、歩きながら同じようにすればいいのだ。もちろんいつも景色や空気を楽しみながら歩くけれど、「祈りながら」というのは、大きな気づきだった。
(つづく)
先日インディアンの衣装の展示で、もう一つ気になる伝統的な材料があった。確か私も持っていたはず、と探したらやっと出て来た。ヤマアラシの針である。
このヤマアラシ、アメリカの北部全域と南西部に生息しているが、用心深いのでそう簡単に見かけない。ただし、動きは遅くおっかなびっくり歩くので、見かけたら捕まえるのは簡単らしい。あんなに愛らしいのを殺すことはできず、私はもっぱら、道でひかれてしまったのを取って来た人にもらったりした。針の先はのこぎりのようなギザギザがあって、入りやすいが抜けにくい。とても鋭いので、指に刺さったりすると、けっこう厄介だしとても痛い。時々、こんな可哀想な光景に、出会ったりもする

ともあれ、平原インディアンたちはこのヤマアラシの針(porcupine quill)を使って、着物はもちろん、パウチやモカシンに様々な装飾を施した。多分白人がビーズを持ち込む前から、刺繍をするのに使っていたのだろう。

使い方は確か、ぬるま湯につけて洗って、針の先を切ったら乾かし染める。それを再び水につけ、縫い付ける直前に取り出して、爪でつぶし平たくする。それを一つ一つなめした皮に縫い付けてゆく。いくつもステッチがあるのだが、ごく一般的なのはジグザグで、ある幅を折り返しながら縫い付ける。ヤマアラシの針は、私たちの髪や爪と同じタンパク質でできている。だから水に浸すとやわらかくなるのだ。そして、乾くとパリッとしつやが出る。平原インディアンは、燻した黄色の皮に、このクゥイルをそれはそれは器用に縫い付け、みごとな装飾を施す。

ガラスビーズにとって変わられたこのクゥイル技術、それでもラコタ・スー、クリー、アニシナベ族などで、今だに守り続けている人もいるということだ。自然の草木染めで出した鮮やかな色、ひかえめなつやはビーズとはまた違ってとても美しい。絶やさないでいって欲しいもののひとつだ。
このヤマアラシ、アメリカの北部全域と南西部に生息しているが、用心深いのでそう簡単に見かけない。ただし、動きは遅くおっかなびっくり歩くので、見かけたら捕まえるのは簡単らしい。あんなに愛らしいのを殺すことはできず、私はもっぱら、道でひかれてしまったのを取って来た人にもらったりした。針の先はのこぎりのようなギザギザがあって、入りやすいが抜けにくい。とても鋭いので、指に刺さったりすると、けっこう厄介だしとても痛い。時々、こんな可哀想な光景に、出会ったりもする

ともあれ、平原インディアンたちはこのヤマアラシの針(porcupine quill)を使って、着物はもちろん、パウチやモカシンに様々な装飾を施した。多分白人がビーズを持ち込む前から、刺繍をするのに使っていたのだろう。

使い方は確か、ぬるま湯につけて洗って、針の先を切ったら乾かし染める。それを再び水につけ、縫い付ける直前に取り出して、爪でつぶし平たくする。それを一つ一つなめした皮に縫い付けてゆく。いくつもステッチがあるのだが、ごく一般的なのはジグザグで、ある幅を折り返しながら縫い付ける。ヤマアラシの針は、私たちの髪や爪と同じタンパク質でできている。だから水に浸すとやわらかくなるのだ。そして、乾くとパリッとしつやが出る。平原インディアンは、燻した黄色の皮に、このクゥイルをそれはそれは器用に縫い付け、みごとな装飾を施す。

ガラスビーズにとって変わられたこのクゥイル技術、それでもラコタ・スー、クリー、アニシナベ族などで、今だに守り続けている人もいるということだ。自然の草木染めで出した鮮やかな色、ひかえめなつやはビーズとはまた違ってとても美しい。絶やさないでいって欲しいもののひとつだ。
『スモーク シグナルズ』(1998年)という映画をテレビでやっていて、久しぶりに観た。この映画は、ネイティブが書いて、監督をして、共同製作した初めての劇場放映映画として知られている。
アイダホ州クエーダレーン(自分たちはシツウムシュと呼ぶ:発音に自信なし)族インディアンの青年ヴィクターは、幼い頃家族を捨てて去っていった(というより母が追い出したのだが)父親がアリゾナで亡くなったとの知らせを受ける。父には反感しかないのだが、ヴィクターはそのお骨を受け取りにアリゾナへ旅することを決意する。バス代を出すから連れて行けという、幼なじみで全く正反対のおしゃべりであか抜けないトーマスの申し出をを、しぶしぶ受け入れ二人の旅が始まる。
これはいわゆる「オン ザ ロード」(言ってみればアメリカ版弥次喜多の『東海道中膝栗毛』)モノで、ネイティブの二人が主人公という点では、私のとても好きだった『パウワウ ハイウェイ』(1989年)と似ている。(『パウワウ・・・』ではチャーミングでグレイジーなフィルバート役だったゲーリー・ファーマーが、ヴィクターの父親役で登場しているのも、偶然ではないのかも。)
何と言っても会話がいい。話のあらすじは、「ヴィクターとトーマスが、アリゾナに行って帰ってくる。」とわかっているのだから、私たちは落ち着いて、とてもリアルな二人のやりとりに耳を傾けていれば言いわけだ。やりとりは言うものの、孤児のトーマスがヴィクターの家族との思い出を語ったり、質問攻めにしたりして八分方ひとりでしゃべりまくって、ヴィクターを苛立たせるのだが・・・笑えるのは、ヴィクターが「インディアンらしく」なるためのアドヴァイスをするところ。「『ダンス ウィズ ウルブズ』を、何回も観ているようじゃだめ」「ストイックにしろ」「インディアンは髪をうまく使うんだ」「たった今、狩りから帰ったように見えなくちゃ」と、『ダンス・・・』を実際何回も観て「でも僕たちは鹿狩りなんてしないじゃんか。鮭は捕るけど。」と言うトーマスに手ほどきをする。三つ編みをほどいて、休憩所で着替え、態度を改めたふたりがバスに戻ると、図々しい人種差別のはげしいレッドネックの男たちに席をとられてしまい、トーマス「ホンモノのインディアン」改造計画は、尻つぼみに終わってしまう。彼のおしゃべりに閉口しつつ、ヴィクターはアルコール中毒で、自分を捨てて行った父親のことを、火事での命の恩人だった人、と親愛を抱いているトーマスの物語りから垣間見る。アリゾナで父と暮らしていたスージーとの出会いも、所々で出てくる過去の回想も短くて、サラッとしているが心に残るシーンばかりだ。
私がこの映画を好きなのは、へんに肩に力が入って「インディアン・インディアン」していないからだ。現代の彼らの現実が、極端に理想化したところもないし、単なる「犠牲者」としての恨みつらみでもなく、ユーモアを持って描かれている。後味がいい、やさしい映画だ。
アイダホ州クエーダレーン(自分たちはシツウムシュと呼ぶ:発音に自信なし)族インディアンの青年ヴィクターは、幼い頃家族を捨てて去っていった(というより母が追い出したのだが)父親がアリゾナで亡くなったとの知らせを受ける。父には反感しかないのだが、ヴィクターはそのお骨を受け取りにアリゾナへ旅することを決意する。バス代を出すから連れて行けという、幼なじみで全く正反対のおしゃべりであか抜けないトーマスの申し出をを、しぶしぶ受け入れ二人の旅が始まる。
これはいわゆる「オン ザ ロード」(言ってみればアメリカ版弥次喜多の『東海道中膝栗毛』)モノで、ネイティブの二人が主人公という点では、私のとても好きだった『パウワウ ハイウェイ』(1989年)と似ている。(『パウワウ・・・』ではチャーミングでグレイジーなフィルバート役だったゲーリー・ファーマーが、ヴィクターの父親役で登場しているのも、偶然ではないのかも。)
何と言っても会話がいい。話のあらすじは、「ヴィクターとトーマスが、アリゾナに行って帰ってくる。」とわかっているのだから、私たちは落ち着いて、とてもリアルな二人のやりとりに耳を傾けていれば言いわけだ。やりとりは言うものの、孤児のトーマスがヴィクターの家族との思い出を語ったり、質問攻めにしたりして八分方ひとりでしゃべりまくって、ヴィクターを苛立たせるのだが・・・笑えるのは、ヴィクターが「インディアンらしく」なるためのアドヴァイスをするところ。「『ダンス ウィズ ウルブズ』を、何回も観ているようじゃだめ」「ストイックにしろ」「インディアンは髪をうまく使うんだ」「たった今、狩りから帰ったように見えなくちゃ」と、『ダンス・・・』を実際何回も観て「でも僕たちは鹿狩りなんてしないじゃんか。鮭は捕るけど。」と言うトーマスに手ほどきをする。三つ編みをほどいて、休憩所で着替え、態度を改めたふたりがバスに戻ると、図々しい人種差別のはげしいレッドネックの男たちに席をとられてしまい、トーマス「ホンモノのインディアン」改造計画は、尻つぼみに終わってしまう。彼のおしゃべりに閉口しつつ、ヴィクターはアルコール中毒で、自分を捨てて行った父親のことを、火事での命の恩人だった人、と親愛を抱いているトーマスの物語りから垣間見る。アリゾナで父と暮らしていたスージーとの出会いも、所々で出てくる過去の回想も短くて、サラッとしているが心に残るシーンばかりだ。
私がこの映画を好きなのは、へんに肩に力が入って「インディアン・インディアン」していないからだ。現代の彼らの現実が、極端に理想化したところもないし、単なる「犠牲者」としての恨みつらみでもなく、ユーモアを持って描かれている。後味がいい、やさしい映画だ。
ブックマークを付けている北山"Smiling Cloud"さんのサイトで教えてもらった、"The War that made America"という番組の前編(四話のうち二話)を観た。フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)のドラマ仕立てのドキュメンタリーだ。
これは、近代ヨーロッパ諸国が植民地(北米やインド)をめぐって、ヨーロッパ本土と北米で争った一連の戦争のひとつ。アメリカ原住民と同盟を組んだ(と言うよりは、巻き込んだ)英仏両国は、肥沃で交通の便がよいオハイオ川流域の支配権をめぐって、何度も衝突した。結局はイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約で、カナダを含むミシシッピ川以東つまり北米東部全域を獲得することになる。が、イギリス軍内で英米の確執が目立ち始め、殖民地に対する重税に不満を抱き始めた移民が立ち上がり、アメリカ独立戦争へと発展していくことになる。
この番組でおもしろいのは、中心登場人が若いジョージ・ワシントンではあるものの、この戦争で実は大きな役割を果たしたアメリカ原住民にかなりのスポットライトを当てている点だ。ナレーションと時々入る解説は、我らがグラハム・グリーン。(彼は確かオナイダ族だから、この戦争に関わったインディアンの子孫ということになる。)インディアンをあくまでも森の案内役などとしてしか起用できないイギリス軍に対して、フランスの軍の中には彼らのゲリラ戦法を取り入れ、自ら戦士のペイントを塗り、戦士の踊りに加わる大尉もいたりする。おかげではじめのうちはフランス軍がかなり優勢だ。今日やっていた第二話の時点では1757年までを扱っていたのだが、この年ウィリアム・ヘンリー砦を押さえたモンカーム(仏)は、あまり親原住民ではない。降伏したイギリス軍の生き残りを招いて夕食を共にし(手柄を分かち合うべきインディアンたちは招待されなかった)、インディアンの慣習を無視した行動を取ったため、彼らの反感を買うことになる。そして、降伏したイギリス人捕虜の一部がインディアンに殺され、フランスはインディアンの信頼を失い始める。(こういった場面で、グリーン氏が登場し「何千人もの非武装捕虜が、冷酷極まるインディアンによって虐殺されたと一般に言われてきたけれど、実際は千五百人のうち、数百人が殺されたのです。」というように、「もうひとつの歴史」的なコメントを入れてゆく。)他にも、「ケイジャン」と呼ばれる独特の文化を築いた(そしてハリケーン・カトリーナで大変な被害を受けた)仏系移民が、どうやってルイジアナに落ち着くことになったかなどの話が出てきたりしておもしろい。
先にも書いたように演出が「ドラマ仕立て」なので、ちょっと大げさな芝居やドラマチック過ぎる背景音に、はじめ少し違和感を感じた。しかも時々キャストがカメラの方を向いて、シェイクスピア劇のモノローグさなから話しかけてくる。でも、映像の質はよいし、開拓民の生活やインディアンの風習などが結構忠実に描かれているのが興味深く、慣れてきたらさほど気にならなくなった。続きが楽しみだし、オススメしたい。
ところで、(もちろん贅沢三昧のルイ王朝が、人間的に優れていたとは思わないけれど)国を捨てて永久に移民してきたイギリス人ではなく、もともと毛皮などを原住民と交易したいからやってきたフランス人が主導権を握ることになっていたら、アメリカの歴史は変わっていたのだろうか、なんて思うのは私だけではないんじゃないだろうか?
これは、近代ヨーロッパ諸国が植民地(北米やインド)をめぐって、ヨーロッパ本土と北米で争った一連の戦争のひとつ。アメリカ原住民と同盟を組んだ(と言うよりは、巻き込んだ)英仏両国は、肥沃で交通の便がよいオハイオ川流域の支配権をめぐって、何度も衝突した。結局はイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約で、カナダを含むミシシッピ川以東つまり北米東部全域を獲得することになる。が、イギリス軍内で英米の確執が目立ち始め、殖民地に対する重税に不満を抱き始めた移民が立ち上がり、アメリカ独立戦争へと発展していくことになる。
この番組でおもしろいのは、中心登場人が若いジョージ・ワシントンではあるものの、この戦争で実は大きな役割を果たしたアメリカ原住民にかなりのスポットライトを当てている点だ。ナレーションと時々入る解説は、我らがグラハム・グリーン。(彼は確かオナイダ族だから、この戦争に関わったインディアンの子孫ということになる。)インディアンをあくまでも森の案内役などとしてしか起用できないイギリス軍に対して、フランスの軍の中には彼らのゲリラ戦法を取り入れ、自ら戦士のペイントを塗り、戦士の踊りに加わる大尉もいたりする。おかげではじめのうちはフランス軍がかなり優勢だ。今日やっていた第二話の時点では1757年までを扱っていたのだが、この年ウィリアム・ヘンリー砦を押さえたモンカーム(仏)は、あまり親原住民ではない。降伏したイギリス軍の生き残りを招いて夕食を共にし(手柄を分かち合うべきインディアンたちは招待されなかった)、インディアンの慣習を無視した行動を取ったため、彼らの反感を買うことになる。そして、降伏したイギリス人捕虜の一部がインディアンに殺され、フランスはインディアンの信頼を失い始める。(こういった場面で、グリーン氏が登場し「何千人もの非武装捕虜が、冷酷極まるインディアンによって虐殺されたと一般に言われてきたけれど、実際は千五百人のうち、数百人が殺されたのです。」というように、「もうひとつの歴史」的なコメントを入れてゆく。)他にも、「ケイジャン」と呼ばれる独特の文化を築いた(そしてハリケーン・カトリーナで大変な被害を受けた)仏系移民が、どうやってルイジアナに落ち着くことになったかなどの話が出てきたりしておもしろい。
先にも書いたように演出が「ドラマ仕立て」なので、ちょっと大げさな芝居やドラマチック過ぎる背景音に、はじめ少し違和感を感じた。しかも時々キャストがカメラの方を向いて、シェイクスピア劇のモノローグさなから話しかけてくる。でも、映像の質はよいし、開拓民の生活やインディアンの風習などが結構忠実に描かれているのが興味深く、慣れてきたらさほど気にならなくなった。続きが楽しみだし、オススメしたい。
ところで、(もちろん贅沢三昧のルイ王朝が、人間的に優れていたとは思わないけれど)国を捨てて永久に移民してきたイギリス人ではなく、もともと毛皮などを原住民と交易したいからやってきたフランス人が主導権を握ることになっていたら、アメリカの歴史は変わっていたのだろうか、なんて思うのは私だけではないんじゃないだろうか?
一月六日は「キングズデイ」と呼ばれるご馳走と踊りの祭日で、大抵のプエブロインディアンの村で一日中お祭りが催されている。(アコマの人は、何もやっていないと言っていた。)先日鹿踊りを見に行ったヘメスを再び訪ねて来た。
ニューメキシコで「王様の日」と呼ばれているこの祝日は、キリスト教のお祭りで、本来は「三人の王様=三人の賢者の日」または「公現祭」(エピファニィ)のこと。キリストの誕生を祝福しにきた三人の賢者の訪問、キリストの洗礼、イエスの幼少時代のできごと全てを含め、キリストが公に神性を現したことを記念する日なのだそうだ。今のトルコあたりで始まった祝日で西方教会では十二月二十五日をキリストの誕生日としてすでに祝っていたので、一月六日までの十二日間を「降誕節」と言うようになった。そう、かの有名なシェイクスピアの喜劇「十二夜」は、このお祝いの時期に上演されるよう、書かれた作品だ。メキシコでは、子供たちが靴を窓辺において、その中に賢者が乗って来るらくだのために干し草をつめ、賢者たちがいいプレゼントをくれるよう祈るらしい。この時期、家のちかくの道路の脇に、いつも靴が投げてあって(それも子供サイズ)イースターに関係あるのかと思っていたのだが、もしかしたらこのお祝いの風習の変形なのかも知れないと気づいた。
ヘメスプエブロでの踊りそのものは、キリスト教にはあまり関係のない「バッファローの踊り」だった。先日の「鹿踊り」と極めて似ている。違いは、日の出とともに踊り始めたことと、ご馳走を振る舞ってくれることだった。12時半頃シンガーたちが中央広場から去って、音楽を続けながらある家の方へ行く。ヘメスの人たちはほとんど家に帰って、お昼休憩となる。私たち訪問客は、音楽隊の後へ続くよう、誰からともなくうながされる。たどり着いたのは、「ベイビージーザスの家」」と呼ばれる、聖堂の役目を果たすらしい小さな建物だった。祭壇にマリアやイエスの偶像が飾られ、天井はメキシコの色とりどりのスカーフとキラキラ光るフリンジの飾りでぎっしり埋め尽くされ、壁もインディアン毛布、トルコ石のアクセサリー、鹿頭の剥製などで装飾されていた。まずはシンガーたち、そしてお年寄り、それが済むと我々訪問客たちが「どうぞどうぞ」と食卓へ招かれる。20-30人がけのテーブルが2つ用意してあって、小麦粉のトルティーヤ、コーントルティーヤ、フライドブレッド、グリーンチリ、レッドチリ、ジャガイモサラダ、焼いた鶏肉、ポソレ、うずら豆の煮たの、デザートなどが文字通り「山ほど」積まれている。メキシコのスカーフを首から背中に菱形にかけ、白いワンピースにモカシン、胸にはおおきなトルコ石のネックレスを付けた女性たちが、手際よく食べ物を運んだり使用済みの食器をかたづけ、時々お客さんに混じって食事をしている、年寄り衆にヘメス語であいさつしている。私は、アコマプエブロから遊びに来ているという老夫婦と、隣り合わせになった。
食事が大方済むと、シンガー達は再び太鼓を叩き始め、まずは室内でそれから建物のすぐ外で、みんな輪になって手をつなぎ、真ん中を向いて右回りに踊った。みんながにこにこして楽しんでいるのがよくわかる。ひとしきり踊ると音楽は止み、広場にもどる時間となった。こうやって丸一日のお祝いは延々と続いて行く。
ヘメスプエブロの中心部ワラトワ、そこから車で20分ほど行った辺りから以北の山中には、いくつもの温泉がある。釣りやキャンプもできる。日暮れの少し前にワラトワ村に別れを告げ、ちょっと足を伸ばして、そのなかのひとつヘメススプリングスの先にある、自然の温泉に行ってみた。看板も何も出ていないので、人に聞きながら駐車場を見つけ、小川を渡って10分ほど岩を登り、日没近い山の風景を楽しみながら、6-7人入ったらいっぱいの岩風呂にゆっくりと浸かり、まだ体の中でブンブン言っているドラムの余韻に酔った酔った!
ニューメキシコで「王様の日」と呼ばれているこの祝日は、キリスト教のお祭りで、本来は「三人の王様=三人の賢者の日」または「公現祭」(エピファニィ)のこと。キリストの誕生を祝福しにきた三人の賢者の訪問、キリストの洗礼、イエスの幼少時代のできごと全てを含め、キリストが公に神性を現したことを記念する日なのだそうだ。今のトルコあたりで始まった祝日で西方教会では十二月二十五日をキリストの誕生日としてすでに祝っていたので、一月六日までの十二日間を「降誕節」と言うようになった。そう、かの有名なシェイクスピアの喜劇「十二夜」は、このお祝いの時期に上演されるよう、書かれた作品だ。メキシコでは、子供たちが靴を窓辺において、その中に賢者が乗って来るらくだのために干し草をつめ、賢者たちがいいプレゼントをくれるよう祈るらしい。この時期、家のちかくの道路の脇に、いつも靴が投げてあって(それも子供サイズ)イースターに関係あるのかと思っていたのだが、もしかしたらこのお祝いの風習の変形なのかも知れないと気づいた。
ヘメスプエブロでの踊りそのものは、キリスト教にはあまり関係のない「バッファローの踊り」だった。先日の「鹿踊り」と極めて似ている。違いは、日の出とともに踊り始めたことと、ご馳走を振る舞ってくれることだった。12時半頃シンガーたちが中央広場から去って、音楽を続けながらある家の方へ行く。ヘメスの人たちはほとんど家に帰って、お昼休憩となる。私たち訪問客は、音楽隊の後へ続くよう、誰からともなくうながされる。たどり着いたのは、「ベイビージーザスの家」」と呼ばれる、聖堂の役目を果たすらしい小さな建物だった。祭壇にマリアやイエスの偶像が飾られ、天井はメキシコの色とりどりのスカーフとキラキラ光るフリンジの飾りでぎっしり埋め尽くされ、壁もインディアン毛布、トルコ石のアクセサリー、鹿頭の剥製などで装飾されていた。まずはシンガーたち、そしてお年寄り、それが済むと我々訪問客たちが「どうぞどうぞ」と食卓へ招かれる。20-30人がけのテーブルが2つ用意してあって、小麦粉のトルティーヤ、コーントルティーヤ、フライドブレッド、グリーンチリ、レッドチリ、ジャガイモサラダ、焼いた鶏肉、ポソレ、うずら豆の煮たの、デザートなどが文字通り「山ほど」積まれている。メキシコのスカーフを首から背中に菱形にかけ、白いワンピースにモカシン、胸にはおおきなトルコ石のネックレスを付けた女性たちが、手際よく食べ物を運んだり使用済みの食器をかたづけ、時々お客さんに混じって食事をしている、年寄り衆にヘメス語であいさつしている。私は、アコマプエブロから遊びに来ているという老夫婦と、隣り合わせになった。
食事が大方済むと、シンガー達は再び太鼓を叩き始め、まずは室内でそれから建物のすぐ外で、みんな輪になって手をつなぎ、真ん中を向いて右回りに踊った。みんながにこにこして楽しんでいるのがよくわかる。ひとしきり踊ると音楽は止み、広場にもどる時間となった。こうやって丸一日のお祝いは延々と続いて行く。
ヘメスプエブロの中心部ワラトワ、そこから車で20分ほど行った辺りから以北の山中には、いくつもの温泉がある。釣りやキャンプもできる。日暮れの少し前にワラトワ村に別れを告げ、ちょっと足を伸ばして、そのなかのひとつヘメススプリングスの先にある、自然の温泉に行ってみた。看板も何も出ていないので、人に聞きながら駐車場を見つけ、小川を渡って10分ほど岩を登り、日没近い山の風景を楽しみながら、6-7人入ったらいっぱいの岩風呂にゆっくりと浸かり、まだ体の中でブンブン言っているドラムの余韻に酔った酔った!
ピクリス プエブロは、サンタフェから車で45分北上し、ディクソンという村から30分ほど東へ走った、サングレ デ クリスト(キリストの血)山麓にある。(最北のタオス プエブロからは、38km南東)。ピクリス族は、自らを「ウェー ライ」と呼ぶ。ティワ語で「隠れた谷間に住む人々」という意味だ。部族としての生き残りはかなり深刻な状態に来ていて、かつては3000人を越えた人口も、今では300以下(私の聞いた最低は86人)ということだ。それでも今の部族長は、かなり政治文化の改善に活動的で、築200年のサンロレンゾ教会は最近外部者の助けも借りて修復が完了したばかりだし、ピクリスはサンタフェの中心街にあるホテル サンタフェの大株主でもある。

サン ロレンゾ教会(1915)今もこの原型をそのまま保っている
ほとんどのプエブロではクリスマス期間ずっとダンスが催されていて、私もいくつかに参加したが、24日の晩はピクリス村でやっていた「ロス マタチネス」の一部を見に行って来た。マタチネスとは、アラビヤ語の「仮面をつけた」(ムタワジヒン)から来ているとか。16世紀ごろスペインやフランス、イタリアで盛んだった風習で、17世紀までにはヨーロッパではほとんど見られなくなったが、アメリカ大陸にはスペイン人とポルトガル人が持ち込んだ。ヒスパニック色の強い地域では、土着の文化と混ざり合って今でも行われている踊りだ。
「処女の戦士たち」との別名もあるこの踊りは、王様、乙女、お爺さん、老婆、牛(もしくはバッファロー)と10人の戦士/コンキスタドール(スペイン征服者)、そしてバイオリンとアコースティック ギターで編成されていた。乙女は10才ぐらいの少女だが、あとは年齢まちまちの男性が踊り手だった。少女以外は仮面をかぶっている。お爺さんと老婆は道化的な存在でもあり、おそろしい仮面とおかしな衣装をまとい、鞭をならして子供たちをおどかす。(老父は狼やコヨーテ、老婆は男性が扮しているのもあり両性具有とも見えた。乙女のガイドもつとめる。)王様は、アズテックの最後の王モンテズマらしい。踊りの最後で改宗する。乙女は花嫁で、処女マリアでもあり、またの名をメキシコやこの辺りの守り神である処女グアダルーペともいう存在の具現。(この踊りでは「マリンチェ」と呼ばれる。)全身を白い衣装で包んでいる。

乙女と老父が王様からガラガラをもらうところ
写真 by シルビア ロドリゲス in 1996)
道化と乙女以外はみんな、左手にパルマと呼ばれる三本の剣(?)が放射状に組み合わされたもの(上写真参照)、右手にスカーフでくるんで逆さにしたガラガラを持っている。ギターとバイオリンに合わせて、ガラガラと足踏みでリズムを取り、ダンスの区切りでは一斉に動きを止め道化が「フゥフゥ!」と言ってムチを「パンッ!」とならすと、曲相とリズムが少し変化していく。音楽は、とても不思議だったが賛美歌でもネイティブ アメリカンでもメキシカンでもなく、まるでアパラチア山脈のブルーグラスのようだ。とても単調だが心地よく、ずっと聞いていると、催眠術にかかったような気がして来る。その点では、ネイティブの伝統的な「ヘィヘィオーオー」と通じるものがある。長さ20m幅8mくらいの教会の中で始まり(踊りのためだろうか、普通の教会のように長椅子は並んでいない)、外へ出て10mごとに焚かれた無数のルミナリア(松明)の間をぐるっとひとまわりしながら四方向へ踊りを捧げ、また教会の中へもどった。歌らしいものは特になく、時々「サンタ マリア、我らの罪を清めたまえ」というような祈りを、スペイン語で唱える。
踊りの内容は、基本的には悪霊(牛がシンボル)退治と処女の純潔崇拝だそうだ。集まりは、100人ぐらいだったろうか。老若男女、時々道化の仕草を顔を見合わせ笑う以外は、静かに座って楽しんでいた。ダンサーたちの衣装は実際の話、仮面(バンダナに毛がはえたようなもの)と冠飾り(高さ30cmほどの数本のワイヤーに飾りが付いて、前髪のようなフサが目を覆っている)、背中についた色とりどりのメキシコ風スカーフとリボンなど、全て明らかに本人(かその家族)の手作りで、後は普段着だった。もちろん、鷹の羽や美しいビーズ刺繍をあしらったネイティブの衣装は、華やかですばらしい。でも、この隠れた谷間の村で、イスラムからアズテック、キリスト教とケルトにまで至り、このささやかな踊りが網羅する豊かな文化の多様性、それらをうまく織り込み、本来のネイティブ アメリカンの道を守る調和の力に心から感銘を受けた。ぜひぜひ、生き残って欲しい。
そして、私も「お清め」のご利益を頂けたのか、教会から出て満天の星空を眺め、清厳な気持に包まれて帰って来た。

サン ロレンゾ教会(1915)今もこの原型をそのまま保っている
ほとんどのプエブロではクリスマス期間ずっとダンスが催されていて、私もいくつかに参加したが、24日の晩はピクリス村でやっていた「ロス マタチネス」の一部を見に行って来た。マタチネスとは、アラビヤ語の「仮面をつけた」(ムタワジヒン)から来ているとか。16世紀ごろスペインやフランス、イタリアで盛んだった風習で、17世紀までにはヨーロッパではほとんど見られなくなったが、アメリカ大陸にはスペイン人とポルトガル人が持ち込んだ。ヒスパニック色の強い地域では、土着の文化と混ざり合って今でも行われている踊りだ。
「処女の戦士たち」との別名もあるこの踊りは、王様、乙女、お爺さん、老婆、牛(もしくはバッファロー)と10人の戦士/コンキスタドール(スペイン征服者)、そしてバイオリンとアコースティック ギターで編成されていた。乙女は10才ぐらいの少女だが、あとは年齢まちまちの男性が踊り手だった。少女以外は仮面をかぶっている。お爺さんと老婆は道化的な存在でもあり、おそろしい仮面とおかしな衣装をまとい、鞭をならして子供たちをおどかす。(老父は狼やコヨーテ、老婆は男性が扮しているのもあり両性具有とも見えた。乙女のガイドもつとめる。)王様は、アズテックの最後の王モンテズマらしい。踊りの最後で改宗する。乙女は花嫁で、処女マリアでもあり、またの名をメキシコやこの辺りの守り神である処女グアダルーペともいう存在の具現。(この踊りでは「マリンチェ」と呼ばれる。)全身を白い衣装で包んでいる。

乙女と老父が王様からガラガラをもらうところ
写真 by シルビア ロドリゲス in 1996)
道化と乙女以外はみんな、左手にパルマと呼ばれる三本の剣(?)が放射状に組み合わされたもの(上写真参照)、右手にスカーフでくるんで逆さにしたガラガラを持っている。ギターとバイオリンに合わせて、ガラガラと足踏みでリズムを取り、ダンスの区切りでは一斉に動きを止め道化が「フゥフゥ!」と言ってムチを「パンッ!」とならすと、曲相とリズムが少し変化していく。音楽は、とても不思議だったが賛美歌でもネイティブ アメリカンでもメキシカンでもなく、まるでアパラチア山脈のブルーグラスのようだ。とても単調だが心地よく、ずっと聞いていると、催眠術にかかったような気がして来る。その点では、ネイティブの伝統的な「ヘィヘィオーオー」と通じるものがある。長さ20m幅8mくらいの教会の中で始まり(踊りのためだろうか、普通の教会のように長椅子は並んでいない)、外へ出て10mごとに焚かれた無数のルミナリア(松明)の間をぐるっとひとまわりしながら四方向へ踊りを捧げ、また教会の中へもどった。歌らしいものは特になく、時々「サンタ マリア、我らの罪を清めたまえ」というような祈りを、スペイン語で唱える。
踊りの内容は、基本的には悪霊(牛がシンボル)退治と処女の純潔崇拝だそうだ。集まりは、100人ぐらいだったろうか。老若男女、時々道化の仕草を顔を見合わせ笑う以外は、静かに座って楽しんでいた。ダンサーたちの衣装は実際の話、仮面(バンダナに毛がはえたようなもの)と冠飾り(高さ30cmほどの数本のワイヤーに飾りが付いて、前髪のようなフサが目を覆っている)、背中についた色とりどりのメキシコ風スカーフとリボンなど、全て明らかに本人(かその家族)の手作りで、後は普段着だった。もちろん、鷹の羽や美しいビーズ刺繍をあしらったネイティブの衣装は、華やかですばらしい。でも、この隠れた谷間の村で、イスラムからアズテック、キリスト教とケルトにまで至り、このささやかな踊りが網羅する豊かな文化の多様性、それらをうまく織り込み、本来のネイティブ アメリカンの道を守る調和の力に心から感銘を受けた。ぜひぜひ、生き残って欲しい。
そして、私も「お清め」のご利益を頂けたのか、教会から出て満天の星空を眺め、清厳な気持に包まれて帰って来た。
ズニ族(アーシェウェ)の人たちは、ニューメキシコ州の西のはずれ、ギャラップ市から55kmほど南下した所に住むプエブロインディアンの一族だ。ギャラップを北上するとナバホ族(ディネ)の土地なので、その辺りに住んでいた頃は、ズニの知り合いもいて、たまに誘われて出かけたものだ。本当かどうかは知らないが、誰かからプエブロインディアンの中でもズニ族は、特に日本人と関係が深いなどと聞いたこともある。
ズニ(アーシェウェ)の一年は、今頃から始まる。11月の終りから、様々な宗教行事(セレモニー)が続く。「フェティッシュの評議会の日」は、村中にある(大抵は小さい石---トルコ石等---に)動物の形などを彫刻したお守りを集めて、ズニ族の評議会場の神棚に吊るしておまつりするセレモニー。「シャラコ」は、神のメッセンジャーであるシャラコが、夏の始まりまで姿を消す前にもう一度現れて、雨乞いの祈りを受け取りに来る儀式。そして、「太陽がその場所(トウモロコシ山)の真ん中に着く日」は、冬至の日に祈りの杖を埋める儀式。(これも基本的には、豊穣と部族の繁栄を祈るもの。)
「フェティッシュ」は一日だが、「シャラコ」は八日間の準備と一日のお祭りと踊り、「冬至」は十日間の準備と十日間の節制(肉を食べないとか、家の外に火や炭を持ち出さないなど)、とどれも冬至前後、長期に渡っての儀式となる。
私は、ずいぶん前(1995)になるが「シャラコ」に招かれて行ったことがある。実際にその場にいると、なかなか何が起きているのか把握できないので、後で説明してもらった部分もあるのだが、かなりのお祭り騒ぎであったことは確かだ。その年の「シャラコ」の接待担当の家が隣だったせいもあるだろう。(接待にあたった家は、その敬意を示すのもあって、時には家を建て直すほど入れ込むらしい。)「シャラコ」は巨大な鳥のような生き物(の仮面と毛布でできた体)で、各キバに一羽ずつ全部で6羽いるという。当日の昼間、まずはボディーペイントした火の神と他のメディスンマンのような人たちが、接待担当の家を回って歩き、聖なる羽飾りを配り、ご馳走を食べる。しかし、この間私たち一般人は、夜通しの踊りに備えて寝なくてはならない。それから、腹ごしらえをして踊りの催される建物へ。これが夕暮れ時だ。(もともとは野外だったらしいが、私の行った時は建物の中だった。)この踊りはとても見応えのあるものだ。なにせきれいに羽の頭飾りを付けた(頭のうしろに扇子のように広がっている)、3、4m余りの背の高い鳥のお化けが、足取り軽く踊って歩くのだ。そのうち、マッドヘッド(泥っつら)と呼ばれる、埴輪のような仮面をかぶった神格の道化が現れて、ぎこちない仕草で周りの人に悪さをしたりして笑わせる。数時間して儀式が一通り終わると、真夜中からそれぞれの担当の家に帰って、またまた踊りが一晩中続く。そして、翌日の昼にシャラコは火の神と共に、嘴をパチパチならしつつ去って行く。村人たちはそれを見送りながら、「来年の春夏、雨が降りますように」とその祈りを彼らに託すのだそうだ。
私は寒いのが苦手で、この儀式を体験するまでは「冬至」といったら、「ふぅ、やっとこれで折り返し地点か」という態度でしか考えたことがなかった。しかし、ズニの人たちに今年の収穫に感謝し、来年の恵みを祈り、備えるのは、この時期に行うのがふさわしいと教わった。20日もかけて冬至を祝い、夜な夜な昔話をして暮らす。それは、この寒さに耐えて乗り切るための、すばらしい知恵でもあるのだろう。
ズニ(アーシェウェ)の一年は、今頃から始まる。11月の終りから、様々な宗教行事(セレモニー)が続く。「フェティッシュの評議会の日」は、村中にある(大抵は小さい石---トルコ石等---に)動物の形などを彫刻したお守りを集めて、ズニ族の評議会場の神棚に吊るしておまつりするセレモニー。「シャラコ」は、神のメッセンジャーであるシャラコが、夏の始まりまで姿を消す前にもう一度現れて、雨乞いの祈りを受け取りに来る儀式。そして、「太陽がその場所(トウモロコシ山)の真ん中に着く日」は、冬至の日に祈りの杖を埋める儀式。(これも基本的には、豊穣と部族の繁栄を祈るもの。)
「フェティッシュ」は一日だが、「シャラコ」は八日間の準備と一日のお祭りと踊り、「冬至」は十日間の準備と十日間の節制(肉を食べないとか、家の外に火や炭を持ち出さないなど)、とどれも冬至前後、長期に渡っての儀式となる。
私は、ずいぶん前(1995)になるが「シャラコ」に招かれて行ったことがある。実際にその場にいると、なかなか何が起きているのか把握できないので、後で説明してもらった部分もあるのだが、かなりのお祭り騒ぎであったことは確かだ。その年の「シャラコ」の接待担当の家が隣だったせいもあるだろう。(接待にあたった家は、その敬意を示すのもあって、時には家を建て直すほど入れ込むらしい。)「シャラコ」は巨大な鳥のような生き物(の仮面と毛布でできた体)で、各キバに一羽ずつ全部で6羽いるという。当日の昼間、まずはボディーペイントした火の神と他のメディスンマンのような人たちが、接待担当の家を回って歩き、聖なる羽飾りを配り、ご馳走を食べる。しかし、この間私たち一般人は、夜通しの踊りに備えて寝なくてはならない。それから、腹ごしらえをして踊りの催される建物へ。これが夕暮れ時だ。(もともとは野外だったらしいが、私の行った時は建物の中だった。)この踊りはとても見応えのあるものだ。なにせきれいに羽の頭飾りを付けた(頭のうしろに扇子のように広がっている)、3、4m余りの背の高い鳥のお化けが、足取り軽く踊って歩くのだ。そのうち、マッドヘッド(泥っつら)と呼ばれる、埴輪のような仮面をかぶった神格の道化が現れて、ぎこちない仕草で周りの人に悪さをしたりして笑わせる。数時間して儀式が一通り終わると、真夜中からそれぞれの担当の家に帰って、またまた踊りが一晩中続く。そして、翌日の昼にシャラコは火の神と共に、嘴をパチパチならしつつ去って行く。村人たちはそれを見送りながら、「来年の春夏、雨が降りますように」とその祈りを彼らに託すのだそうだ。
私は寒いのが苦手で、この儀式を体験するまでは「冬至」といったら、「ふぅ、やっとこれで折り返し地点か」という態度でしか考えたことがなかった。しかし、ズニの人たちに今年の収穫に感謝し、来年の恵みを祈り、備えるのは、この時期に行うのがふさわしいと教わった。20日もかけて冬至を祝い、夜な夜な昔話をして暮らす。それは、この寒さに耐えて乗り切るための、すばらしい知恵でもあるのだろう。