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サンタフェより

高地砂漠で体験したこと 考えたこと

豆まき

2006年02月05日 | 四季折々
昨日は、日本から四通も「節分」のごあいさつのメールをいただいた。仕事とアレルギーにダブルパンチをくらいつつ、我が家も豆まきをした。「ソイ・ビーンズ」も日常的になってきたので、乾燥したスナック用の大豆も入手は容易い。

「鬼はぁ~外、福はぁ~内!」と叫んでいて、幼少時の記憶が蘇ってきた。私の妹は踊りが好きで、好きというよりは「踊り(バレエ)気違い」と言った方が近い。三歳になるかならない頃、無理を言って教室に通い始めて以来、音楽も小説もすべてバレエにあるから興味を持つ、読むマンガもバレエものばかり。よく言えば徹底的な凝り性、悪く言えば単細胞である。クラシック音楽しか聞いたことのない彼女は、高校を卒業してすぐヨーロッパへ出てしまって、初めて帰国した時に「ねぇ、ジョン・レノンって知ってる?」とか言っていて(1980年代後半の話である)返す言葉がなかったのも、つい昨日のことのようだ。挙げ句の果てに、今ではヨーロッパでバレエ教師をしている。

その彼女が初めて見たバレエの出し物が、『泣いた赤鬼』だった。他にもテレビ番組で影響を与えたものがあったのだろうが、この公演後彼女のバレエ熱がただの好奇心から、決意へと変わったのを覚えている。赤鬼への思いやりから、敢えて悪者になって去って行った青鬼の手紙を読んで、赤鬼はおいおいと泣く。ひろすけ童話の名作のひとつで、私は読んでいて七五調が耳に快く響いたのを覚えている。しかし、このお話を「踊り」という「コトバなし」の世界に変換された形で経験し、それに深い感銘を受けて「鬼さんたち、かわいそう。」と、会場に響く大声で泣いていた妹。「コトバ」にこだわる私としては、彼女がどうこの世界を経験しているのか、興味深いところだ。電話や手紙のやり取りはあったものの、彼女には十年ほど会っていない。今年は是非会いたいね、と言っているのだが。

と、新しい春に向けての豆まき鬼退治は、結構センチメンタルになってしまった。「福は内」には自信があるが、「鬼は外!」の声が少し弱かったのは、「泣いた赤鬼」が念頭に焼き付いていたせいかも知れない。

旧暦日々是好日

2006年01月29日 | 四季折々
今日から旧暦新年。日本の旧暦から随分離れた生活を続けて来たが、今年からはちょっと違う!
簡単に季節のご挨拶の声がかからないので、今年は高月美樹さんという方が作っておられる「旧暦日々是好日」というカレンダー手帳を日本から取り寄せた。

きれいな挿絵と、豊富な歳時記情報が期待以上でありがたい。また、心をこめて作られたのが各頁から伺える。今日は正式な「蓬莱飾り」や「蓬莱山」、「青海波」という有職文様の由来など教えたもらった。新年早々とっても得した気分だ。

サンタフェ人

2006年01月22日 | 四季折々
今日はサンタフェJIN (Japanese Intercultural Network)の新年会だった。 

このグループは、言ってみればサンタフェの日本人会なのだが、日本人はそれほどいないし、日本人だけでやっていてもつまらないので、子供も含めて百人ほどいるメンバーの半分は日本人、残りの半分は日系米国人や、アメリカ人で日本に関係のあることをやっている人、興味のある人で成り立っている。まだ始まって二年ほどの、できたてほやほやだ。もとは、子供に日本のお祭りを経験させたいとか、日本人との交流の場を持たせたい、と学校をやっている人やお母さんたちからの要望で始まった。私は、はじめちょっとためらいもあったが、先日の街を読む人との出会いや、お茶の先生との親交を深めたりと予想以上に得るものの多い会だ。

月に一度「ポットラック」"potluck"(食べ物持ち寄りパーティー)をして、お祭りの計画、その他の資金調達や文化交流のためのイベント計画や情報交換をする。家庭菜園の収穫(もちろん日本の野菜!)を持ち寄ったり、日本から帰ったばかりの人がおすそ分けを持参することもある。今月の例会は、いない人も多いし皆が忙しい年始は避け、太陽暦と陰陽暦の間を取って、今日が新年会だったというわけ。会場は、日本人女性とアメリカ人のご主人がやっている私立の小さな学校を借りた。私は「お煮しめ」の係りで、もう一人と手分けして作ったのだが、日本人や日本に長く住んだ人たちが相手だと、材料集めやだし取りも苦労のしがいがあるというものだ。お節は生まれて初めての人もいて、説明したりワイワイ言って結構楽しんだ。パーティーのはじめにやった書初めのデモや、お試しコーナーも人気があったようだ。

この会は、旅行者や短期滞在者に情報をお分けするのも目的のひとつで、もしお越しの際は連絡を取ったらいい。メンバーには旅行会社をやっている人、レストランをやっている人もいるし、その他いろいろな情報を網羅しているので、ヘタなガイドブックなどよりずっと的確だと思う。

さて、今年はどんなイベントや出会いがあるか、楽しみだ。


マーティン ルーサー キング デー

2006年01月16日 | 四季折々
一月十五日は故マーティン ルーサー キング ジュニア牧師の誕生日で、アメリカでは一月第三月曜日が祝日となっている。ご存知のように、キング牧師は、1950年代後半から1960年代にかけて盛んになった、黒人公民権運動の指導者である。父親も牧師で、アラバマ州でバプティスト派教会の牧師を務めていたが、1955年かの有名なローザ パークス女史の逮捕(当時アメリカ南部では、黒人差別が合法とみなされていて、バスでも黒人席と白人席は分かれていた。パークスさんは、白人席に座って譲らなかったため逮捕された。これが、黒人公民権運動の公な発端とされている。)に講義して、非暴力を提唱しバスのボイコット運動を指導した。

1963年ワシントンDCでの演説「私には夢がある」("I have a dream")は、簡潔でかつ力強く多くの人が共鳴したことで知られている。彼が暗殺されてからはや38年。この名演説を読み返してみて、なんだかまだまだ理想の世の中からはほど遠い私たちが、ちょっと情けないような気がした。私がとても好きで、今読んでも共感できる部分を抜粋してみた。


私には夢がある。いつの日か全ての谷が隆起し、丘や山が低地となり、荒れ地は平野となり、歪んだ大地がまっすぐになる、そんな日が来ますように。そして神の御光があらわになり、それを人類すべてがその目で見る日が来ますように。これこそが、私たちの希望なのだ。この信じる心をもって、我々は絶望の山から希望の石を切り出すことができるのだ。この信じる心をもって、我が祖国を乱している不協和音が、世界平和の美しい交響曲へと変身を遂げる日が来ますように。この信じる心をもって、いつの日か本当の自由が手に入ると確信してこそ、私たちは共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄へ行き、そして自由を求めて立ち上がることができるのだ。

(スタンフォード大学 MLK ペーパー プロジェクト より)

よいお年を

2005年12月31日 | 四季折々
ご縁があって出会った方々
ご縁が再びめぐってきた方々
すばらしい出会いの後 残念ながらご縁が遠のいてしまった方々
様々なインスピレーションをありがとうございました。皆さんのお陰でよい年、「希望の年」になりました。

こちらはまだ大晦日の一日がはじまったばかりです。今夜はおそばも本番!
明日は、日の出を拝んでから、インディアンのダンスと儀式と物語に誘われて、初詣のつもりで行って来ようと思います。

よいお年を お迎え下さい。遠い空より・・・

Joy to the world !

2005年12月25日 | 四季折々
またひとつ、ふと立ち止まって周りを見回して、「この宇宙で みんな ひとつ」なのだと確認できる、機会がありました。

今夜は、何人かの大切な人たちと、ピクリスという小さな小さなプエブロの教会に行ってみようと思います。

ルミナリア

2005年12月21日 | 四季折々
冬のサンタフェで何がいいか、と聞かれたらクリスマスのルミナリアと答えたい。ルミナリアとはスペイン語で、「常夜灯」とか「ともしび」の意味で、クリスマス イブの夜、教会への道を照らしたり、キャロルを歌いに来る聖歌隊が暖をとるために、家の前にたいた焚き火のことだ。プエブロの村でも、この日は松明を灯し続けるらしい。

街のあちこちで見かけるのは、ローソクのルミナリアだ。最近では電灯のものもあり、大きなホテルなどは、ホリデー期間中ずっと灯りがついている。私たちが自宅で使うのは、とても簡単な手作りだ。高さ20cmほどの小さい茶色の紙袋(商店で使うごく普通のもの)に、土をひと掴み入れその上に直径3cm高さ5cmぐらいのローソクを埋め立ててできあがり。これを数十個、時には数百個作って、玄関への通路、池の周り、屋根や塀のへりに等間隔で並べてゆく。アメリカ南西部だけの習慣ではないのだろうが、アドービの家は屋根が水平だし、出窓や飾りのてっぺんがみんな直線なので、この淡い光の縁取りがとても映える。(残念ながら写真はことごとく失敗してしまった・・・)

ルミナリアほど一般的ではないが、もうひとつファロリト(小さい提灯)と言うのもある。これは、丸みを帯びた三角柱の行灯みたいなもので、細い骨組みに紙がはってある。その中にやはりローソクを灯して、その熱で気球のように空にフワァッと舞い上げて遊ぶ。糸の切れた凧のように、どこかへ消えてしまうことが多い。ヒスパニックの人たちにいわれを聞いてみたが、あまりしっくり来る返事はもらえなかった。

クリスマスイブは、キャニオン ロードとその周り1ブロックほど、ルミナリアやクリスマス ライト見ながらそぞろ歩くのがならわしとなっている。周辺の家は、飾り付けに力を入れるし、暖かいアップルサイダー(シナモンなどのスパイスをきかせたリンゴジュース)やココアを用意して、家を開放する。見知らぬ人たちと焚き火に当たりながら、アップル サイダーをすすり、ファロリトを見上げて過ごす。これがサンタフェの典型的なクリスマス イブである。(もちろん敬虔なキリスト教徒は、その後真夜中のミサにゆきます。)

月の出

2005年12月16日 | 四季折々
届け物があって夕方外に出たら、東の山の白さにドキッとした。ゆっくりと、静かに昇る青白い月は、まぶしくて目が眩みそうな明るさだ。そうか、今夜は満月だったのか。すっかり忘れていた。何もかもが銀色に輝いているので、ヘッドライトを消しても運転できるほどだった。何かの歌じゃないが、ついつい遠回りして帰って来てしまった。

こういう夜は、あれこれ考えずに、いい夢を見ることにしよう。

クリスマスカード

2005年12月14日 | 四季折々
また雪が降った。街はたいした量ではなかったので大方溶けてしまったが、サングレ デ クリスト山は、真っ白に化粧直しをしたようだ。スキー場もとりあえず、部分的にオープンできたということだ。今も降っているらしい。ふと気づくと、クリスマスももうすぐそこである。

うちはあまり熱心にカードを送る方ではないが、今がアメリカでは日本の年賀状交換に匹敵するシーズンだ。日本人の私たちは、誰もが「メリー クリスマス」と書くのだろうと思いがちだが、実はそうではないとアメリカに来てから知った。それも、表現に個性を出すために言い方を変えるのではなく、自分の立場を表現するためにである。

つまり、熱心なクリスチャンは、あくまでもこれはキリスト教のホリデーだと人々に思い出させたいから、敢えて「メリー クリスマス」。極端なプロテスタントの中には、宗教をだしに商業主義を推進しているとして、カードを送ったりツリーを飾るのを拒否する人がいる。彼らは、人がカードを送って来ると、「ごめんなさい」と前置きしてから送り返すし、そうならぬよう前もって断ってきた人もいた。ユダヤ教の信者は、さりげなく「ハッピー ホリデー」とするか、「ハッピー ハヌカ」。もちろんあまり深く考えず、「メリークリスマス」を使う他信教者や移民もいる。商売をやっていたり、カドが立つのを嫌がる人たちはみんな「ハッピー ホリデーズ」として、新年も含め何を祝っていてもかまわないようにする。(これが一番ポリティカリー コレクトなわけだ。)気をつけて見ていると、相手によって挨拶をかえる人もいる。つまり、単なる自己表現なのではなく、相手への配慮を示さなくてはならない。

たかがカード、たかが季節のご挨拶なのだが、ケッコー複雑だったりする。

追記:もちろんこの他にも、「季節のご挨拶」("Season's Greetings")
とか「世界によろこびを」("Joy to the World")など多々あり。

スキー場

2005年12月06日 | 四季折々
ふと思いついて、サンタフェスキー場までミニドライブに行って来た。中央広場プラザの北側に建つ、もと州知事邸(現在は美術館)を起点にして、いわゆる「眺めのよい脇道」として知られている、20kmほどの気持のよいドライブコースだ。(スキー場の標高は、最高地点で3600mほど。)

プラザを出て、右側にメイン郵便局、ドギツいピンクのスコットランド系フリーメーサンのお寺を見ながら、北上。すぐ上の信号を右に折れると、アーティスト ロードになる。これをひたすらまっすぐ行くと、ハイドパーク ロードと名前を変える。この辺りから、サンタフェ市の北側を取り囲むサンタフェ国立公園に入る。ピニョン(松の類)、ジュニパー(ネズの類)、そしてアスペン(ポプラ)が肩を並べ、先を競って天へと伸び始める。ピニョンを赤松、白い幹のアスペンを白樺と思い込めば、原村あたりの八ヶ岳山麓を走っているような感じだ。左側はかなり急なガケで、所々森の隙間から町の反対側にそびえるヘメス山の輝いているのが見え隠れする。松ばかりで真っ黒に見えるこんもりした森になったり、急に枯れ葉ひとつつけぬ白灰色のひょろ長いアスペンの林になったりと変化に富む。(今日知ったのだが、アスペンが覆っている地帯は、昔の山火事で針葉樹が焼かれてしまい、育ちの早いアスペンだけが生息範囲を広げたとか。)

今日は仕事を少し早く切り上げて出て来たので、ちょうど日没少し前の5時頃スキー場の入り口に付いた。先日の雪はほとんど跡形もない。オープンを12/10に延期したと聞いていたが、もしその前にドカ雪が降らなかったら、もう少し延ばさなくてはならないかも知れない。去年は、何年も続いた干害にやっと終止符を打ち、かなりの雪に恵まれた。関係者たちは、去年も本格的な積雪は1月になってからだったので、何とも言えないと言う。私は、観光客が来始める前の、静かな夕焼けを楽しみに来たので、ガランとした駐車場も淋しく感じなかった。

少し降りた所の方が見通しがいいので、急いで引き返す。日の沈むほんの数分前、光の色が急変する。さっきまで、寒々しい黄味がかった青色だったのが、一瞬にしてサーモンピンクになった。すると、丸坊主だったはずのアスペンの、てっぺんあたりのちいさな小枝が急にサーモンピンクの綿毛をまとったように、ふんわりと色づいた。

    

その後、ピンクは茶色がかって、アドービ煉瓦の色になり、さぁっと陽がかげってしまった。車を再び走らせて、今度は太陽が西の山に吸い込まれるさまを見ながら、蛇行を続けて下って行った。町に着いた途端、手足の先まで冷えきっていたことに気づいた。ゴボウとダイコンがあったはずだから、今夜はケンチン汁まがいができるかな。

初雪

2005年11月27日 | 四季折々
例年よりなんと一ヶ月も遅れて、雪が降った。(というより、たった今雨が雪に変わりはじめた。)木枯らしばかりで、水気のない日が続いていたので、恵みのお湿りである。もう寝ようと思って何気なくカーテンをめくったら、世界にぽぉーっと淡い光がともっていた。明日の朝は、一面の銀世界が期待できるかも!