¶タイタン号の宇宙探検¶

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ギョーカイに飛び込む!NHK立志編~「愚者の旅」より

2006年08月11日 16時15分26秒 | 倉本聰さん関連

前々回『あ!ない!!』理論社刊「愚者の旅」より抜粋で書きましたとおり、ニッポン放送でとんでもない目に遭った(自業自得ですが^_^;)倉本さんは、さすがにもう無理だ!と悟り、サラリーマンを辞めることにしました。
清水の舞台から飛び下りるつもりで、密かにやっていた副業(シナリオライター)を本業にする事にしたわけです。

『ありがたかったのは、日活のターキー水の江瀧子さんが何故か可愛がって日活の契約ライターにして下さったことである。
中平康監督の「月曜日のユカ」(※注1)
の仕事が来た。中平康といえば石原裕次郎の「狂った果実」を世に送った当時気鋭の監督である。その頃まだスチールマンだった、後に監督となる斉藤耕一と共作ということで早速宿屋にカンヅメにされた。(中略)斉藤耕一は家に帰ってしまって一人で苦吟していると、俄かに隣室で怒号が起こり、ドタンバタンと何やら乱闘が始まったらしい。面白そうなので見物しようと廊下へ出ると、隣室の入口を見下ろす階段の踊り場に既に先客がいて、妙にニコニコと嬉しげに事態を説明してくれる。

「あの部屋は今、田村孟が入っていてプロデューサーと“狼の王子”というシナリオを作っているんですよネ。そこへ監督の舛田利雄が現れて田村孟がのシナリオに文句を云ったもんだから、田村氏が頭に来てネチネチ絡み出したわけです(以下、壮絶な描写のいきさつが丁寧に続く──)」

当時男は親しげにヒッヒと笑い、
「ア、僕、山田信夫。あなたは?」
「倉本聰と申します。」

ドキドキした。何しろ山田信夫と言えば蔵原惟繕監督の「憎いあンちくしょう」を書いた憧れのシナリオライターである。

「今この奥の部屋に今村昌平が入ってましてね。この宿はつれこみも兼ねているンで時々隣室にアベックがしけ込みます。そうすると今村さんは押入れにもぐりこみ、座布団を敷いて隣室の模様をじっとのぞいているらしい。(またもや詳細な説明)」
──親切に新人の僕に映画界の諸事情を講義してくれた。わくわくするような世界だった。』


当時は昭和30年前後。テレビの急激な台頭で映画は斜陽になりかけていましたが、映画界の誇りはあくまで厳然として、テレビを軽蔑する風潮がややあったとのことです。

契約ライターの倉本さんはまず企画を練る。ある程度見通しがついたらプロデューサーに持ち込む、という流れなのですが、新人はオリジナルなんてめったに任せてもらえない。原作を探して脚色するか、プロット専門家の“それ”を台本に書き上げる──。

プロット(ストーリー)を作る作家と、撮影用のいわゆるシナリオを書く作業は実は全く別種と言っていいほど違う職業である。だからアカデミー賞を見ても、脚本賞と脚色賞が厳然と分けられているわけだが、当節日本のテレビシナリオ等はこれを全く混同しており、シナリオライターを目指すものがいきなりオリジナルシナリオを書こうとする。この風潮は僕は無茶だと思う。』


へええ、そうなんだ・・・。知らなかったです。ということは「優しい時間」や「前略おふくろ様」も、原作は倉本さんで、脚本が時々違う人だったりなんてことがあったけれど、そう考えればいいのかな?(そういえば最近はオリジナル脚本ってすっかり減りましたよね)

『ともかく、ターキーさんに推されて日活と契約したという経緯もあって僕の作品のプロデューサーは圧倒的にターキーさんが多かった。その頃ターキーさんはフリーに転向をはかっており、水の江事務所を興すということで、斉藤耕一と二人、その役員として参加することになった。だから年中成城にあるターキーさんの家にごろごろしていた。

当時、その家は、石原裕次郎邸の敷地の中にあり、従ってしばしば裕ちゃんがビールを飲みにふらりと現れた。裕ちゃんとの付き合いはこうして彼の死までつづくことになる。僕と彼は生年月日がわずか三日しかちがわなかった。──なのに脚の長さは二十センチちがった。おまけに彼は大スターであり、僕はかけ出しのライターである。裕ちゃんのシナリオはとても僕らには書かせてもらえなかった。では僕は何を書いたか。──歌謡ドラマである。
舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫、ザ・スパイダース。そういう連中の専属だった。』


どうもこれ、私にはピンとこないのですが、説明によりますと、「歌を誘い出すセリフを書く」仕事だったらしいです。例えば・・・

男 「あのさぁ」
女 「どうしたの?」
男 「いや、いい──」
女 「変な人。いいたいことがあるなら言えばいいのに」
男 「──」 <歌、何故か入る。>
♪ 好きなん~だけどォ  
はなれて~るのさァ~ (by「星のフラメンコ」)
  ──という感じ。


『当時日活ではシナリオが出来ると「御前本読み」という恐ろしい儀式があって、江守清樹郎以下ずらりと重役が居並ぶ前へ出て、ライター自身が己の書いたシナリオを全て朗読して聴かせなければならない。声が小さいと「でかく!」と怒鳴られ、震え声だと「震えずに」と野次られ、時には「少し感情を入れて」と注文され、そのうち退屈してイビキをかき出す無礼な奴まで出る始末。更にセリフだけだと判らないから、そのセリフを誰が云っているのか、つまり太郎「ナントカ」花子「カントカ」と、いちいち“太郎花子”をひっつけて読むわけで、これはもう恐怖を通り越して拷問の世界。──そんな具合に鍛えられていった。』

『そんな中へある日、一本の電話が入る。NHKから初めて作品の依頼である。とび上がるくらい嬉かしかったのは、仕事が来たというそのことよりも、NHKの人間の、久方ぶりにきく紳士的丁重な口のきき方のせいだったかもしれない。ああ今までいた映画の世界はこっちに比べればヤクザではないか。
当時まだ若くて世間知らずだった僕は、NHK人種のその丁重さ、いんぎん無礼の背後にひそむ本当の恐さを知らなかったのだ。』


後にとんでもない事態になるとも知らず、まずは建物のイメージに圧倒される倉本さん。『放送局とはこうあるべき建物』、とまで表現しています。社員のこともいちいち「紳士」に見えたというこのNHKで最初にやった仕事は、松本清張原作「文五捕物絵図」!(といっても内容は無茶苦茶だった・・・)

『松本清張はほとんど読んでいるつもりだったが、こういう原作は知らなかった。紳士たちは笑い
「新しく書き下ろしていただいたのです。書き下ろすと云っても数行。但し清張先生の全著作をいただきましたので、それらを如何様に脚色していただいても結構です。」
即ち
「点と線」だろうと「霧の旗」
「張り込み」だろうと早い者勝ちで作品に唾をつけ、それを時代劇に脚色する作業。原作が切れたらオリジナルでも結構という、ありがたいような恐ろしい話。
そして引き合わされたのが後年ガハハで有名になるかの和田勉ディレクター。主役は新人杉良太郎、音楽が冨田勲と決まって、怒涛のごとくスタートした。
(中略)幸い評判も視聴率もよかった。おかげで終了後もNHKから次々と仕事が舞い込んできた。』


先日フジテレビで観た「ザ・ヒットパレード」でも思ったのですが、何事も、創世記っていうのは本当にシッチャカメッチャカです。しかし、松本清張の原作がそんなふうに料理されていたとは・・・!

こうしてNHKで着々と(?)仕事をしながら、倉本さんは日活でも契約続行。
後にまた、大学で親友になり倉本さんの東大卒業に貢献しまくった中島貞夫氏(※注2)(当時は京都撮影所に勤務)が登場し、倉本さんをヤクザな道へひきずりこんで行くのですが・・・(^_^;)

とにかくこうして運と努力のかいあって、好スタートを切った倉本聰さん。これから北海道へ流れつくまで、どんな荒波が待っているのか──。それはまた後々書かせていただきますm(__)m

※注1)既にニッポン放送に内緒で「現代っ子」を執筆、封切り済み。その後「月曜日のユカ」を書いた。中尾彬のデビュー作でもある。

※注2)東大時代の倉本さんの同級生で、大学卒業の“お世話”をしたらしい(?)人物。64年『くの一忍法』で監督デビュー。「木枯らし紋次郎」シリーズ、「日本の首領」シリーズ、「極道の妻たち」シリーズなど、作品は多種多様。
http://www.pan-kyoto.com/ac1928/1928_press/1928int/int_data/int_54.html



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