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さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

親鸞聖人は、流罪を恨んでなどいないと思う。

2020-06-09 19:49:27 | 仏教講座


本日は「サルブツ通信」番外編としてお届けいたします。


親鸞聖人の主著とされる『教行信証』の「後序」ですね。
『教行信証」の一番最後の部分について、一言、思う所を述べさせていただきます。


だって、「触らない方が良いよ」と言ってるのに、触る人がいるからね。
詳しいことは、サルブツ本編で、いずれ取上げますので、ここでは、中身には触れません。
あしからず。


私たちは、「『教行信証』は、まず、後序から学ぶ」と言われて育ちました。
それは、たぶん、「後序」と呼ばれている部分に、『教行信証』撰述の理由が述べられているからだと思います。


親鸞聖人というのは、自分についてほとんど何も語っておられません。
その親鸞聖人が、ご自分の生涯において忘れ得ぬ出来事として、
①法然上人への入門
②法然上人の著書『選択本願念仏集』の書写を許されたこと
③流罪にあったこと
などについて、極めて簡潔に述べられています。


簡潔ではありますが、非常に重要です。


そこで、ちょっとだけ、申し上げておきたいのですが、私、「後序」に書かれている想い出は、①②③と、「流罪」も含めて、親鸞聖人の御生涯において、忘れ得ぬ「喜び」となった出来事だと考えているのですよ。


親鸞聖人は、1207年「承元の法難」という念仏弾圧事件(ちなみに、私は、この事件を宗教的事件だとは考えていません)の際に、法然上人らと共に罰せられ、越後へと流されます。
越後流罪というやつですね。
これなんですけど、親鸞聖人は、罪人として、暗澹たる思いに打ちひしがれ、悔しくて悔しくて、恨み辛みを山ほど抱えて、流刑の地越後へと赴いた、と、思いますか?


記憶は定かではありませんが、なんか、そんな風に描いてありそうな気がします。
「後鳥羽、このやろう、いつか地獄に落としてやるからな、こら!」
だとか、
「越後寒いし、家も無いし、食べるものもなかったら、死んじゃうかもしれないし、てか、私、たぶん、生きては帰れないよ、きっと。」
みたいな。


私、まったく逆だと思っているんですよ。
親鸞聖人は、愛する師匠と連座する形で罰せられたことを、むしろ「光栄なことである」と、喜んでいらっしゃったんだと思うんですよ。
当時の「流罪」のシステムなんかを考えると、親鸞聖人が自ら望む形で連座された可能性が大きいのではないかとも、考えています。
「誰か、流されても良いってやつ、いる?」
「はいはいはい!私、行きます!行かせてください!」
「良いの?大丈夫?」
「大丈夫です!」
という感じですね。


あ、よくある、「肉食妻帯」が流罪の理由という説明は、完全な間違いですからね。
それは、もう、歴史学的にあり得ません。


私、思うんですけど、悲痛感たっぷりに、意気消沈して流されて行く親鸞聖人よりも、
「おっしゃ!法然坊の弟子、ここにありじゃ!越後でかましたる!」
と、意気揚々と流刑地に赴く親鸞聖人の方が、ありがたくないですか?



神仏を拝むのに理由はいらない。でも、理由を説明したくなるよね。

2020-06-08 12:39:43 | 仏教講座
○○だから、神仏を拝む。


この「○○」には、何が入ると思いますか?
別に文字数の制限はありません。


私は、ですね・・・・、そうですねえ・・・。
「だから」というよりは「なんとなく」?
自分で言いだしておいて、申し訳ないんですけれども、これ、「○○だから」という理由、必要ですか?
理由が、あるのは、良い。
理由があっても、かまいません。
何も問題は無いと思います。


でもね、無くても、かまいませんよね?
拝むにしたって、
「なんとなく」
「いつもやってるから」
「ばあちゃんが拝んでたから」
「拝みたいから」
で、問題ありませんよね?
まあ、私の場合、上の理由に、「職業上の義務だから」という場合が追加されますが、つまるところ、特に理由らしい理由はないのではないかと、思い始めてきました。


しかし、たぶん、坊さんだとか、宗教家と名の付く方は、皆そうだと思うのですが、
「なぜ、この仏様をおがむのか?」
だとか、
「この仏様は、なぜありがたいのか?」
だとか、
「なぜ、神仏を敬わなければならないのか?」
だとか、説明したくなりますよね?


私、めちゃめちゃ、説明してきてます。
でも、そんな説明必要ですか?
私、すごく失礼なことをしてきたような気になってます、今。


「そうは言っても、拝まない人に拝んでもらいたいんだから」
「ありがたいと思ってない人に、ありがたいと伝えるんだから」
というご意見が上がりそうですが、仰る通りです。
それが、正論です。
ですが、頑なに、「何も拝まない人」って、そんなにいます?


そもそも、お寺にいらっしゃる方々とか、坊さんの話を聞いてやろうという方々は、ほとんど既に、
「拝んでる人」
ですよね?
「拝む人」というのは、神仏をなにがしかでも「ありがたい」と思ってらっしゃるから、「拝む」わけですよね?
そんな方々に、
「・・・・だから拝みなさい」
「・・・・だからありがたがりなさい」
という説明は、余計お世話ですよね。


私、反省します。
これからは、「なんとなくありがたい」という気持ちをくすぐる作戦で行こうと思います。


そういう意味では、比叡山や高野山で大師様方にお仕えする僧侶の姿、説得力ありますよね?
あれだけ大切にされておられると、「きっと、ありがたいんだろうな」という気持ちになりますもんね。
日蓮宗の方々が「日蓮大聖人様」と呼ばれているのにも、実は、常々感心させられております。
東本願寺ワールドでは、親鸞聖人を呼び捨ててるんだもんね。


要するに、恥ずべし痛むべし。僧侶は悲泣せよ。ってことだと思う。

2020-06-07 12:42:43 | 仏教講座
日本政府が、香港に対する中国政府の動きに反対する声明への参加を拒否してしまったと聞き、たいへん、凹んでいます。


https://news.yahoo.co.jp/pickup/6361814


いつも思います。
個人(企業)の利得は、大勢の命よりも優先されるのか?と。
香港のことは、対岸の火事ではありません。
僧侶は政治に口を出してはいけないというのが、信条なので、台湾の民主化運動からも離れ、長いこと黙っていましたが、これは、政治の問題ではありません。
人の命の、人権の、自由の問題です。


台湾を応援すれば「右」、中国を応援すれば「左」、各論は問わない。
もう、ただただ、うんざりしています。
もう長いこと「極右」指定されて暮らしてきましたが、私の政治思想は、「中道左派」です。
それは、どうでもいいことですね。


政治家だけではなく、「中国詣で」に励む、坊さんや仏教学者、たくさんいます。
「仏教は中国から来たんだから」
「仏教徒は交流しなければ」
だとか、鼻の下を伸ばしています。


交流相手が「中国共産党」の出先機関に限られているということ。
文化大革命で壊滅させられた中国仏教界が、どんな資金で、一見、復活したのか。
実は、復興ではなく、共産党による、中身総入れ替えの「乗っ取り」でしかないこと。
要するに、復活した「中国仏教」なるものは、共産党の民衆支配のツールであること。
その「中国共産党」は、仏教徒やイスラム教徒の弾圧、虐殺を、現在進行形で続けていること。


そんなことには、まったく目もくれず、ニコニコと握手して、
「いやあ、向こうも、えらく喜んでくれてねえ・・・・。」
と、帰国した後で、紙切れを見せびらかす。


似たようなことは、少し前まで、台湾でもありました。
台湾の仏教界は、国民党の終生議員である、ある僧侶に牛耳られていました。
仏教が、国民党に支配されていたのです。
その影響か、今でも、台湾の仏教界は「親中派」が影響力を持っています。
現政権である親民党の集会で、僧侶の姿を見ることは、めったにありませんが、国民党のデモ参加者には、組織的に参加しているとしか思えない、僧侶の姿が目立ちます。


インドのの場合は、政治的ではありませんが、
「やっぱり、インドは良いよ。」
「お釈迦様のお生まれになった国なんだから、行かないとねえ。」
なんて話を、頻繁に聞かされます。
学生を「インドツアー」に参加させ、コミッション抜いてる教授とかもいました。


「え?仏教が滅んだ国ですけど?」
「差別が蔓延し、宗教的悲劇が、今でも、そこらに転がってる国ですけど?」
「だから、今、新しいインド仏教が、頑張って戦ってらっしゃるんですけど?」
「何しに行くんですか?差別体験ですか?」
と、つい、こぼすと。
「もっと、大らかに考えないと、仏教者なんだから。」
と、挑発されてしまいます。


「大らか」というのは、虐げられている人たちを見て、見ないふりをして、美味い物食べて、飲んで、土産売りのしつこさに文句を言って、ありがたがって、「その国を見て来た」気になることでしょうか?


どこにいようと、僧侶が思考開始する場所は、苦しんでいる人々、虐げられている人々、悩み喘ぐ人々、そんな普通の人々が立っている場所でなきゃいけないんじゃないですか?


「大乗仏教」って、そういうことですよね?


『ボンベイ』というインド映画の名作があります。


https://movies.yahoo.co.jp/movie/84144/


この映画のラストに流れる曲の歌詞に、号泣してしまいました。
「仏陀が生まれたこの国で、人と人とが殺し合う(だいたいです、すいません)」
猛烈に痛かったです。
「痛み、恥じ、悲泣しろ」
と、親鸞聖人も仰せです。


ショックのあまり、若干無理言ってるかもしれません。



坊さんは、坊さんであることを、一度、忘れてみた方が良い、と思う。

2020-06-06 10:58:28 | 仏教講座
坊さんに、坊さんであることを忘れろというのも、おかしな話だと思います。
本質論をすれば、「坊さん」であることなど、忘れられっぱなし、だとも言えますし。
常に忘れていたり、忘れる以前に、覚えたことすらない方には、どんな風に表現しても、まず伝わらないとも思います。


「坊さん」が社会的存在であるとするならば、「坊さん」であることを忘れて、「坊さん」でない視点から考えてみないと、「坊さん」について考えることはできないじゃないですか?
そこに立てなければ、今以上に、社会から孤立する、というか、社会から取り残されてしまうのではありませんか?


徳川幕府の遺産で、これまで食い繋げてしまったことって、驚くべき幸運であって、当たり前のことではありませんよね?
葬儀にしろ、法事にしろ、日本人という優しい人たちが、恐ろしく他人の目を気にするという特質を持っていたから、
「なんとなく、おかしいと思うけれど、それでも、みんながやってるし、しないと何を言われるかわからないから」
と、続けられてきたということは、否めませんよね?
そんな側面があるということに、無頓着でいられるのは、
「昔からこうしてきた」
と、「坊さん」に拘泥しているからではありませんか?


もう、ずっと、言い続けてきましたが、「坊さん」が、どんな目で見られているのかということを、ベースにして、物事を考えなければ、当たり前ですが、滅びます。


教団が滅びるのも、お寺が滅びるのも、坊さんがいなくなるのも、別に、何とも思いませんが、「仏教」という教えが滅びてしまうのは、寂しいですね。
それも、誤解されたままの姿で・・・・・・。
神仏に手を合わせる人の姿が見られなくなったら、引っ越ししたくなりますね。
神仏に手を合わせる人が、「危ない宗教の人」だと決めつけられるような、世の中は辛いですね。


そもそも、「昔からこうしてきた」という時の「昔」って、日本仏教の歴史からすれば、それほど「昔」でもなかったりしますよね。
たとえ、一日であろうと、「昔」には戻れません。
「未来」はやって来続けています。
当たり前のことを申し上げて、すいません。


「社会は変わっても、人間の本質は変わらないんだよ」
というのは、極論という意味では正論ですが、本質でないところは、いくらでも変わります。


だいたい、私たち、人間の本質に届けていますか?



なぜ、ペットを成仏させてはいけないのだろうか?

2020-06-05 14:37:55 | 仏教講座
なぜだかわかりませんが、私が育った環境では、浄土真宗は、ペット供養をしてはいけない、という空気が支配していました。
「へえ、そういうものなんだ」
と、長い間、深く考えたこともありませんでしたが、ある時、所属していた大学の教授会で、ある教授が、私のことを、
「彼はペット供養をしているので、大事な仕事は任せられない」
というような発言をし、問題になったことがあります。
まったく身に覚えがなかったので、後に、その教授からは謝罪されました。
その頃はすでに、何も期待してはいなかったので、「はいはい」と、笑って済ませましたが、
「俺、頼まれれば、やる!」と、力強く思いました。


「坊さんは、頼まれたことは、ひとまず引き受けろ。引き受けてから、どう実行するかを考えろ。」
というのが、その当時からの私の信条で、今もそう教えているわけですよ。
「真宗はそんなことしないんです!」
という、よくあるスタイルに抵抗があるからです。
「塩をまくなんて、とんでもない!」
と、力んでもしょうがないでしょ?
塩がまきたいなら、まかせてあげればいいじゃないか。
そんな、どうでもいいことで、ガタガタ言うなよ。
と、思っています。


葬儀屋さんを細かいことで叱りつけてるお坊様も、たまに見かけます。
「なんか、ここの葬儀屋さん、私の顔色ばかり窺って気持ち悪いな」
と、思って、話を聞くと、そんな力む坊さんが多い土地柄だったりします。
良いお葬式にすることが、私たちの責任であるなら、葬儀屋さんとはチームですよね?
無暗に威張るのも、媚びるのも、間違いだと思います。


それはそうとして、信条もさることながら、考えてみました。
というか、なぜ、ペット供養がダメなのか?ということを、皆さんに聞いて歩きました。
真宗は人間も供養しない(という建前)ひとまず、脇に置いた話です。
先輩方の答は、概ね、
「動物は念仏できない」
「浄土に畜生はいない」
「動物は、一度人間に生まれ変わらないと成仏できない」
後は忘れましたが、似たり寄ったりだったと思います。
「アホか?」
という感想しかありませんでした。
どれも論理破綻しているからです。
浄土真宗の人が、「本覚思想」を毛嫌いする理由がわかったような気がしました。
本当は紙一重の違いしかない「天台思想」を、全否定したいのかもしれませんが・・・・・。


「この人たちは、理屈抜きに、人間が一番偉いと思ってる」
「人間がというよりは、自分たちが、かもね」
と、理解することにしました。


親鸞聖人の「諸仏」の位置付けは、簡単に言えば、
「人と阿弥陀如来とを結ぶ働きをするもの」
と、考えれば良いといます。
仏と縁を持たないものに、「仏縁」をもたらしてくださる方、それが「諸仏」ですね。
「ご先祖様」は、亡くなって、「成仏」された、その瞬間から、私たちと阿弥陀様を結ぼうと、一生懸命にお働きくださいます。
その働きが、ご先祖様が「仏」となられた証であると考るのです。


と、すれば、ですよ。
「ペットを供養したい」という思いを抱かせ、人を仏へと誘っておられる「亡きおペットさま」は、「諸仏」に他ならないのではないかと、私は思うのです。