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さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【人が生まれ変われない理由】メルマガ「サルブツ通信」再録

2020-06-14 22:40:06 | 仏教講座

お釈迦様は、「人は死んでも生まれ変わらない」ということを発見した。
というのが、前回のお話だったと思いますが、それでは、なぜ、人は生まれ変われないという答えを導き出されたのでしょうか?
それを考えてみたいと思います。


お釈迦様は、「縁起」という方程式によって、「我(常住不変)」は存在しえないこと(無我)、したがって、「生まれ変わる」という行為は主体不在によって成立しないという答えを導き出しました。
「縁起」とは、この世に存在するあらゆるものの存在を可能にする原理です。
この世界のすべてを存在させるシステムだと言ってもいいかもしれません。
お釈迦様は、このシステムを発見することによって、人は生まれ変わらないという回答を出し、覚るをことができました。
そういう意味では、お釈迦様の発見は、むしろ、この「縁起」という方程式の方であると言うべきかもしれません。
方程式を正しく利用する理性があれば、答えは自ずと出てくるものですから。


ところで、この「縁起」という概念についても、世の中はひどく混乱しているようです。
非常に難しくなっているというか、難しくしてしまっているというか、単純に考えれば良いのに、わざわざ情報量を増やして、難しく考えたい人が多いように思います。


お釈迦様は「縁起」と仰いました。
竜樹菩薩は「空」と仰いました。
親鸞聖人が何と仰ったは、確認が面倒なのでわかりませんが、真宗で使われる言葉で言えば、「おかげさま」ということで、よろしいのではないでしょうか。
ま、「おかげさま」は、論理を一つジャンプした姿ですけどね。
ついでに、「おかげさま」の論理が、もう一つ進めば「おたがいさま」になりますね。


いずれにせよ、「縁起」とは、難解な概念ではありません。
少し固い表現になりますが、
「すべての事象は、そのものの外部に原因を持つ」
それだけです。


そこから、
「単独で永遠に存在するもの(我)はない」
つまりは、「無我」説につながります。
「縁起」なるが故に「無我」ですね。
生まれ変わり(輪廻)の主体である「我」が無い。
ということは、生まれ変われないということですね。


明らかに、「輪廻」の否定です。


もちろん、御釈迦様は輪廻を肯定していたと考える人たちも大勢いるというか、多数派かもしれません。
しかし、「縁起」が「我」を否定する限り、一般的に考えられるような「生まれ変わり」は、論理的に成立しません。
「縁起」と「輪廻」は矛盾するのです。


ちなみに、「縁起」によって生まれたものは、やがて「縁起」によって、そのものではなくなり(人間なら死ぬことですね)、最終的に「縁起」そのものに還元されます。


その理屈を用いて、
「人は死んで縁起に還元されるが、その縁起によって、また人が生まれる。それが輪廻である。だから、お釈迦様は輪廻を肯定している。」
というようなことを、仰る方がいるようですが、詭弁ですね。
この手の議論は邪魔くさいので、記憶が定かではありませんが、あの手、この手で、輪廻をさせようと企てる人には、惑わされないようにしましょうね。


ただし、「縁起」は人間の認識範囲をはるかに超えて、無限に連鎖します。
だから、「縁起」は、あらゆる例外の存在可能性を容認します。
つまり、「縁起」は奇跡を起こすことがある。
と、覚えておいてください。
人が生まれ変わることもあるかもしれません。
でも、普遍則ではありません。
「奇跡」であって、「輪廻」ではありません。


次回は、「縁起」の無限連鎖について、お話します。
たぶん・・・・・・・・。

メルマガ「サルブツ通信0002」より

阿弥陀さん、ありがたいですか?

2020-06-13 13:52:44 | 仏教講座


いつも、ことあるごとに、誰かれ構わず聞きたくなるのですが、


「阿弥陀さん、ありがたいですか?」


いやいや、坊さんがしていい質問ではない、ということは十分に承知しておりますが、でも、気になりませんか?


正直に白状するとですね、私、坊さんになってから20年以上、「阿弥陀様がありがたい」とは、思えていなかったんですよ。


もちろん、その間でも、機会があれば、「阿弥陀さま、ありがたいですね。感謝しましょうね。」だとか言ってはいましたが、そもそも、そんな気持ちが無いものですから、かなり虚しく感じていました。


その問題に関して、簡単に、自分史を振り返ってみます。


まず、学生の頃は、阿弥陀さんと浄土真宗というものが、頭の中で結びついてすらいなかったので、そんな悩みを持つことは、微塵もありませんでした。
当然、浄土真宗は勉強し始めていましたから、「阿弥陀如来」という概念は知っていました。
知っている、あそこに立ってる、この絵がそうだ。
くらいの感覚ですね。


その頃は、『歎異抄』の解説書を読んで、「そうか!」と頷いたり、清沢満之先生の言葉に、「俺も、自己を問うぞ!」と、奮い立ったりしていました。
が、阿弥陀さんのことなど、考えたことも無かったような気がします。
にもかかわらず、浄土真宗の僧侶なんだという自覚はありましたから、何を考えてたんでしょうかねえ?
今となっては、見当もつきません。
曽我量人、金子大栄、安田理深などなど・・・・・・、読み漁りました。
宗門の方の物だけでなく、親鸞とついているものは、何でも読み漁りました。
阿弥陀さんに触れなくても、仲間内での教学談義でも困ることはありませんでした。


そもそも、阿弥陀如来って何?
と、阿弥陀様が気になりだしたのは、それから随分先のことです。
四十を前にして、大学院で学び直し始めてからのことです。
以来、そればっかりが気になり、一応、専門的に学んできました。
親鸞聖人一本で!


その結果、博士号もいただくことができ、理論的には、
「阿弥陀様はありがたい」
「阿弥陀様には感謝しなくてはならない」
という結論に、達することはできましたが、それは、あくまでも理論上の話であって、そこには、相も変わらず、「阿弥陀さんがありがたい」とは、これっぽっちも思っていない、そんな自分でした。


まあ、学者なので、理論のお話しができれば、それで困ることも無かったわけですが、
「坊さんとして、それで良いのか?」
という思いには、常時、苛まれていました。


「阿弥陀さん、ありがたいよねえ。お念仏しましょうね。」
と、作り笑いで語る自分が嫌でした。
とは言え、論理には自信を持っていたので、後ろめたさを感じることなく、堂々と演説することはできました。
でもね、だんだん、寂しく思えてくるんですねえ・・・・・。
そんな、阿弥陀様に愛されていない自分のことが・・・・・。


法話するのが苦痛でした。
苦痛でも仕事ですから、お話ししてましたけど。


そんな、悶々とした数年・・・・・・。
心から「ありがたい」と思えていたら、「話したくてたまらない」という気持ちになれるんだろうなあ。
などと、ルーティーンとしての法話を、ただただ消化する、私。


その時は、何の前触れもなく、突然やって来ました。
いつものように、本堂の前で手を合わせると、
「阿弥陀さん、ありがとう!」
という気持ちが、グワーッと込み上げてきました。
理由はわかりません。
「阿弥陀さん、ありがとう!」という高揚感で満たされました。


慌てて、本堂に走り込み、ご本尊の前に座り込む、私。
いつもと同じ阿弥陀様ですが、今度は、しみじみと、
「阿弥陀さん、ありがたいなあ・・・・・・」
という、ほっこりとした気持ちが湧き上がってきました。
理由はわかりません。


「あ、俺、死ぬんだ。お浄土、近いんだ。」
というのが、最初に頭に浮かんだことでした。


今のところ、まだ、生きています。
阿弥陀様、ありがたいです。
相変わらず理論で飯を食っていますが、理論なんて、どうでもよくなりました。
お聖教を焼いちゃった、一遍上人のお気持ちが、わかるような気がします。


「阿弥陀さん、ありがたいよねえ。お念仏しましょうね。」
と、本気で言えるようになりました。
それは、それで、気持ちが良いのですが、その代わりに、それ以外の話が、余分なことに思えてきました。


なので、法話をするのが苦痛です。
無駄に話を膨らませるのが苦痛です。
誰か、助けてください。



天は儚い。阿修羅化して畜生化する、餓鬼な私の地獄絵図。

2020-06-12 13:37:50 | 仏教講座
なんだか、つまらない話ばかりで、少しも楽しい話ができていませんね。
非常に反省しております。


でもね、楽しくない話ばっかり耳に入って来るんですよ。
というのは、大袈裟ですね。
非常に楽しいできごとも、毎日、たくさんあります。


どうも、私、楽しくない話の方に引っ張られる傾向があるようです。
阿修羅化!
そして、畜生化・・・・・。
楽しいことは、プワー!っと忘れて、地獄で唸る、私。


ささやかな幸せが、次から次へと積もり続けてくれているのに、どうでもいいことに心を動かされ、阿修羅化する、私。
実に、愚かです。


で、一つ、答えが出ました。
ファイナルアンサー・・・・・・?
か、どうかはわかりません。


私ね、詐欺と洗脳が嫌いです。
宗教界に蔓延る、「詐欺」と「洗脳」が、嫌いです。
女性に騙されるのは、嫌いではありません。
むしろ、「わかっていても、騙されてあげるのが大人の男の甲斐性なんだ」と洗脳されてもいます。


が・・・・・、しかし・・・・・、でもでも・・・・・。


信じてもいない神仏を、「信じろ」と言う詐欺師。
信じられるわけがないモノを、「信じられる」「信じられた」と洗脳する輩。
そんな、「詐欺」や「洗脳」を、「詐欺」だ「洗脳」だという自覚無しに、やってる人たち。
確信犯よりも質が悪いと思います。
もちろん、確信犯もいけませんよ。


一度、阿修羅化が始まると、被害者と言えばそうなんですが、詐欺師や洗脳者の歯牙に掛かり続けている「善良な人々」にも、矛先を向けたくなります。


もう、腹が立って、腹が立って、どうしようもありません。
まったくもって、愚かな「餓鬼」です、私。


きっと、みんな、私より、ずっと、大人なんですよね。
私もなりたい、笑って、騙されてあげられる大人に。



代償を期待することによって、仏教が逃げて逝くんだね。

2020-06-11 12:30:46 | 仏教講座
昨日からの続きになるのかもしれません。
いずれにせよ、ただの思い付きですから、垂れ流しをお詫びします。


修行をしない坊さんである、私たちの役割は、
「人に仏教をお伝えすること」
私の場合は、親鸞聖人にご恩がありますから、
「親鸞聖人を通じていただいた、お釈迦様の教えを、皆様にお伝えすること」
それだけですね。
それ以上でも、それ以下でもない、まさに、それだけ、です。


「お伝えする」ということが、非常に難しいことなので、「伝わるか」「伝わらないか」という問題は、ここでは無視して、仮に「伝えられる」とすれば、ということで話を勧めます。


個別のミッションとしては、
「教えを伝えることができた」
ら、そこで終了ですよね。
ミッション完遂です。


極めてシンプルです。
仏教を伝えるということは、伝えられた人は、幾分かでも、何かの呪縛から逃れられる可能性が学べたということですから、ともかく、何かから「解放」されるわけですよ。
だから、後は「面々の御はからい」というやつです。
自由です。
The「自由」。
ミッション「呪縛を断ち切り、野に解き放て」ですよ。


もちろん、仏教は道徳的なマインドも担保できていると思うので、そこにある「自由」は、「甘えた自由」ではなく、「理性の上に立つ自由」だと思います。


ところがですよ、私たち、そんなシンプルなミッションの向こう側を期待して、ミッションそのものをグチャグチャにしてしまっているんんですね。


「仏教を伝える」の先にあるもの。
「信者にする」「お金を落としてもらう」「信者を増やしてもらう」「お金を落とし続けてもらう」
と、いうようなことですね。
「自由」を手に入れるためのツールを渡して、「自由」を奪いたい、と、思ってしまうのです。


「そうは言うけど、俺たちにも生活がある」
というのは、別の問題です。
混同できる余地もありません。


「仏教が伝えられるなら、それで良し!」
せめて、その境地を目指したいと思います。


いや、私、強欲だから、無理だ・・・・。



仏教は人間を解放するという意味で珍しい宗教だと思うが・・・。

2020-06-10 17:42:06 | 仏教講座
宗門であるとか、宗派であるとか、坊さん同士の「おつきあい」であるとか、そういうことを考えるのを一切やめようと思い立ち、そこそこ時間が経過しました。
相変わらず、「で、自分はどうしたいの?」ということは見えてきませんが、さして考えてもいないので、仕方ありません。
案外、「このまま消えてしまいたい」というのが、本音なのかもしれません。


しかし、まあ、しがらみを離れてみて、良く見えるようになったことも、たくさんあります。
例えば、「教学」というものが、いかに教団というものに都合良く組み立てられているのか、ということは、理解していたつもりでいましたが、様々に遠慮したというか、忖度したところで考えていたんだなあ、と、つくづく思ったりしています。


逆に、今、困っているのが、「良い坊さん」というのが、どんな坊さんなのかがわからなくなってきていることです。
これまで、「良い坊さんになれ」と言い、「良い坊さんになって欲しい」と願い、自分なりに頑張って、坊さんの教育というものにあたってきたわけですが、それが、わからなくなりました。


「良い坊さん」という言葉は、どっちを向いて言っているのか?ということですね。
セクトにとって「良い坊さん」なのか、各自の寺にとっての「良い坊さん」なのか、門徒にとってなのか、門徒も含めて一般の人にとってなのか、それとも、社会にとっての「良い坊さん」なのか?


少なくとも、一般の方にとっての「良い坊さんになれ」と、言ってきた自覚はあるのですが、それにせよ、上に立つ自分にとって都合の良い、使い易い坊さんになって欲しいという思いも、あったのかもしれません。


今のところは、坊さんどうこうはさておき、「お釈迦様からつながる親鸞聖人の教え」を理解してもらえれば、「後のことは、それぞれ自分で考えてくれ」という、無責任な立場で、ものを言っております。


そんなこんな考えているうちに、ふと思ったのですが、仏教というのは、「人間を縛らない」という意味で、珍しい宗教です。
「縛らない」どころか、むしろ、縛られている人間を「解放する」方向に機能するのが、仏教なんじゃないでしょうか?


お釈迦様は、輪廻だ、カーストだという社会構造的な縛りから、成仏によって人々を開放して下さったわけですし、親鸞聖人や、そのあたりの先輩方は、上流階級や富裕層が独占していた仏教を、下々の人々へと開放して下さったわけですよね。


今、日本の仏教はどうですか?
人を縛ろう縛ろうという流れのままではないですか?
一人でも多くの人間の首に紐をかけて、自陣に引き込もう、自陣に縛り付けておこう、そんな圧力を感じませんか?


檀家で縛り、ご先祖様で縛り、お墓で縛り、骨で縛り、結局、人を縛ることで、生き永らえようとしてるのでは、ありませんか?
そんな中で、「縛られるかもしれない」という疑念が生まれ、それが人々を仏教から遠ざける要因の一つになっているのだとも感じます。


それでは、仏教という教えの良さ、つまり、「自由」がスポイルされてしまうのではないかと、思うのです。
キリスト教やイスラム教の神様などは、神が人間を縛ることによって、人間を解放します。
だから、人間を縛るのは前提です。
しかし、仏教は、人を解放する方向でしか機能しません。
人間を自由にするのが仏教です。


セクトである限り、構成員を縛ることは止められないのかもしれませんが。