坊さんに、坊さんであることを忘れろというのも、おかしな話だと思います。
本質論をすれば、「坊さん」であることなど、忘れられっぱなし、だとも言えますし。
常に忘れていたり、忘れる以前に、覚えたことすらない方には、どんな風に表現しても、まず伝わらないとも思います。
「坊さん」が社会的存在であるとするならば、「坊さん」であることを忘れて、「坊さん」でない視点から考えてみないと、「坊さん」について考えることはできないじゃないですか?
そこに立てなければ、今以上に、社会から孤立する、というか、社会から取り残されてしまうのではありませんか?
徳川幕府の遺産で、これまで食い繋げてしまったことって、驚くべき幸運であって、当たり前のことではありませんよね?
葬儀にしろ、法事にしろ、日本人という優しい人たちが、恐ろしく他人の目を気にするという特質を持っていたから、
「なんとなく、おかしいと思うけれど、それでも、みんながやってるし、しないと何を言われるかわからないから」
と、続けられてきたということは、否めませんよね?
そんな側面があるということに、無頓着でいられるのは、
「昔からこうしてきた」
と、「坊さん」に拘泥しているからではありませんか?
もう、ずっと、言い続けてきましたが、「坊さん」が、どんな目で見られているのかということを、ベースにして、物事を考えなければ、当たり前ですが、滅びます。
教団が滅びるのも、お寺が滅びるのも、坊さんがいなくなるのも、別に、何とも思いませんが、「仏教」という教えが滅びてしまうのは、寂しいですね。
それも、誤解されたままの姿で・・・・・・。
神仏に手を合わせる人の姿が見られなくなったら、引っ越ししたくなりますね。
神仏に手を合わせる人が、「危ない宗教の人」だと決めつけられるような、世の中は辛いですね。
そもそも、「昔からこうしてきた」という時の「昔」って、日本仏教の歴史からすれば、それほど「昔」でもなかったりしますよね。
たとえ、一日であろうと、「昔」には戻れません。
「未来」はやって来続けています。
当たり前のことを申し上げて、すいません。
「社会は変わっても、人間の本質は変わらないんだよ」
というのは、極論という意味では正論ですが、本質でないところは、いくらでも変わります。
だいたい、私たち、人間の本質に届けていますか?
本質論をすれば、「坊さん」であることなど、忘れられっぱなし、だとも言えますし。
常に忘れていたり、忘れる以前に、覚えたことすらない方には、どんな風に表現しても、まず伝わらないとも思います。
「坊さん」が社会的存在であるとするならば、「坊さん」であることを忘れて、「坊さん」でない視点から考えてみないと、「坊さん」について考えることはできないじゃないですか?
そこに立てなければ、今以上に、社会から孤立する、というか、社会から取り残されてしまうのではありませんか?
徳川幕府の遺産で、これまで食い繋げてしまったことって、驚くべき幸運であって、当たり前のことではありませんよね?
葬儀にしろ、法事にしろ、日本人という優しい人たちが、恐ろしく他人の目を気にするという特質を持っていたから、
「なんとなく、おかしいと思うけれど、それでも、みんながやってるし、しないと何を言われるかわからないから」
と、続けられてきたということは、否めませんよね?
そんな側面があるということに、無頓着でいられるのは、
「昔からこうしてきた」
と、「坊さん」に拘泥しているからではありませんか?
もう、ずっと、言い続けてきましたが、「坊さん」が、どんな目で見られているのかということを、ベースにして、物事を考えなければ、当たり前ですが、滅びます。
教団が滅びるのも、お寺が滅びるのも、坊さんがいなくなるのも、別に、何とも思いませんが、「仏教」という教えが滅びてしまうのは、寂しいですね。
それも、誤解されたままの姿で・・・・・・。
神仏に手を合わせる人の姿が見られなくなったら、引っ越ししたくなりますね。
神仏に手を合わせる人が、「危ない宗教の人」だと決めつけられるような、世の中は辛いですね。
そもそも、「昔からこうしてきた」という時の「昔」って、日本仏教の歴史からすれば、それほど「昔」でもなかったりしますよね。
たとえ、一日であろうと、「昔」には戻れません。
「未来」はやって来続けています。
当たり前のことを申し上げて、すいません。
「社会は変わっても、人間の本質は変わらないんだよ」
というのは、極論という意味では正論ですが、本質でないところは、いくらでも変わります。
だいたい、私たち、人間の本質に届けていますか?