8の字描いて転がって

くりかえすことのここちよさとつまらなさ

書くことの意味について

2023-03-14 17:48:41 | 小さき声
このブログを書き始めて気がつけば10年。
そりゃあそうだ、赤子だった息子も10歳。
しっかりと年月を積み重ねている。
もちろん書く気持ちと時間の余裕もなく
ほとんど書けずにいた時もあったけれど
もういいや、やめようと思ったことは一度もなく
のらりくらりとここまで来た。

誰かが読んでいるわけでもなく
誰かのお役に立てているわけでもなく。
なぜ自分はこのブログをつづけているのだろう。
少し思いをめぐらせてみると、つまりは
ただひたすら自分に向けて書いているのだった。
起こった出来事、出会った人たち、
その瞬間ことばにすることができなかった想いや
なにもかもを何ひとつ忘れないために。

書くことで自分が救われている。
そうとしか言いようがない。

この雑文を読むことで世界中のどこかに
もしかしたらいるかもしれない
わたしのような人が
ほんのつかのまでも
ほぉっと息をつくことができたらなら
これ以上のよろこびはない、と思う。

孤独なサウスポーNo.2

2022-07-08 11:31:19 | 小さき声
5月に小学校で行われた運動会で、
息子の学年は沖縄の伝統芸能であるエイサーを踊った。
プラスチック製の小さな太鼓とバチを持ち、
大きな音をたてて太鼓をたたきながら踊る姿はとても凛々しく
たくましく成長したなあとしみじみ涙がこぼれそうになったのだけれど、
ふと気になることがひとつ、あった。

130名ほどの子どもたちが当たり前に同じ動きをしていた。
全員右手にバチ、左手に太鼓を持って。

ウチの息子は左利きだ。
お箸もボール投げも習字もすべてにおいて左利き。
太鼓たたきづらくないだろうか?

帰ってきた息子に聞いてみた。
「たたきにくいよ」
なにを今さら、と言ったふうに答える息子。
「右手だから全然力が入らないし、やりづらい。
練習の時うまくたたけなくてバチを落としちゃったんだけど
先生に力を入れてしっかり持ってないからだって怒られたし」
ああ、そんなことがあったのか。
右利きの私は全然気付いてあげられなかった。
おのれの鈍感さに心底あきれた。

先生たちはきっと全員右利きだったのだろう。
クラスに1人か2人しかいない左利きの子たちの
やりづらさを想像することもきっとなかっただろう。
「先生に怒られた時、ぼくは左利きですって言った?」
「べつに言ってないし、言うつもりもない。
それにやってるうちに右でたたくのに慣れたから」

ああ、こうやって少数派の声は知らないうちにかき消されてしまうのだ。
あらかじめやり易い方法を提示されている人たちがいる一方で
やりづらさを工夫して乗り越えている人たちがいて。
なんとも言えないモヤモヤが胸の中いっぱいに広がった。

みんなで一つのことに取り組む中で、普通、スタンダート、
そのど真ん中から外れてしまった人たちは
生きづらさを抱えて生きていくしかないのだろうか。
普通に近づけるように努力するしかないのだろうか。
時に理不尽な叱責を受けながら。
そうじゃないだろう。
それでいいはずがない。
だけどどうすればいいのだろう。
解決策が見つからない。

せめてその人たちのつらさを分かろうとする姿勢を
多数派の人たちが見せることができたなら。
わたしのつらさを本当には理解してはもらえない
かもしれないけれど、わかりたいと思ってくれて
いる人がいる。
それだけでも救われるのではないだろうか。

ならばどれだけ小さな声でもいいから
伝えていくことが必要ではないか。
そんな想いを運動会のアンケート用紙に
思い切って書いた。

自分の中にある普通を疑うこと。
小さな声に耳をそばだてること。
他者への想像力を持ちつづけること。
忘れないように自分自身にも向けて書く。