塩田明彦監督の映画「害虫」を初めて観たのはシネリーブル神戸という劇場で、奇しくもその
日が最終上映日。館内は私を含め2,3人しか客がおらず、なんとも広々した空間でひとりふつ
ふつ熱くなりながら画面を凝視したことを今でも覚えている。
映画における演出とは何か。
そのことを初めて意識したのは、もしかしたらこの作品で、かもしれない。
主人公サチはほとんど言葉を発しないのだけれど、ある日教室で同級生の男子に、小学校時代
の担任教師との関係を問われる。その時、サチはどう行動したか。
黙って、机を引きずり、大きな不協和音をたてる。ただそれだけ。
それだけなのだけれど、その瞬間のサチの怒りと悲しみが観客には痛いくらいに伝わってくる
のだ。自分にとっての雑音を、分断する強いエネルギーの放出の瞬間。カットも割らず、過剰
な台詞もない。
映画は、車の中でサチが「なんでもない」と呟いて唐突に終わる。
エンドロールが流れる中、サチの鼻歌だけが微かに聴こえる。
楽しいのか、悲しいのか。泣いてるのか、笑ってるのか。
彼女の行く末はハッピーエンドか、デッドエンドか。
分からない。分からないけれど、観ている側は暗い気持ちにならなくてむしろ爽快感さえ漂って
くるから不思議だ。それはきっと、乾いた演出のせい。
なぜ急にそんなことを思い出したのかというと塩田監督の「映画術ーその演出はなぜ心をつかむ
のか」を読んだからだ。
まだまだ人生は長い。
これでいい、自分はこれでいいんだ、なんて限界を決めて自分の見たいものしか見ないなんてこ
とはやめよう。もっともっとあらゆることに目を開いてゆかねばと、強く思わされる一冊だった。
感情を上手く表現できる人ばかりじゃない。
不器用な人の方がむしろ多くて、だからみんな悩んでうろたえて。
映画を観て救われた気分になるのは、こんなふうに複雑な人間がきちんと描かれているせいにち
がいない。
日が最終上映日。館内は私を含め2,3人しか客がおらず、なんとも広々した空間でひとりふつ
ふつ熱くなりながら画面を凝視したことを今でも覚えている。
映画における演出とは何か。
そのことを初めて意識したのは、もしかしたらこの作品で、かもしれない。
主人公サチはほとんど言葉を発しないのだけれど、ある日教室で同級生の男子に、小学校時代
の担任教師との関係を問われる。その時、サチはどう行動したか。
黙って、机を引きずり、大きな不協和音をたてる。ただそれだけ。
それだけなのだけれど、その瞬間のサチの怒りと悲しみが観客には痛いくらいに伝わってくる
のだ。自分にとっての雑音を、分断する強いエネルギーの放出の瞬間。カットも割らず、過剰
な台詞もない。
映画は、車の中でサチが「なんでもない」と呟いて唐突に終わる。
エンドロールが流れる中、サチの鼻歌だけが微かに聴こえる。
楽しいのか、悲しいのか。泣いてるのか、笑ってるのか。
彼女の行く末はハッピーエンドか、デッドエンドか。
分からない。分からないけれど、観ている側は暗い気持ちにならなくてむしろ爽快感さえ漂って
くるから不思議だ。それはきっと、乾いた演出のせい。
なぜ急にそんなことを思い出したのかというと塩田監督の「映画術ーその演出はなぜ心をつかむ
のか」を読んだからだ。
まだまだ人生は長い。
これでいい、自分はこれでいいんだ、なんて限界を決めて自分の見たいものしか見ないなんてこ
とはやめよう。もっともっとあらゆることに目を開いてゆかねばと、強く思わされる一冊だった。
感情を上手く表現できる人ばかりじゃない。
不器用な人の方がむしろ多くて、だからみんな悩んでうろたえて。
映画を観て救われた気分になるのは、こんなふうに複雑な人間がきちんと描かれているせいにち
がいない。