禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

人間の限界!不可能の三文字をこれは特と拝見出来た関裕二君の著書(京都の闇)

2019-06-17 16:25:31 | 歴史
「京都の闇」(関裕二)の中で、最初この本のタイトル通り筆者が(自分に)言う、京都の闇を探ろうとするとき、第一章では’雅な京都は以下にして誕生したか?’とし、関君なりの持論を展開する。僕が言うのだが、ヤマトが王座を取り、それで日本を運営していくとき、この関君も言う
’何故、ヤマト(奈良)そして山城(京都)の地が選ばれるのか?’
と言う、(これは)難題に対し、まああまり突っ込んでこの問いには答えていないかもしれないが、東西日本の中心的な意味合いで、ヤマト政権がまずはその皮切りに、奈良の大地を選んだのだ!とする言い方が当たっているのだろう。もしかすると、もう一歩踏み込んだ見方も持っているかもしれないが、ここでは(答えは出せず)東西日本の要(中心)的な意味合いで奈良の地にヤマト王権が誕生しているとする見方が有力なのであろう。

ヤマト王権が、ヤマト(奈良)の大地に王権を築くのは些か難しく、もっと前にその天皇家としてのルーツまで遡るような作業が必要かもしれない。流石に、そんな天皇家のルーツ(古事記等以前)を探るのはほとほと難しく、僕はとある自らが持っている知見から、まあ先は京の地にあるけれども、その京の地(ここがわからない。天皇家が自身の地盤を京の地に築く所以だ!)が、この天皇家にゆかりを持っていると言う理屈である。
流石に書かないが、どうしても天皇家が最初に決する土地と言うのは、正に京都の地の下に位置する奈良の地、ここが始まりになるのは否めないわけだ!(こんなのは一般のものには当然分かりっこない)

まあ最初に、奈良の地が選ばれる訳と言うのは流石に常識外となり、うーん上の最初の設問はちょっとオーバーな設問をしたと度外視すると、この関君が言う一章のタイトル通り’雅な京都は以下にして誕生したか?’と言う問いは、僕からすれば、奈良から京都への都の遷都は、これもまあ普段一般民が考えるに常用外の語句を使用しているようなものであり、やはりここも、その奈良から京都の遷都に関してはその理解はほとほと見送った方が賢明とも言える・・。流石に、キーワードらしきものも含まれているが奈良時代と平安時代を見比べ、その相違を明らかにするような極意は持たない方が良いとも言えるかも知れない・・。(人間離れ)

とある一事象によって、都は奈良から京都の地へと移されるわけだが、この物事の本質を抉るような僕が掲げる奈良から京都への遷都が理解不能なとき、あるいはその理解不能の常識が、見ることも出来得ないとき、この関君はその遷都の理由として、(桓武天皇が都を京都に移すのは)

理由:人の恨み

と、こう合って来るわけである・・・。(やはり!)

いやー、流石に勉強家の関君と言えどこの(日本史実での)奈良から京都への本質を抉るような’常識’は、得てして解けない難問にぶつかっていて、世にある例えば人がジャンプしておおよそお空に高く見えているお月様に手の平タッチ!と、触って笑い転げるようなもので、いや人間様にとっては’出来ないこともあるよー!’と匙を投げる、根も葉もない話しにぶつかるものと同じである!(わかるか?)まあ、ここまでとするが、関君はいや実は決して解けない問い(あはは)これに実は挑戦しているも同じなわけだ!

関君は、まあ奈良の治世に藤原氏が権力を握り、他族から恨まれ地位を築いていたと言うことに要点をぶつけ、その恨みの地(祟り)を一刻も早く捨てたいと言う思いから、平城の地を離れ平安の地へと都を移したのだ!と言う。まあくどくど言っても仕方がないが、ただ物事には限界があってやはり関君もこれにはほとほと参り、降参の一手を上げるべく、ここはさっさと退散が要なのだ!(藤原への怨念くらいの理解が精一杯)桓武天皇が、東国に怯え、ヤマトの地に要塞を築くとき、同時に西側からの侵攻もうまく撥ね付けられる、と言うヤマトの地建国論も、僕からすると関君の頭の理解をフル回転しても出せない難問に挑戦していて、諦めも肝心!と、そう言いたくなる。あはは、くどくど言っても仕方がないと、書いたのに、また書いてしまっているので、これくらいにしておくが、いやはや、関君(ら)が言う
:天皇って何?
この問いを解くために、関君がまず捻り出そうとする難問’雅な京都は以下にして誕生したか?’と言う難問は、ここいらで店仕舞いだ!

いやー、人間には出来兼ねることもある。間違って入り込んでしまうといや危ない目にあうこともしばしばだろう!いやはや、歴史家がそれは多重に言う’天皇って何?’この答えは、大多数の人々にとって御蔵入り!とする案件なのだ!!


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