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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 175 飛蓬-82 小倉百人一首:(春道列樹)山川に 

2020-11-02 14:27:34 | 漢詩を読む
(32番) 山川(ヤマガワ)に 風のかけたる しがらみは
      流れもあへぬ 紅葉なりけり 
         春道列樹(ハルミチノツラキ) 『古今和歌集』 秋下 303

<訳> 山の中の小川に風が掛けた流れ止めの柵(シガラミ)は、あれは何かとよく見ると、流れようとしても流れきれないで集まっている紅葉だったのだ。

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晩秋の季節でしょう。物詣ででしょうか。志賀越道(シガゴエドウ)をいく道すがら道脇の小川に色鮮やかな柵に気を止めます。風が吹き集めたもみじ葉だったのだ と。頭上でそよ風に揺れる紅葉と、川中で木漏れ日に映える紅葉の美しい柵と、美しい情景です。

作者・春道列樹は、“無名の”作者と評されるほどの歌人で、残された歌もごく少ない。百人一首に取り上げられてその名が知れ渡ったようです。ただ上の歌で納得いくように美しい歌を残しています。藤原定家の鑑識眼も讃えるべきか と。

爽やかな微風が吹き渡る山道、木漏れの秋の日差しが道脇の小川に揺れながら降り注いでいる。流れのさざ波はキラキラと光を反射し、散り敷いた紅葉は彩り鮮やかに綾を成している。このような情景を想像しつつ、漢詩を書き起こしました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>   [下平声一先韻]
 越過山嶺時詠  山嶺を越えし時に詠む 
透樹条隙陽光到,樹の条(エダ)の隙(スキマ)を透して陽光 到る,
蒨蒨映発溪澗辺。蒨蒨(センセン)として映発(エイハツ)す溪澗(ケイカン)の辺(ホト)り。
一看風所設成堰,一看(イッカン) 風の設け成したる所の堰(シガラミ)かと,
流不過去楓葉纏。流れ去ることのできぬ楓葉の纏(マト)まりなのだ。
 註]
  越過山嶺:山越え。比叡山地を横切って、京都から志賀(現大津)に
   抜ける「志賀越道(ゴエドウ)」を通ること。
  蒨蒨:あざやかに。     映発:山水の風光が照り映えあう。
  溪澗:谷川、渓流、和歌中の山川。  一看:一見したところ。
  風所設:「風が掛ける」の意で、 “風”を擬人化している。
  流不過去:流れ切っていくことができない。
 
<現代語訳>
 志賀越道(シガゴエドウ) 山越えの折に詠む
木漏れ日の光りがさして、
谷川のあたりがあざやかに照り映えている。
一見したところ、風が掛けた堰(シガラミ)か と思われたが,
流れ切ることのできなかった紅葉が纏まったものであった。

<簡体字およびピンイン>
 越过山岭时咏 Yuèguò shānlǐng shí yǒng 
透树条隙阳光到, Tòu shù tiáo xì yángguāng dào,
蒨蒨映发溪涧边。 qiàn qiàn yìngfā xījiàn biān.
一看风所设成堰, Yī kàn fēng suǒ shè chéng yàn,
流不过去枫叶缠。 liú bù guò qù fēngyè chán.
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作者・春道列樹の生年は不詳で、経歴はほとんどわかっていない。父は主税頭 新名宿禰(ニイナノスクネ)、40代天武天皇(?~686;在位673~686)が設けた“八色(ヤクサ)の姓(カバネ)”の位でいえば、宿禰は上から三番目の身分に当たる。

列樹は文章生(モンジョウショウ)=大学寮で文章を専攻し学ぶ学生=であった。壱岐守に任命されたが、着任する前に没している(920)。遺された歌も少なく、勅撰和歌集に入集された歌はわずか5首のみという。

いわゆる当時“有名な”歌人との評価は受けていなかったでしょう。数少ない歌数ながら、百人一首の撰者・藤原定家の評価に耐え、今日我々も鑑賞する機会が得られた。定家の鑑識眼も讃えたいと思います。

上の歌は、『古今集』中、「志賀の山越えにて詠める」という詞書がある。“志賀”は現在の滋賀県である。京都東山の銀閣寺の北から東に向けて山を登り、比叡山と如意岳の間を抜け、近江国の大津に達する山道で、「志賀越道」と言われていた と。

この峠道の途中、天智天皇の創建になるとされる崇福寺(スウフクジ)があり、平安時代初期までは多くの参詣客で賑わっていたという。この道の往来の模様は多くの歌に詠まれているようである。但し現在は、同寺はなく、寺跡に礎石が残っているだけである と。

列樹がこの山越え道を行った目的は分からない。今様にいえば、同道は“観光スポット”で、紅葉狩りの一押しの場所であったのではないでしょうか。なお、漢詩の詩題は歌の詞書を借用し、また晩秋の美しい情景を想像しつゝ漢詩化を進めた。

列樹の歌、別のもう一首を読みます。弓をグッと引くと、弓の両端が自分に「寄る」、愛しい人が「寄る」、「夜」と 掛詞の技法がふんだんに用いられています。しかし難しい理屈を語らずとも、素直に歌の心が読めます、片思いの歌のようですが。

梓弓(アズサユミ) ひけばもとすえ わがかたに
   よるこそまされ 恋のこころは (『古今和歌集』恋 春道列樹)
  [梓弓を引くと 弓の本と末が わたしに寄ってくるが あの人は寄って
  きてくれず 夜になると恋心は募るばかりだ]。(小倉山荘氏)
   
コメント
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