80番 ながからむ 心も知らず 黒髪の
乱れてけさは ものをこそ思へ
待賢門院堀河(『千載和歌集』恋三・802)
<訳> あなたが変わらぬ愛を誓ってくださっても、その心が本当かどうかは私にはわかりません。あなたとお別れした今朝、黒髪が乱れているように、心も千々に乱れ、物思いに沈んでいます。(板野博行)
oooooooooooooo
「貴男は、“私への愛は長しえに変わりませんよ”と仰せられたが、先は計り知れず、今朝の乱れた黒髪のように心乱れる私です」と。すでに出家し、世を捨てた筈の女性が、一夜を共にしたその朝相手に贈った返歌です。百人一首中最も官能的な恋の歌である。
作者は、その生没年は不詳、平安時代後期の歌人で、74代鳥羽天皇(在位1107~1123)の中宮・待賢門院藤原璋子(ショウシ/タマコ)に仕え、堀河と呼ばれていた。主人・璋子が仏門に入ったのを機に、追って出家されている。父は神祇伯・源顕仲(アキナカ、1058~1138)。
一夜を共にしたその朝を衣衣(キヌギヌ)または後朝(コウチョウ/ゴチョウ)と言い、男は帰宅後に歌を贈り、女はそれに対する返歌を贈るという雅な慣習があった と。七言絶句の漢詩としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
衣衣以后给他回信 衣衣(キヌギヌ)以後 他(カレ)への回信(カイシン)
君剛起誓永恒愛, 君 永恒(エイコウ)の愛を起誓(チカッ)た剛(バカリ)ながら,
難以預測正真情。 正(マサ)に真情(シンジョウ)は預測し難し。
鏡子里見乱黑発, 鏡の里(ウチ)に乱れている黑髪を見るにつけ,
千頭万緒天未明。 天 未だ明(ア)けず千頭(セントウ)万緒(マンショ)にあり。
註]
衣衣:衣を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝別れるときそれぞれ自分の衣を
身に着けることから言う。
難以預測:予測しがたい。 真情:本心。
千頭万緒:考えが入り乱れているさま。
<現代語訳>
後朝の歌への返信
末永く永久に変わらぬ愛と、あなたは誓ったばかりですが、
真情がこの先いつまで続くかは 測りかねます。
鏡に映った黒髪の乱れを見るにつけても、
まだ明けやらぬ朝まだき、乱れ髪のごとく千々に心が乱れているのです。
<簡体字およびピンイン>
衣衣以后给他回信 Yī yī yǐhòu gěi tā huíxìn
君刚起誓永恒爱, Jūn gāng qǐshì yǒnghéng ài,
难以预测正真情。 nányǐ yùcè zhèng zhēnqíng.
镜子里见乱黑发, Jìngzi lǐ jiàn luàn hēi fǎ,
千头万绪天未明。 qiān tóu wàn xù tiān wèi míng.
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待賢門院堀河は、神祇伯・源顕仲の娘。若いころ72代白河天皇(在位1072~1086)の皇女・令子(レイシ)内親王に仕えていた。当時、皇女が賀茂神社の斎院(サイイン)を勤めていたことから、当時、堀河は“前斎院六条(サキノサイインロクジョウ)”と呼ばれていた。
のちに待賢門院藤原璋子に仕え、堀河と呼ばれるようになった。因みに“斎院”とは、上・下両賀茂神社で祭祀を行う未婚の内親王を言う。参考までに、伊勢神宮では“斎宮”と称され、両者合わせて“斎王(斎皇女)”と称するようである。
璋子は、74代鳥羽帝の皇后であり、75代崇徳帝(在位1123~1141、百人一首77番、閑話休題159)の母親である。色香漂う美女・璋子は、当初、鳥羽帝の祖父・白河帝と親しく、その関係は鳥羽帝の皇后となった後も公然と続いていた と。
白河帝‐璋子-鳥羽帝の三角関係と崇徳帝の出生の疑惑、武士の台頭を表す“保元の乱”の発生……、と。当時は、乱れた世の歴史的転換の予兆の時代と言えるのではなかろうか。その詳細は閑話休題158 & 159で記しました。ご参照ください。
待賢門院堀河は、女房名が堀河に変わったその頃に結婚し、一子を設けている。子供が未だ幼いころに夫とは死別した。子供は自分の実家・顕仲のもとに預けて養育したようである。
1142年、仕えていた璋子が仏門に入ると、堀河も同僚の女房達とともに出家します。しかし璋子は3年後に亡くなります。西行(同86、閑話休題114)の『山家集』などに収められた歌の遣り取りから、出家した堀河はしばらく西行と歌の交流があったことが知られる。
崇徳院は14名の歌人を選び百首の歌を詠進させ、1150年(久安六年)『久安百首』の編纂を藤原俊成(同83番、閑話休題155)に命じた。堀河も詠者の一人に撰ばれて同集に歌を残している。定家によって百人一首に採られた上掲の“ながからむ”の歌は、そのうちの一首である。
すなわち“ながからむ”の歌は、出家後、“黒髪”も失われたであろう頃の堀河の作であり、また題詠である事から現実の歌ではないと想定される。俗世で、また出家後と世の酸い・甘いを知り尽くし、人間的に枯れた(?) 達人の域にある歌人なればこそ、実感のこもった後朝の歌を詠めたのではなかろうか と愚行する次第である。
待賢門院堀河は、女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人に選ばれており、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に多くの歌が入集されている。私家集『待賢門院堀河集』があり、165首収められている。
乱れてけさは ものをこそ思へ
待賢門院堀河(『千載和歌集』恋三・802)
<訳> あなたが変わらぬ愛を誓ってくださっても、その心が本当かどうかは私にはわかりません。あなたとお別れした今朝、黒髪が乱れているように、心も千々に乱れ、物思いに沈んでいます。(板野博行)
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「貴男は、“私への愛は長しえに変わりませんよ”と仰せられたが、先は計り知れず、今朝の乱れた黒髪のように心乱れる私です」と。すでに出家し、世を捨てた筈の女性が、一夜を共にしたその朝相手に贈った返歌です。百人一首中最も官能的な恋の歌である。
作者は、その生没年は不詳、平安時代後期の歌人で、74代鳥羽天皇(在位1107~1123)の中宮・待賢門院藤原璋子(ショウシ/タマコ)に仕え、堀河と呼ばれていた。主人・璋子が仏門に入ったのを機に、追って出家されている。父は神祇伯・源顕仲(アキナカ、1058~1138)。
一夜を共にしたその朝を衣衣(キヌギヌ)または後朝(コウチョウ/ゴチョウ)と言い、男は帰宅後に歌を贈り、女はそれに対する返歌を贈るという雅な慣習があった と。七言絶句の漢詩としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
衣衣以后给他回信 衣衣(キヌギヌ)以後 他(カレ)への回信(カイシン)
君剛起誓永恒愛, 君 永恒(エイコウ)の愛を起誓(チカッ)た剛(バカリ)ながら,
難以預測正真情。 正(マサ)に真情(シンジョウ)は預測し難し。
鏡子里見乱黑発, 鏡の里(ウチ)に乱れている黑髪を見るにつけ,
千頭万緒天未明。 天 未だ明(ア)けず千頭(セントウ)万緒(マンショ)にあり。
註]
衣衣:衣を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝別れるときそれぞれ自分の衣を
身に着けることから言う。
難以預測:予測しがたい。 真情:本心。
千頭万緒:考えが入り乱れているさま。
<現代語訳>
後朝の歌への返信
末永く永久に変わらぬ愛と、あなたは誓ったばかりですが、
真情がこの先いつまで続くかは 測りかねます。
鏡に映った黒髪の乱れを見るにつけても、
まだ明けやらぬ朝まだき、乱れ髪のごとく千々に心が乱れているのです。
<簡体字およびピンイン>
衣衣以后给他回信 Yī yī yǐhòu gěi tā huíxìn
君刚起誓永恒爱, Jūn gāng qǐshì yǒnghéng ài,
难以预测正真情。 nányǐ yùcè zhèng zhēnqíng.
镜子里见乱黑发, Jìngzi lǐ jiàn luàn hēi fǎ,
千头万绪天未明。 qiān tóu wàn xù tiān wèi míng.
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待賢門院堀河は、神祇伯・源顕仲の娘。若いころ72代白河天皇(在位1072~1086)の皇女・令子(レイシ)内親王に仕えていた。当時、皇女が賀茂神社の斎院(サイイン)を勤めていたことから、当時、堀河は“前斎院六条(サキノサイインロクジョウ)”と呼ばれていた。
のちに待賢門院藤原璋子に仕え、堀河と呼ばれるようになった。因みに“斎院”とは、上・下両賀茂神社で祭祀を行う未婚の内親王を言う。参考までに、伊勢神宮では“斎宮”と称され、両者合わせて“斎王(斎皇女)”と称するようである。
璋子は、74代鳥羽帝の皇后であり、75代崇徳帝(在位1123~1141、百人一首77番、閑話休題159)の母親である。色香漂う美女・璋子は、当初、鳥羽帝の祖父・白河帝と親しく、その関係は鳥羽帝の皇后となった後も公然と続いていた と。
白河帝‐璋子-鳥羽帝の三角関係と崇徳帝の出生の疑惑、武士の台頭を表す“保元の乱”の発生……、と。当時は、乱れた世の歴史的転換の予兆の時代と言えるのではなかろうか。その詳細は閑話休題158 & 159で記しました。ご参照ください。
待賢門院堀河は、女房名が堀河に変わったその頃に結婚し、一子を設けている。子供が未だ幼いころに夫とは死別した。子供は自分の実家・顕仲のもとに預けて養育したようである。
1142年、仕えていた璋子が仏門に入ると、堀河も同僚の女房達とともに出家します。しかし璋子は3年後に亡くなります。西行(同86、閑話休題114)の『山家集』などに収められた歌の遣り取りから、出家した堀河はしばらく西行と歌の交流があったことが知られる。
崇徳院は14名の歌人を選び百首の歌を詠進させ、1150年(久安六年)『久安百首』の編纂を藤原俊成(同83番、閑話休題155)に命じた。堀河も詠者の一人に撰ばれて同集に歌を残している。定家によって百人一首に採られた上掲の“ながからむ”の歌は、そのうちの一首である。
すなわち“ながからむ”の歌は、出家後、“黒髪”も失われたであろう頃の堀河の作であり、また題詠である事から現実の歌ではないと想定される。俗世で、また出家後と世の酸い・甘いを知り尽くし、人間的に枯れた(?) 達人の域にある歌人なればこそ、実感のこもった後朝の歌を詠めたのではなかろうか と愚行する次第である。
待賢門院堀河は、女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人に選ばれており、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に多くの歌が入集されている。私家集『待賢門院堀河集』があり、165首収められている。
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