愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題102 酒に対す-24;謝瞻:張子房の詩

2019-03-22 11:38:50 | 漢詩を読む
この二句:
伊(コ)の人 代工(ダイコウ)に感じ,
 聿(ココ)に來たりて興王(コウオウ)を扶(タス)く。

「張良は、劉邦の為政者としての人物の大きさに感じ入り、劉邦が漢を興すのを助けた」と。楚・漢戦を追っていくと、張良・劉邦の“二人三脚”ぶりが随所にみられ、「張良(?~BC186)の存在なくして、劉邦の天下取りはなかった」との評が納得できます。

“項羽と劉邦”の話題の締め括りとして、「張子房の詩」を読みます。“子房とは、張良の字(アザナ)です。この詩は、歴史上の事跡を詠う“詠史”に分類される詩で、文選(モンゼン、巻二一)に収録されています。38句の長編詩で、その一部を下に示しました。 

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張子房詩     謝瞻(シャセン)
…….省略……
伊人感代工, 伊(コ)の人 代工(ダイコウ)に感じ,
聿來扶興王。 聿(ココ)に來たりて興王(コウオウ)を扶(タス)く。
婉婉幙中畫, 婉婉(エンエン)たり幙中(バクチュウ)の畫(ハカリゴト),
輝輝天業昌。 輝輝(キキ)たり天業(テンギョウ)の昌(サカエ)。
鴻門消薄蝕, 鴻門(コウモン) 薄蝕(ハクショク)を消し,
垓下殞攙搶。 垓下(ガイカ) 攙搶(ザンソウ)を殞(オ)とす。
爵仇建蕭宰, 仇(アダ)に爵(シャク)して 蕭宰(ショウサイ)を建て,
定都護儲皇。 都(ミヤコ)を定(サタ)゙めて 儲皇(チョコウ)を護(マモ)る。
……省略……
註]
伊:彼、彼女; 代工:天が行うべき職務を為政者が代わって執り行うこと。
聿:これ、ここに。古文で用いられた発語の助詞。; 興王:国家を創建し興隆させる帝
王、ここでは劉邦を指す。
婉婉:ゆったりと落ち着いたさま。;幙:本陣に張り巡らされた幔幕。;畫:計略。
輝輝:輝かしい。; 天業:帝王が天に代わって行う事業。; 昌:栄える。
鴻門:項羽と劉邦が“鴻門の会”を行った場所。薄蝕:日食または月食。
垓下:劉邦が項羽を降した“垓下の戦”の場所。; 殞:死ぬ、亡くなる。; 攙搶:ほうき
星。
爵仇:仇敵(キュウテキ)に爵位を与える。ここで“仇”とは、かつて劉邦に反旗を翻した雍歯(ヨウシ)を指す。; 建蕭宰:三傑の一人“蕭何(ショウカ)”を宰相とした。
定都:都を長安に定めた。;儲皇:皇太子、“儲”は後継者として備え置くの意。

<現代語訳>
張子房の詩
この人張良は 天に代わって世を治める劉邦の姿に感ずるところあり、
  かくて訪ね来て漢を興す劉邦を助けた。
悠悠として陣幕の中で軍略を練り、
まばゆいばかりに帝業を輝かせた。
鴻門の会では項羽による劉邦殺害の機会を打ち消し、
垓下の戦では項羽を敗走させた。
仇敵の雍歯に爵位を授け、輜重(シチョウ)の蕭何を宰相にたて、
都を長安に定め、皇太子を守りぬいた。
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詩の作者、謝瞻(383?~421)は、東晋末、のちに南朝宋を建てる劉裕(リュウユウ、363~422;武帝在位420~422)に仕え、中書侍郎、従事中郎など勤める。当時、謝混(シャコン、族父)や謝霊運(シャレイウン、族弟)とならび、その詩文の才が讃えられた。

長編詩の前半は、麗しい理想の政治を行った周も、東周の頃にはその文化は絶えてしまった。続く秦は、暴虐極まりなく、その過酷さは、親子3代を食い殺す猛虎よりも酷い。民に肩の荷を下ろさせ、民心を得たのは劉邦であり、張良はそれを助けた と。

上記の詩中、“仇敵の雍歯に爵位を授け、…”については、ちょっと解説が必要でしょう。陳勝呉広の挙兵後、故郷の沛で旗揚げして周囲を勢力圏に治めた。徐々に軍勢は増し、隣の“豊”も降した。そこで同郷の雍歯に“豊”を守らせて、他所に転戦した。

ところが雍歯は、かねてより劉邦を蔑み、見下す風があったが、遂に魏と組んで劉邦に反旗を翻した。劉邦は、反攻したがなかなか落とせない。その頃、張良に会い、彼の助言を得て、項梁から五千の兵を借りて(閑話休題95)、やっと“豊”を降すことができた。

天下統一後、恩賞の分配に際し、張良が、「最も憎くみ、それを臣下が知っているのは誰か?」と劉邦に問うた。「雍歯!」と即座に答えると、「では、まず雍歯に恩賞を与えよ、されば雍歯さえ恩賞を授かった、と皆が安心するであろう」と。案に違わず、臣下たちの不穏な空気は一掃された と。

もう一点:“皇太子を守りぬいた”という点。劉邦は、晩年、床に臥していて、皇太子を“盈”から寵愛する戚夫人の子“如意”に替えることを考えていた(閑話休題101)。危機感を抱いた正妻呂后は兄の呂沢を通して、張良に助言を求めた。

張良は、当時もっとも高名であった老賢人四人を“盈”の師として招くこと、およびその手立てを助言した。劉邦自ら度々招聘しても応じなかった賢人四人が“盈”の後ろに控えていることを知って驚いた劉邦は、四賢人にその訳を問うた。

四賢人は、「太子“盈”の人柄がすぐれ、士を愛すること深く、徳も礼も備えており、人民も慕っていると聞き、隠れ家から出てまいりました」 と。しばらく老人たちを見つめていた劉邦は、「そのほうたち、いつまでも太子を守り、補佐してくれい」と言って、太子廃立を諦めた と。

詩の後半は、将軍劉裕の武威は天地人の三界を調え、正しい統治は四方を覆っている と劉裕の行跡を讃えます。その劉裕が、遠征の途上、かつて張良の居城であった “留”に立ち寄った。(実際に張良が活躍した頃からほぼ600年後のことである。)

劉裕は、崩れ廃れた張良廟を修復するよう命じ、盛大な祭祀を行い、めでたい供え物を供えさせた。もしも張良が蘇ることが叶うなら、きっと将軍劉裕の臣下になろうと願うであろう と。(暗に劉裕を、漢帝国の盤石の基礎を築いた劉邦に擬しているか?)

もう少し張良のこと:戦国七雄の一国・韓の人。韓で祖父は3代、父は2代にわたって宰相を務めている。韓は、6国中真っ先に秦に滅ぼされた(BC230)。張良20歳代であったろう。張良は、全財産を売り払って、秦に対する復讐資金に充てた由。

旅にあって、30kgもの鉄槌をふりかざし、50m遠方の目標に命中させるという異能をもつ范発(ハンハツ)という人物を得る。この技能をもって、博浪沙(ハクロウサ、現河南省新郷市付近)において、巡幸中の始皇帝の暗殺を図った(BC218)、が失敗に終わった。

張良は、偽名を使い下邳(カヒ、現江蘇省徐州市の東)に身を隠し、秦の捜索から逃れた。その間多くの食客を養い、“鴻門の会”で助け舟を出した項伯を匿ったのもこの頃である。また兵法についても多くを学んだようであるが、実情は謎である。

“黄石公(コウセキコウ)”と出会う伝説は、この下邳時代のことである。ある日、橋の袂を通りかかると、一人の翁が靴を脱いで橋の下に抛り投げ、「小僧!靴を取って来い」、取ってくると、「履かせろ」と。張良は「賢人であろう」と信じて、従った。

翁は、別れ際に「教えることがある、5日後の朝に来い」と言う。5日後に行くと、先着していた翁は、「目上に遅れるとは言語道断!5日後に来い」。早朝暗いうちに行くと、「来ておったか」と言って、相好を崩して語り出した。

「一人を殺して天下を変えようというのは心得違いじゃ。広い天下を動かすには、人を集め、これを用いる方法に通じねばならない。……お前に王者の師となる道を説いた一遍の書を授けよう」と言って、『太公兵書』を張良に授けて立ち去った と。 

陳勝呉広の乱を機に隠れ家を出て、偶然に劉邦に出会い、以後の活躍は、既に見てきた通りである。天下が定まり、劉邦から「3万戸の領地を斉の国内の好きな所に選べ」と言われ、「初めて陛下とお会いした“留”を頂ければ充分です」と答えて、“留侯”に封じられた。

蛇足]
長江流域洞庭湖の西に“張家界”という巨石柱が乱立し、観光地として注目を引く所がある。漢軍から追われた“張良”が身を隠していて、兵糧攻めにあったが、“黄石公”に助けられた という伝説がある。地名は“張良”に拠る と。
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