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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 145 飛蓬-52 小倉百人一首:(和泉式部)  あらざらむ

2020-05-08 15:47:09 | 漢詩を読む
(56番)あらざらむ この世の外の 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
             和泉式部 『後拾遺集』恋・763
<訳> もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo
病に臥して末期に近い状態で、‘今一度あなたにお逢いし、愛していただけたら′ と、心残りの文を男の元に届けています。強烈な情念が感じられる歌です。

華々しい恋の遍歴を経、父親からは勘当され、時の大臣・藤原道長からは「浮かれ女」と評された和泉式部の歌が今回の話題です。たぎる情熱は、最後まで燃え尽きることがなかったようです。

漢詩では、歌の詞書に沿いながらも、作者の情熱に後ろから押される感じで、少々オーバーな表現になったかな と思わないでもありませんが。併せてご鑑賞ください。

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<漢詩原文および読み下し文>   [上声四紙韻]
 恋愛没有竟時   恋愛に竟時(キョウジ)なし
病床予躺寄君信, 予(ワタシ)は病床に躺(ヨコ)たわりしまま君に信を寄す、
屋頂烏啼告人死。 屋頂(オクジョウ)では烏(カラス)啼き 人に死期を告げるあり。
作為今生懐念録, 今生の懐念(オモイデ)の録(ロク)と作為(シ)て,
只再一次想逢你。 只だ再一次(イマイチド) 你(アナタ)に逢(ア)いたく想う。
 註]
  竟時:終るとき。      躺:横になる。    
作為:……とする。     懐念:しのぶ。    

<現代語訳>
 恋に終る時無し
体調思わしくなく病床で横になっている中、便りを差し上げます、
幻想か、屋上では烏が鳴いて、死期の近いことを告げているようです。
今生の思い出のよすがに、
今もう一度だけあなたにお会いしたいものです。

<簡体字およびピンイン>
 恋爱没有竟时 Liàn'ài méiyǒu jìng shí
病床予躺寄君信, Bìngchuáng yú tǎng jì jūn xìn,
屋顶乌啼告人死。 wūdǐng wū tí gào rén sǐ.
作为今生怀念录, Zuòwéi jīnshēng huáiniàn lù,
只再一次想逢你。 zhǐ zài yīcì xiǎng féng nǐ. 
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作者・和泉式部の紹介から始めます。同僚の先輩・紫式部は、和泉式部について、「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と『紫式部日記』に記しているという。この一言に尽きるか と。掲題の歌を理解するには必須と思われるので、まず素行・恋の遍歴、併せて彼女の生涯を通覧してみます。

20歳の頃、和泉守橘道貞と結婚(999以前)、和泉国(現大阪府南部)に赴きます。‘和泉式部’と称される所以である。帰京後、道貞との関係が破局。弾正宮(為尊親王、冷泉天皇第3皇子)との恋が原因のようである。“身分不相応の恋”だ と、父親から勘当される羽目に。

不幸にも弾正宮が早世(26歳、1002)。翌年、彼の弟・帥宮(敦道親王)の求愛を受けて同居、結果、帥宮の正妻が退居するという大騒動となる。しかし帥宮も早世(27歳、1007)します。その後、一条天皇・中宮彰子(道長の娘)の女房として仕える(1008~11)。以後、丹後守・藤原保昌と再婚(1013)、丹後に赴きます。

橘道貞とは一子・小式部内侍を設けています。彼女も母親に似て、歌の才能に恵まれ、百人一首に歌(60番)が採首されています。彼女は、母に先立ち1025年に亡くなりました。娘を亡くした和泉式部の落胆は計り知れず、仏教への傾倒も伺えるという。

娘を亡くした悲しみを癒すためにと、1027年、藤原道長が小庵を建て、和泉式部に贈った と。それが元となった寺・誠心院が今日京都中京区に残っており、和泉式部寺とも呼ばれている と。

さて、「浮かれ女」と評した藤原道長が、和泉式部に対して、中宮彰子に仕えることを認め、また庵を贈っています。それらの事実は、道長が和泉式部の和歌の才能を認めていた故である と評されています。

和泉式部の生没年は不詳である。ただ上に挙げた遍歴の年代を基に推論することは可能である。すなわち生年は979年以前、また道長から庵を贈られたのは48余歳の頃であり、その頃までは病床に臥すなど、健康上問題はなかったと推論される。以後の動静は不明である。

併せて、掲題の和歌の作年代は48歳以後と推定されます。当時の寿命を勘案するなら、「今生の思い出に今一度」との文は、かなり高年齢時の訴えであると言えます。まさに“恋に終りなし”と言えようか。一方、文の送り先の男性は、果たして誰であろうか?謎である。

和泉式部は、越前守大江雅致と越中守平保衡の娘との間に生まれる。母がさる内親王付の女房であった関係で、和泉式部は同内親王付の女童であったらしい。幼少のころから宮中に身を置いていたようですが、数々の優れた歌を残すほどの教育を如何様に身に着けたかは不明である。

和泉式部は、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられている。また中宮彰子に仕えた歌人ベスト5 =“梨壷五歌仙 [紫式部(百人一首57番)・赤染衛門(59番)・伊勢大輔(61番)・和泉式部・馬内侍]= の一人として数えられている。

『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首採用されており、死後初の勅撰集『後拾遺和歌集』では最多入集歌人であるという。複数の家集が伝えられている。次の歌は、勅撰集『拾遺和歌集』(成立:1005~1007)に初めて採られた歌とのことである:

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
   はるかに照らせ 山の端の月(拾遺和歌集 哀傷1342)
[今暗い道にあって さらに暗い煩悩の道へと 入っていく私。はるかな遠い場所から そんな私を照らしておくれ、山の端に懸かる月よ]

 書写山円教寺(兵庫県姫路市)を訪ね、性空上人に贈った歌とされている。『拾遺和歌集』の成立年代から推して、この歌は、弾正宮の逝去に遭った後、20歳代前半の作と思われます。恋愛一筋でない面が伺えて、一編では書き尽くせないお人と感じ入っている次第である。
コメント
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