これまで2回にわたってニュージーランド (NZ) の大自然の姿およびNZに住む生き物たちの姿、さらにNZの人々について触れてきました。
今回のNZ旅行に当たって、今一つ、見定めたいことがありました。南半球について決まって話題になる“南十字星”を目にすることでした。結果的に、残念ながら目にすることができませんでしたが。
星の観察を試みたのは、アオラギ・クック山の観光に臨む際の宿営所(?)となるHermitage Hotel(写真1)の屋外である。アオラギ・マウント クック国立公園内にあり、外装が穏やかな色合いの佇まいである。
写真1:The Hermitage Hotel
夜8時半ごろホテル着、夕食後屋外に出て、星の観察を試みる。夜10時前後である。ホテルの灯りも減じていた。写真手前の広場に出て、天を仰ぎ、四方八方に頭を巡らして、それらしい星座“南十字座”を探したが、遂に探し当てることはできなかった。
昼間の状況から推して、天候が悪い状態であったとは思えない。天空一杯に星が散っていることは確認できた。恐らく、目には入ったが、心の目で捉えることができなかった というだけのことだったのか?
NZでは、“南十字星”の観察には3~5月頃がもっとも容易である由。今回訪れた11月は、同星座は地平線近くに低くなっていて、周囲の山や建物の陰に隠れていて、確認できなかったのか?
捜しあぐねて末、記憶に残る、かつて見た故郷の星空に想像は馳せていた。“郷愁”というより、過去の記憶を頼りに、一つの‘基準尺度’として、NZの星空を見ようとした と言う方が正しいでしょうか。
つまり、新しい状況に遭遇した際、その内容を“理解する”のに、過去の経験や記憶を、判断の基準として活用する ということは、通常の思考過程であり、そういう意味である。
記憶にある故郷とは、鹿児島県喜界島のことである。そこでは、四季を通じて、星空は、天空一杯に散った星々の“星明かり”で天空は明るく見える。その中にあっても、多くの星々は一層きらきらと輝いて見えるのである。
ただ、筆者はかつて南の島で種々の星座について思考を凝らしたことはない。天を仰げば、北極星や北斗七星を含む‘おおくま座’など、容易に判読できたのである。
そこでNZ行に際しても、“空を仰げば何とかなるさ、航海の目印となるくらいだ”と、安易な気持ちであったことは確かである。ツアーでは『星空ウオッチング』のオプションがあったのだが、当日の参加希望は叶えられなかった。
結果として、ホテルの裏庭(?)に出て、星空観察を行ったという次第である。それはさておき、連想は、故郷の空からさらに孫娘(小5)が作った俳句へと広がっていった。その句とは:
『さそり座がおおきくねそべるきびばたけ』
この句は、孫娘が夏休みに喜界島を訪ねた折に作ったもので、某機関の募集に応募して、“大賞”の評価を得ています。この句の詠まれた背景となる風景を少し説明しておきます。
島では一面にサトウキビ畑が広がっています(写真2)。サトウキビの葉は、ススキに似て、先が針状に尖って細長くなっています。春から夏・秋にかけては、青々と葉を茂らせて成長する時期です。
写真2:サトウキビ畑
海に囲まれた小さな島では、日が暮れると、陸から海側へと微かに風が起こるのが常です。孫娘は、夕涼みの散歩にと、屋外へ出て行ったのでしょうか。南の空を仰ぐと、サトウキビの葉の影が微風に揺れて、その上に“さそり座”がシッポを巻いて寝そべっている という情景か と想像します。
残念ながら南十字星に対する感慨を詠むことはできませんでした。宿題として胸に秘して置くことにします。しかしそれなりに、赤道を跨いで、南半球から北半球と遥かな思いに駆られる結果となった。この思いを七言絶句として詠んで見ました。以下をご参照下さい。
xxxxxx
・在奥拉基庫克山脚 回顧故郷
・・奥拉基庫克山脚(アオラギクック山の麓)にて故郷を回顧す
深夜逍遥奥山脚, 深夜(ヨフケ)逍遥す奥山(アオラキサン)の脚(フモト)、
南十字架今何照。 南十字架 今 何(イズコ)にてか照(カガヤ)ける。
蓬莱南島甘蔗園, 蓬莱(ホウライ)南島 甘蔗(カンシャ)の園(エン)、
躺臥蝎星閃閃耀。 躺臥(トウガ)す蝎星(シエシン) 閃閃(センセン)と耀(カガヤ)く。
・註]
・・奥山脚:奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓
・・南十字架:南十字星
・・甘蔗園:サトウキビの畑
・・躺臥:寝そべる、横になる
・・蝎星:さそり座(天蝎座)の星々
・・※転句と結句は、小学生の句:「さそり座が大きくねそべるきびばたけ」に拠る。
<現代語訳>
アオラギクック山の麓で遥か遠くの故郷を思う
夜更けてホテルの灯りが減る頃、奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓を逍遥し、
南十字星を求めたが、今 何処で輝いているのか、探し当てることができず。
サトウキビ畑が広がる蓬莱の南の島の夜空へ思いは馳せた、
そこには横たわるさそり座の星々がきらきらと輝いている。
今回のNZ旅行に当たって、今一つ、見定めたいことがありました。南半球について決まって話題になる“南十字星”を目にすることでした。結果的に、残念ながら目にすることができませんでしたが。
星の観察を試みたのは、アオラギ・クック山の観光に臨む際の宿営所(?)となるHermitage Hotel(写真1)の屋外である。アオラギ・マウント クック国立公園内にあり、外装が穏やかな色合いの佇まいである。

夜8時半ごろホテル着、夕食後屋外に出て、星の観察を試みる。夜10時前後である。ホテルの灯りも減じていた。写真手前の広場に出て、天を仰ぎ、四方八方に頭を巡らして、それらしい星座“南十字座”を探したが、遂に探し当てることはできなかった。
昼間の状況から推して、天候が悪い状態であったとは思えない。天空一杯に星が散っていることは確認できた。恐らく、目には入ったが、心の目で捉えることができなかった というだけのことだったのか?
NZでは、“南十字星”の観察には3~5月頃がもっとも容易である由。今回訪れた11月は、同星座は地平線近くに低くなっていて、周囲の山や建物の陰に隠れていて、確認できなかったのか?
捜しあぐねて末、記憶に残る、かつて見た故郷の星空に想像は馳せていた。“郷愁”というより、過去の記憶を頼りに、一つの‘基準尺度’として、NZの星空を見ようとした と言う方が正しいでしょうか。
つまり、新しい状況に遭遇した際、その内容を“理解する”のに、過去の経験や記憶を、判断の基準として活用する ということは、通常の思考過程であり、そういう意味である。
記憶にある故郷とは、鹿児島県喜界島のことである。そこでは、四季を通じて、星空は、天空一杯に散った星々の“星明かり”で天空は明るく見える。その中にあっても、多くの星々は一層きらきらと輝いて見えるのである。
ただ、筆者はかつて南の島で種々の星座について思考を凝らしたことはない。天を仰げば、北極星や北斗七星を含む‘おおくま座’など、容易に判読できたのである。
そこでNZ行に際しても、“空を仰げば何とかなるさ、航海の目印となるくらいだ”と、安易な気持ちであったことは確かである。ツアーでは『星空ウオッチング』のオプションがあったのだが、当日の参加希望は叶えられなかった。
結果として、ホテルの裏庭(?)に出て、星空観察を行ったという次第である。それはさておき、連想は、故郷の空からさらに孫娘(小5)が作った俳句へと広がっていった。その句とは:
『さそり座がおおきくねそべるきびばたけ』
この句は、孫娘が夏休みに喜界島を訪ねた折に作ったもので、某機関の募集に応募して、“大賞”の評価を得ています。この句の詠まれた背景となる風景を少し説明しておきます。
島では一面にサトウキビ畑が広がっています(写真2)。サトウキビの葉は、ススキに似て、先が針状に尖って細長くなっています。春から夏・秋にかけては、青々と葉を茂らせて成長する時期です。

海に囲まれた小さな島では、日が暮れると、陸から海側へと微かに風が起こるのが常です。孫娘は、夕涼みの散歩にと、屋外へ出て行ったのでしょうか。南の空を仰ぐと、サトウキビの葉の影が微風に揺れて、その上に“さそり座”がシッポを巻いて寝そべっている という情景か と想像します。
残念ながら南十字星に対する感慨を詠むことはできませんでした。宿題として胸に秘して置くことにします。しかしそれなりに、赤道を跨いで、南半球から北半球と遥かな思いに駆られる結果となった。この思いを七言絶句として詠んで見ました。以下をご参照下さい。
xxxxxx
・在奥拉基庫克山脚 回顧故郷
・・奥拉基庫克山脚(アオラギクック山の麓)にて故郷を回顧す
深夜逍遥奥山脚, 深夜(ヨフケ)逍遥す奥山(アオラキサン)の脚(フモト)、
南十字架今何照。 南十字架 今 何(イズコ)にてか照(カガヤ)ける。
蓬莱南島甘蔗園, 蓬莱(ホウライ)南島 甘蔗(カンシャ)の園(エン)、
躺臥蝎星閃閃耀。 躺臥(トウガ)す蝎星(シエシン) 閃閃(センセン)と耀(カガヤ)く。
・註]
・・奥山脚:奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓
・・南十字架:南十字星
・・甘蔗園:サトウキビの畑
・・躺臥:寝そべる、横になる
・・蝎星:さそり座(天蝎座)の星々
・・※転句と結句は、小学生の句:「さそり座が大きくねそべるきびばたけ」に拠る。
<現代語訳>
アオラギクック山の麓で遥か遠くの故郷を思う
夜更けてホテルの灯りが減る頃、奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓を逍遥し、
南十字星を求めたが、今 何処で輝いているのか、探し当てることができず。
サトウキビ畑が広がる蓬莱の南の島の夜空へ思いは馳せた、
そこには横たわるさそり座の星々がきらきらと輝いている。