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芸能人 柴田理恵「富山で暮らす92歳の母を遠距離介護。腎盂炎、骨折を経て〈要介護4〉から復活した理由」

2021-10-18 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論Webからの借用(コピー)です

富山にひとりで暮らす母・須美子さんの遠距離介護をしている柴田理恵さん。4年前、須美子さんは要介護4と認定されたものの、自宅でのひとり暮らしを熱望し、リハビリやさまざまな準備を経て実現、要介護1にまで回復した。柴田さんが母の自立のために工夫したことや、気づいたことを聞いた(構成=篠藤ゆり 写真提供=日テレ7)
「延命治療はしません」と答えた
母はもうすぐ92歳。2016年に父が亡くなった後、富山の自分の家でひとり暮らしを続けています。
じつは4年前に一度、命が危ないかも、と覚悟を決めたことがありました。2017年の10月、高熱が出て具合が悪いと母から電話があったので、地元で暮らしている従弟に連絡して、病院に連れていってもらいました。腎臓の数値が悪く、腎盂炎と診断されてそのまま入院することになったのです。
急いで富山に駆けつけましたが、母は「あ~、あ~」と言うだけで会話にならないし、私のことも誰だかわからない様子で。これは熱のせいなのか、それとも、病気やケガをきっかけに進む高齢者特有の認知症なのかわからず、心配でした。
医師からは、「もし何かあった場合は延命治療をしますか」などと、終末医療についての確認もされました。母は元気なときから、「鼻からチューブを突っ込まれて、体じゅうに管をつながれてまで生きたくない」と、ずっと繰り返し言っていたので、「延命治療はしません」と答えました。
1週間後、病院に行くと、「あぁ、理恵か」といつも通りの母に戻っていたので、ほっと一安心。「お母さん、お正月は家に帰りたかろう?」と聞くと、「帰りたい」と即答。「ほかに何をしたい? お酒は飲みたい?」と尋ねたところ、「飲みたい」と(笑)。「じゃあ、先生がオッケーしたら歩く練習をしよう」と励まして。発奮した母は、「お正月に自宅に帰ってお酒を飲む」を目標に、リハビリをがんばりました。
「やっぱり、家で暮らしたい」としみじみ
ところが12月初旬、夜中にトイレに行こうとして転んで、腰椎を圧迫骨折してしまったのです。しかも、夜中なので看護師さんを呼ぶのを遠慮したらしく、私が翌朝行ったときに発覚。母は、骨折の痛みのことよりも、「せっかくリハビリをがんばったのに、お正月までもう1ヵ月しかない」としょげていました。
そこで、「いまは骨折を治すのを最優先して2週間は安静にしようね。そのあとリハビリすれば、間に合うよ」と励ましました。すると、母から返ってきた言葉は、「でも、そんなに寝ていたら、歩けんようになる……」。とにかく歩けるようになって自宅に戻りたいという強い意志が見えました。
母は、有言実行の人。幸い希望通り、年末年始に一時退院して家に戻れることに。2018年のお正月、おせちに母が好きな富山のお酒を用意したら、「あぁ~、おいしい。お酒が飲めてよかったわぁ」。そして、「やっぱり、家で暮らしたい」としみじみ言うのです。
正月明けに、ふたたび病院に戻り、すぐ退院できることになりましたが、まだ大雪が続く時期。母ひとり一軒家の自宅に戻るのは危ないと考え、春まで病院の隣にある系列施設で過ごしてもらいました。
実家を片づけ、手すりを増やして準備
入院した当初、ちょうど要介護認定があり、母は要介護4に。ひとり暮らしに戻るのは無理なのでは、という意見もありました。
私が若い頃、帰省するのは数年に一度。父が亡くなってからは、年に1回は帰省して母の様子を見てきましたが、要介護4となると、母を東京に引き取ったほうがいいのかな、という考えが頭をよぎりました。でも、母を見ていて、そんな気は一切ないはずだと思い直したのです。
母は長年、小学校の教師を務め、退職後は茶道との先生をしていました。保育園や小学校でお茶の作法を教えるなど、子どもたちに日本の文化を伝えることは母の生きがいになっていた。施設にいる間も、「早く家に戻って、お茶のお稽古を再開したい」と言っていましたよ。
目標があるからこそ、リハビリもがんばることができたのでしょう。そんな母の生きがいを無視して見知らぬ土地に連れていったら、孤独になり苦しませてしまうかもしれない。あるとき母に希望を聞いたら、「地元でいい」と。
そこで、施設から帰ってくる母が安全に暮らせるよう、まず実家の片づけから始めました。食器もよく使うものをまとめてコンパクトに収納。もともと家の中に手すりはありましたが、介護保険を利用して手すりを増やし、介護ベッドをレンタルするなどの準備もしました。
ケアマネジャーさんとも相談して、デイサービスは週2回、それ以外の日はヘルパーさんや看護師さんなど、毎日誰かが訪問するように手配。ひとり暮らしとはいえ、介護保険のおかげで、日々誰かしらに見守ってもらうようにできました。
日課は炊事と洗濯。「要介護1」まで回復
最近の母は、ご飯を炊くのと味噌汁を作るのは自分でしています。食事に関しては、当初週に4回くらい配食サービスをお願いしていたのですが、「飽きる」と言って自分で電話してキャンセルしてしまいました。
食べたいものを食べたいという気持ちも元気の秘訣でしょうね。母は、ヘルパーさんに同行してもらってスーパーで買い物をし、自分が食べたいおかずをヘルパーさんに作ってもらっています。味にはうるさくて、最初、インスタント味噌汁が簡単だよとすすめたときは口に合わず抵抗があったようですが、おいしそうなものを選んだら「うん、これならいい」と、無事合格。
もともと母自身、仕事が忙しかったこともあって「使えるものは親でも使う」主義(笑)。昔、祖父にも「おじいちゃん、私が出かけている間に、布団干しておいて」などと指示していました。
でもそれは、自分がラクをしたいからだけではなかった。というのも祖父がちょっと認知症になり始めた頃、母は「ボケ始めたから、仕事をさせたほうがいい」と。やるべき役目があり、頭も使って忙しくしていると症状が進まないという確信があったようです。だから「おじいちゃん、庭を掃いとかれよ」とか、簡単な家事を探してはいろいろ頼んでいました。
もともとそういう考えのある母ですから、衰えないためにはなんでも自分でやったほうがいいと思っているのでしょう。洗濯物を干したり取り込んだりするのは、足元が危ないからやめてほしいのに、「自分でやる」と言い張る。まぁ、止めても聞くような人ではないので(笑)、任せるしかありませんでした。
そうこうしているうちに、なんと要介護1にまで回復。いやぁ、母の自立心の強さには脱帽します。
母は、子どもたちにお茶を教えるのは90歳を境に卒業しましたが、謡は楽しんでいます。以前は稽古のついでにお仲間とのおしゃべりを楽しんでいたようですが、いまはコロナの影響で集まるのは中止。でも稽古しないと謡曲をどんどん忘れてしまうからと、週1日は「謡の日」と決めて、ひとりで練習しているようです。
高齢ひとり暮らしを支えてくれるのは
いまはほぼ毎日、東京から母に電話をしています。私が遠距離介護できるのも、もともと母の近所に住んでいる従弟夫婦のおかげ。また、ケアマネジャーさんやお医者さんなどにサポートしてもらっているからこそできることだと感謝しています。また、ゴミ出しなどもご近所の方に助けられていて、本当にありがたい。地域のつながりに恵まれている面もあると思います。
かつて両親が、地域の新旧住民の交流の場としてバーベキュー大会を提案し、やがて恒例行事になっていました。母は言い出しっぺということで、毎年バーベキュー大会を楽しみにしていた。一昨年はお酒をみんなに注いで回り、自分もさんざん飲んで酔っぱらって。家に帰り、そこで転んで病院送りになったという……(笑)、いやぁ、母らしいです。
残念ながら、高齢期になると、どうしても転倒するリスクが増えてきます。この数年、母も何度か転んで、そのたびに病院に行っています。じつは1ヵ月ほど前にも、腎臓の数値がかんばしくなく入院。退院後、足腰が弱っている母がいきなり家に戻るのはまずかろうと思い、また病院から施設に移ってもらい、足腰の様子を見てからにしました。
その施設には96歳になる母の姉もいるので、「しばらくの間、お姉さんがいるところで過ごして、元気づけてあげてね」と使命を与えました。母はなにかしら役目があると、張り切って元気になります。これは、母が祖父にやってきたことを真似ているだけなんですけどね。「生き方・死に方」を教えてくれている
私は母の性格をよく知っているから、「またお酒が飲めるようにがんばろう」とか「みんなを元気づけてね」とか、母の好きそうなことを言葉にして励まします。私ができる親孝行といえば、そのくらい。コロナの影響で帰省もままなりませんから。
母は社交的なので、病院や施設でも、「同じ町の人たちがいるから楽しいよ」と言います。施設にいたらいたで楽しむ術を持っている。いっぽうで「早く自分の家に帰りたい」と本音もこぼす。いまは、ワクチン接種の予約などを自分でするのは大変だろうから、その手続きや接種が終わるまでは施設にいてもらうつもりです。
今後、母がひとり暮らしに戻っても、またすぐに何か起きて入院することになるかもしれません。いずれ施設のほうが快適になる場合もあるでしょう。でもいまは、その繰り返しでもかまわないと思っています。いずれにせよ、永遠は望めないわけですから、母の好きにさせてあげたい。自分の意に染まない暮らしをするよりは、そのほうが幸せだと思うからです。
そのためには、プロにお願いできることはお願いし、人の手も借りて。その上で、万が一ひとりでいるときに自宅で亡くなったとしても、それはそれで母らしい人生だと覚悟を決めています。
両親の姿を通して、「自分の役目に対する責任感」や「やるべきこと」「趣味」を持つのは大事だなと、つくづく感じています。父も会社員を定年退職してから別会社でしばらく働き、その後、自らシルバー人材センターを立ち上げました。これからはいくつになっても働く時代だと思ったのでしょう。結局、70代後半まで働いた。高齢になっても、何かしら仕事をしたほうがいい。それが生きがいになって自身を支えてくれる。私もそれに倣って仕事をしています。
親というのは子を産んでくれて、生き方を教えてくれて、最後は死に方を教えてくれるのだなと、つくづく思います。そしていま、母は「最期に向かってどう生きていくか」を、身をもって私に示してくれているんでしょうね。
構成: 篠藤ゆり
写真提供:日テレ7・柴田理恵さん
出典=『婦人公論』2021年6月22日号
柴田理恵
女優
1959年富山県生まれ。明治大学文学部卒業後、劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、84年、WAHAHA本舗を設立。劇団の中心メンバーとして活躍する。



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