下記は日経ビジネスオンラインからの借用(コピー)です
米国では既に多くの人が新型コロナウイルスのワクチン接種を少なくとも1回は受けているが、1回や2回の接種で十分なのか、3回目、いや4回目まで受けなければならないのかと懸念する声が一部で上がっている。
実際のところ、現在接種されているワクチンの効果がどの程度続くのかは、まだ科学者にもわからない。
2019年末に初めて見つかって以来、コロナウイルスは何度となく変異を繰り返してきた。従来株と異なる変異株では、感染力や致死率が高まったり、今のワクチンが効かなくなる恐れがある。常にウイルス進化の先を行くために、ワクチンの開発者は変異株に対応できるワクチンの開発を急ぐと同時に、現在のワクチンの効果がどのくらい持続するのかを見定める研究も進めている。
場合によっては、定期的にコロナワクチンを追加接種する新たな日常が始まるかもしれないと、一部の専門家は言う。
ワクチンの効果を保つ追加接種
ワクチンの追加接種とは「既に接種したワクチンを再度打つというもので、免疫の働きがより高まります」と米国医師会会長で、アレルギー・臨床免疫学者のスーザン・R・ベイリー氏は言う。免疫系は、2回、3回と抗原(抗体作りを促す分子)にさらされることで、そのウイルスを記憶して、免疫の応答を強化し、長続きさせることができると氏は解説する。
たとえば、米国で50歳以上の健康な人に推奨されている英グラクソ・スミスクライン社の帯状疱疹ワクチンは、1回目の接種から2~6カ月後に再接種すると、90%を超える確率で帯状疱疹やそれに伴う神経痛の発症を抑えられる。
新型コロナウイルスに関しては、米ファイザー社と米モデルナ社のmRNAワクチンの場合、1回目の接種後、それぞれ3週間後と4週間後に2回目を接種することになっている。米ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンは1回のみの接種だが、現在は2回目の追加接種の有効性を確かめる治験を実施している(同社のワクチンはごくまれに深刻な血栓症を発症する恐れがあるとして、日本時間21日時点では米国での使用が一時中止されている)。(参考記事:「コロナワクチン接種後のごくまれな血栓症、治療は可能」)
ファイザーは2月に3回目接種の治験を開始しており、最高経営責任者アルバート・ブーラ氏は4月15日にテレビ局の取材に対し、1回目の接種から12カ月後に3回目が必要になる可能性が高いと話した。
どのワクチンも、それぞれの推奨接種回数を守れば有効性は驚くほど高いことが示されている。だが、その免疫がいつまで続くのかが問題だ。また、その高い効果を維持するために近い将来(またはしばらく時間をおいてから)追加接種が求められるのかどうかも、まだはっきりとはわかっていない。
新型コロナワクチンはまだ新しいため、追跡評価ができるほど時間が経っていない。これまでの経過を見て言えるのは、少なくとも6カ月間は高い予防効果があることだけだ。
ちなみに、追加接種は、特定の変異株を標的とした新しいワクチンとは異なる。こちらも、一部で治験が進行中だ。
現在、新型コロナウイルスには「懸念される変異株(VOC)」が、知られているだけで少なくとも5種類存在する。英国で最初に確認された「B.1.1.7」、南アフリカで最初に見つかった「B.1.351」、ブラジルで流行を広げている「P.1」、そして米カリフォルニア州で最初に報告された「B.1.427」と「B.1.429」だ。
モデルナは、現在接種されているワクチンに少し手を加えて、B.1.351への有効性を試験している。ファイザーの広報担当者もナショナル ジオグラフィックに対し、現在流行中の変異株を標的としたワクチンを追加試験する可能性について検討していると語った。(参考記事:「変異株向けのワクチン戦略が望まれる理由、米国は治験を開始」)
いまのところ、既存のワクチンではこれらの変異株への予防効果が証明されている。「変異株が出てきたからと言って、今すぐにでも何かを変更しなければならないという事態にはなっていないと思います」と、米ジョンズ・ホプキンス大学健康安全保障センターの感染症専門医であるアメシュ・アダルジャ氏は言うが、すべての感染症専門医がこれに同意しているわけではない。
「私たちは後れを取ってしまっています」
ワクチンの効果を高める追加接種や、変異株を標的としたワクチン接種は、一部の人にとっての「新たな日常になる可能性が高い」と、米ジョージタウン大学医療センターの感染症専門医ダニエル・ルーシー氏は考えている。ウイルスは「自ら生き残るために」変異を続けており、いずれは現在のワクチンが効かなくなる恐れがある。
「コロナウイルス、その変異株、そしてワクチンの数年間に及ぶ戦いの連続です。2019年から続いているこの戦いに、私たちは後れを取ってしまっています。私たちが眠っている間も、ウイルスは活動を続けています」
米メリーランド大学医学部の微生物学と免疫学准教授のマシュー・B・フリーマン氏も同意する。「近い将来、追加接種やまったく新しいワクチンが必要になる可能性はかなり高いと考えます。ただし、どの頻度で接種すべきか、また全世界で接種が必要になるのか、それとも特定の集団に限定できるのかは、まだわかりません」。フリーマン氏は米ノババックス社のワクチン開発に協力しているが、まだ実用化には至っていない。
3月11日付けで学術誌「Nature」に発表された論文によると、ファイザーのmRNAワクチンは、現在米国と日本で主流の変異株であるB.1.1.7に対し、実験室レベルでは有効だ。その一方で、4月9日付けで論文投稿サーバー「medRxiv」に発表された研究では、B.1.135は少なくともファイザーのワクチンをすり抜けて感染できるという暫定的な結果が示された。ただし、この調査には変異株に感染したごく少人数のデータしか含まれず、論文はまだ専門家による査読を受けていない。
4月1日のプレスリリースで、ファイザーとビオンテックはワクチンの全体的な有効率(発症予防効果)を91%に修正し、「B.1.135の系統が主流の南アフリカでの有効率は100%」と発表した。
アダルジャ氏は、ワクチンの有効率が50%まで下がれば、追加接種か新たなワクチンが必要になるだろうとしている。米国食品医薬品局(FDA)は2020年、コロナワクチンについて、少なくとも50%の確率で発症や重症化を防ぐ効果を期待するとしていた。追加接種の実施を決定する際にも、それを基準とすると良いだろうと、アダルジャ氏は言う。
また、米国だけでなく他の国でも十分な数のワクチンが行きわたれば、「変異株の拡大も抑えられます」と、フリーマン氏は指摘する。これは、今後追加接種が必要かどうかにもかかわってくるが、もし追加接種や新たなワクチンが必要となれば、こちらもやはり集団で接種しなければ意味はない。
継続的な接種にはハードルも
「追加接種の要請や義務化は、一部の人には受け入れてもらうのが難しいかもしれません。1回だけならまだしも、この先も継続して負担を強いるわけですから」と、米ユタ大学の法律学教授で、内科医学の非常勤教授でもあるテニーユ・ブラウン氏は懸念する。
インフルエンザの予防接種にしても、ほぼ全員に推奨されているにもかかわらず、米国成人の接種率は2018~2019年の流行期に約45%、2019~2020年には約52%にとどまっていた。
米国政府はコロナワクチンの接種を義務化してはいないが、接種していないと様々な制限を受けることになりそうな動きはある。飛行機への搭乗や外国への入国に「ワクチンパスポート」の提示が求められたり、学生に接種義務を予定している大学もある。企業も社員に接種を求めることは可能だが、実際にそうする企業がどのくらいあるのかは不明だ。
だが、特に理由もなく勤務先や民間の追加接種要請には応じたくないという人に、法律は味方してくれないとブラウン氏は指摘する。米国の法律では、宗教や健康問題(アレルギーなど)を理由にした例外さえ設ければ、接種を義務付けることを禁止してはいない(編注:日本の予防接種法では「努力義務」にとどまり、現状の法律でワクチン接種が義務付けられることはない)。
下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です
「君ら、何かの宗教とちゃうよね?」
大規模コンベンションセンターのステージでは、テレビでよく見る若手芸人がネタを披露した後、こう不安げに茶化して、参加者約3000人の笑いを取る。これは悪徳商法集団の「環境」で開催されている「全体会議」の一コマだ。
「初回参加のDさんです! 意気込みをどうぞ!」
別のプログラムでは、ステージ上に会員が立ち、求められるままに一言メッセージを述べる。すると、約3000人の構成員たちが異常にも思える拍手で祝福する。
この連載で取り上げている悪徳商法集団の「環境」では、多額の上納金や不衛生なシェアハウス、激しい勧誘といった負担を構成員に強いている。このような負荷を掛けながらも大勢に所属させ続けるため、「環境」ではセミナーで繰り返し承認を与えて動機付けを行っている。
本稿では彼らのセミナーと、そこで与えられた承認により団体の活動を手伝わせる「プロジェクト」という名のタダ働きの実態について迫る。なお、前回と同じく元会員への取材をもとに構成している。
2泊3日でセミナー漬けにされる
「環境」のセミナーには、大きく分けて内部セミナーと外部セミナーがある。このうち優先度が高いのが外部セミナーだ。これは外部の業者に委託しているセミナーで、入会者全員に勧められる基礎コースは2泊3日で行われ、会場は大阪にあるという。
この期間中、入会者は全員セミナー漬けにされる。セミナー費用は約10万円で、東京に住んでいた脱会者のDさんの場合は宿泊交通費を入れると10万円を越えたという。もちろん、全額自己負担だ。「部外者にはセミナーの内容を口外しない」という趣旨の誓約書を書かされているため全容は語らなかったが、集団を密室に閉じ込め、精神的に動揺させられるゲームや瞑想を行うようだ。
また、外部セミナーと言いつつトレーナー役は全員師匠やリーダー(一定数の勧誘実績がある構成員)で、人生の目標も「環境」での活動に結び付けられる。
そして、このセミナーの最後には、ある意味で“強制的に感動させる演出”が待っていた。
感動的な演出で“スイッチを押されたかのよう”に泣いてしまった
「セミナーの最後に『家族や友人、師匠のことを思い浮かべて下さい』と言われて瞑想が始まり、しばらくして促されるままに後ろを振り向くと、紹介者が立っていたんです。そして『これから一緒に頑張っていこう』という内容の手紙を渡されます。
ずっと密室で過ごしていたのと、感動的な音楽が掛かっていたこともあり、気付いたら感動し泣いていました。今思い返すと、まるで何かのスイッチを押されたようでした。」
自己啓発セミナーでは巧妙な集団心理操作が行われ、運営側が狙った心理状態へと誘導される。これにより勧誘にいそしむ動機を植え付けていると考えられ、外部のセミナーを優先して受けさせていることもうなずける。
また「環境」には多種多様な内部セミナーがある。入会するとまず100人規模の「スタートアップセミナー」が行われ、これが終わるとマインドセットや活動内容を学ぶ「基礎トレ」、その復習やロールプレーイングを丸一日かけて行う300人規模の「ワークショップ」が行われる。
そのほかにも、各管轄で結果を出しているメンバーが表彰されスピーチをする500人規模の「ビジネスセッション」というイベント性の高いセミナーもあるという。
これを1カ月サイクルで毎週末に繰り返していく。「環境」では、「成果=やる前提×やり方×やる量」という方程式が重要視されており、やる前提とやり方を基礎トレで学び、やる量である現場をこなすことで成果につながると指導される。
「指の骨が砕けるほどの拍手を!」と指示される
また、セミナーでは入会数はもちろんのこと「初参加」「新規友人数」「プロジェクト参加(プロジェクトについては後述)」といった形で行う表彰が毎回行われる。表彰の基準は厳しくないため、真面目に活動していればかなりの割合で表彰されるが、これにちょっとした高揚感があるそうだ。
セミナーではオーバーリアクションが推奨されており、表彰されると耳が割れんばかりの拍手が沸き起こるという。これは幹部から「指の骨が砕けるほどの拍手を!」と指示されているからだ。
この他にも師匠の話を聞く『師匠の部屋』や、師匠がさらに上位の幹部に質問する『東京カリスマ』など、幹部とのコミュニケーションが取れるセミナーもあるという。また、脱会者のDさんがもっとも記憶に残っていると語ったのが、「自己投資」と呼ばれる毎月15万円の上納金を達成していると参加できる限定セミナーだ。
このセミナーは上納金を支払っているだけで「自己投資を達成した」ということで表彰される。活動の成果ではなく、単にお金を払っているだけで表彰されることに衝撃を受けたという。
「環境」では毎週末のセミナーを通じてある種の勧誘マニュアルを教え込んでいるが、それは同時に承認の場にもなっている。数百人の前で熱烈に承認される場を普段から得られている人は稀であり、頻繁に承認儀礼を行うことで所属の動機付けをしていると考えられる。
そして、この動機付けとして団体内で強く機能しているのが「全体会議」だ。
有名芸能人も多く参加する「全体会議」
「全体会議」というのは毎月行われる「環境」全体のセミナーで、月初か月末の土日で開催される。例年は関東か関西のコンベンションセンターで開催されていたが、数千人が集まるイベントということもあって昨年の緊急事態宣言でいったん中断された。
だが、宣言解除後に復活し、今年の緊急事態宣言発令後も行われているようだ。内容としてはセミナーや表彰のほか、ゲストを招いてのインタビューや余興など、さまざまなプログラムが用意されている。また、テレビでよく見る芸能人もトークショーなどに参加していたという。
全体会議の様子。会場は幕張メッセで参加人数は3000名程度だという
筆者が確認したゲスト一覧には、テレビにもよく出演している辛口で有名な女性芸能人や若手お笑い芸人など、芸能人が数多く含まれていた。「有名芸能人がゲストとして来ているのを見ると、すごい団体に入会したような気持ちになった」とDさんが語っており、この芸能人のゲスト出演によって、入会者の心をつかんでいたと考えられる。
芸能人への出演交渉は、クラウドファンディングなどの運営を行う「環境」のフロント団体が取り仕切っているという。なお、現在でもフロント団体のホームページには、全体会議のゲストも含めた芸能人へのインタビュー記事が掲載されている。
また、初回参加の場合は、それだけで紹介者も含め会場の座席を前方に設定される。前方に座れるのは成果を出している人で、団体内では名誉なことだとされている。
さらに、新規入会というだけで壇上に上がることができ、表彰された上にスピーチの機会まで与えられる。数千人の前で拍手されるという非日常的な経験をすることで、多くの参加者が充実した気分を味わうという。このように新規参加者に充実感を与える仕組みを作っているのだ。
オンラインサロンでは身分証明書を提出させている
ほかにも、「太っている人集合」や「童貞集合」というミニイベントも開催されていたようだ。普通なら指摘されたくないネガティブな特徴だが、壇上で顔を売れるのは気分が良いため、多くの構成員が登壇していたという。
普段は自分から言うと恥ずかしい特徴も、それを材料にして目立ち、肯定されるのは快感だ。これには強引に自己開示を行わせ、承認することでカタルシスを得させて組織への所属欲求を高める効果があると考えられる。
「全体会議」は関東か関西で行われるため、長距離移動が多く発生する。その実態も過酷なものだった。
「『全体会議』への移動には『環境』が借り上げたバスが使われます。バスは四列シートで、人数が多いため補助席で過ごす人もいました。金曜日の夜に出発し、月曜日の朝に帰ってくるのですが、そのまま出社するためスーツを持ち込む人も多かったです。
補助席で東京から大阪と聞くとハードに聞こえると思いますが、当時は普段から深夜まで勧誘やミーティングをしていたため、何も現場を入れる必要のない出発前はむしろ楽でした。さらに、月曜日に帰ってきた日か、その翌日の夜には振り返りのミーティングが設定されていました。
学習してから48時間以内に振り返りを行うことで、内容を定着させるためです。また、『全体会議』に参加するためには、『環境』が管理している月額1万円のオンラインサロンに登録する必要があり、これが参加チケット代わりとなっています。この登録にはなぜか運転免許証やパスポートといった身分証明書の画像提出が必要でした。」
写真=筆者提供
「環境」のオンラインサロンのログイン画面。月額1万円で登録時には身分証明書の写真を添付しなければいけないという
「環境」ではオンラインサロン登録時に身分証明書を提出させるため、ここで主な個人情報を握られてしまう。このため、取材の中でも身元割れが強く警戒されており、実際に取材を直前でキャンセルした脱会者がいた。
構成員を動員して通販サイトのランキングを操作
「全体会議」をはじめとしたセミナーの運営は構成員によって行われており、無給であるという。「環境」ではこのような活動を「プロジェクト」と呼ぶ。
具体的には、店舗の手伝いが「店舗プロジェクト」、大規模イベントや出版の手伝いが「全体プロジェクト」と呼ばれている。「店舗プロジェクト」はオーガニックショップ開店準備や仕入れの手伝い、飲食店の従業員などを指す。
飲食店の場合は給料をもらえることがあるようだが、オーガニックショップの場合はほぼ無給。このため、無給労働を行わせる場合は、従業員ではなくインターンとして働く趣旨の誓約書を書かされるという。
また、「全体プロジェクト」というのはイベントや出版の手伝いがメインだ。全体会議の開催前にスタッフ募集のメールが流され、構成員はGoogleフォームで応募する。
この際、応募条件には「自己投資15万円達成」や「勧誘実績3人以上」といった参加資格が設けられている。出版については、幹部が出版した本をWeb購入するよう指示され、恣意的にランキングを上昇させていたという。
「出版プロジェクト」の指示メール。管轄によって指示が異なっており、書店での事前予約や、指定日にアマゾンで購入するなど、戦略的に動いていたことがうかがえる
同様に、団体が応援するアーティストの曲を同時期にダウンロードしたり、師匠のブログにアクセスすることもあったようだ。しかも、支払いは自腹である。一方で、「プロジェクト」に参加しているとセミナーで表彰されるため、無給労働や自腹購入と引き換えに構成員に承認を与える仕組みになっていたと考えられる。
勧誘の初期段階で連絡を絶つべき
「環境」はさまざまセミナーで承認機会を繰り返し用意し、芸能人を呼んで組織の大きさを印象付け、特に新入りは特別扱いして組織に染めていく。集団の前で繰り返し承認する方法はカルト集団と類似しており、所属への強力な動機付けとなっている。
そうして所属し続けているうちに、15万円の上納金を支払うだけでなく、「プロジェクト」という名のタダ働きにも参加してしまう。数千人の前で壇上に立ち、はちきれんばかりの拍手を向けられれば、手口が分かっていても心理的影響を受けることは十分に考えられる。勧誘の初期段階で連絡を絶つことを強くおすすめする。
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出生前診断で「異常なし」と伝えられたものの、生まれてきた子がダウン症だった。そんなとき、あなたはどう思い、どう行動するだろう。「命の選択」についての考え方が問われる局面で、光さんという女性は、誤診を下した病院を提訴することを決めた。
「命の選択」が問われる裁判として大きな注目を集めた訴訟。ダウン症当事者はいったい一連の裁判について、どのように感じていたのだろうか。ここでは、ノンフィクション作家、河合香織氏の著書『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(文春文庫)より、一部を編集のうえ、掲載する。
◆◆◆
そしてダウン症の子は
ダウン症でありながらも日本で初めて大学を卒業した岩元綾は言った。「赤ちゃんがかわいそう。そして一番かわいそうなのは、赤ちゃんを亡くしたお母さんです」。
出生前診断でターゲットになっているのにもかかわらず、声を発してこない、発することができなかったのはダウン症当事者だ。
ダウン症は知的障害を持つ場合が大半なために、なかなか出生前診断に対する思いを伝えることができないが、自らの思いを発信している人もいる。
鹿児島県で1973年に生まれた岩元綾は、ダウン症当事者として日本で初めて大学を卒業した経歴を持ち、『生まれてこないほうがいい命なんてない』という出生前診断について当事者の願いを込めて書いた著作もある。障害者手帳を持ったこともなく、知的な障害も身体的な障害も認められない。だが、21番染色体が3本ある21トリソミー、ダウン症であることに間違いはない。
ダウン症は、出生前診断でどの程度の重篤さで生まれてくるか診断できない。岩元のように大学に行くかもしれないし、天聖のように合併症で亡くなるかもしれない。すべては生まれてからしか判断できないのだ。写真はイメージ
家族の思いは聞いた。けれども、本人はどう思っているのか。
ダウン症と中絶が合わせて語られること
活火山である霧島山が近くにあり、自宅の風呂に温泉が出るという岩元の家を訪ねた。岩元は、メガネの奥の瞳が印象的な女性だ。隣に両親が付き添っているが、自分自身の言葉ではっきりと話す。
「えらそうに出生前診断を受けないで欲しいと言える立場でもないけれども、でもダウン症当事者としては今一度見直すべきだと思います。生まれてからわかる障害もたくさんあるのに、どうしてダウン症だけが対象になるのでしょうか。検査はダウン症を否定することになると思います。出生前診断への怒りはあるけれども、どこに怒りをぶつけていいかわからない」
そして、大きく息を吐いた。
「怒りを通り越して悲しみの方が大きい」
当事者の中にはテレビなどの報道で出生前診断について知った時に、「自分なんか生まれてこないほうが良かったのか」と悲しむ人もいるという。
そのため、日本ダウン症協会はダウン症当事者に向けたメッセージを作成した。
「新しい検査のニュースを見ましたか?」という文言で始まり、テレビや新聞では「ダウン症」と一緒に、「中絶」という言葉が出てくることを説明して、こう続ける。
〈こうしたニュースなどを見たり聞いたりすると、「ダウン症」は生まれてくると困ると言っているように思えます。それで、「ぼくは(わたしは)生まれてこないほうがよかったの?」とわたしたちに聞いた人もいます。
>
> いいえ、けっしてそんなことはありません!
>
> わたしたちは、みなさんが生まれてきたことに心から「おめでとう」と言います。みなさんがわたしたちの家族や友だちとしてそばにいてくれることに心から「ありがとう」と言います。
>
> みなさんは、勉強が苦手だったり、仕事が上手にできなかったりすることがあるかもしれません。でも、それは、どんな人にもあることです。
>
> みなさんは、「ダウン症」のない人と同じように、泣いたり、笑ったりしながら、家族や友だちと暮らしていますね〉
ダウン症と中絶が合わせて語られることに傷つく人たちがいる。
岩元は出生前診断についてその意味を知っていたし、深く考えていた。
なぜ胎児ばかりがチェックされるのか
NIPTで陰性だと言われれば、我々は安心して出産に臨めるものなのだろうか。
NIPTの検査の対象となる三つの疾患、すなわち13トリソミー、18トリソミー、ダウン症候群についてはかなりの精度が期待できる。NIPTコンソーシアムが2013年4月から2016年3月までの3年間行った臨床研究の報告では、NIPTでたとえばダウン症が陰性とされたにもかかわらず、実際にはダウン症の子が生まれてきたのは1万人に1人であり、きわめて例外的なことであることがわかる。
しかし染色体のすべての疾患のなかでこの三つが占める割合は70パーセント強であり、残り30パーセント弱の疾患はNIPTではわからない。そもそも一般的な新生児の3~5パーセントは何らかの病気をもって生まれてくる。このうち、染色体に原因があるものは4分の1程度といわれているので、仮にNIPTで陰性であっても先天性疾患全体の20パーセント以下しか否定できないことになるのだ。
なぜ胎児ばかりがチェックされ、異常が弾かれていくのか。重篤なアレルギーがあれば中絶するのか。重篤な心臓病があれば、癌の遺伝子があれば中絶するのか。これから胎児の遺伝子検査が進み、望めば生まれる前に多くのことが判明する社会になるだろう。
多様な子どもたちと生きる知恵とは何か。
無力な私には、答えはまだ出せない。
パンドラの箱を開けた
しかし、わかることもある。知恵を振り絞って意見を出し合い、どんな意見もタブーにせずに光が当たるところで議論していくことでしか私たちは生き残ることができない。
出生前診断を受けたいと思う気持ちを排除しない。
産めないと思う人を責めない。
産みたいと思う人も受け入れる。
生まれた子も大切な仲間として共に育てる。
違う意見であっても互いに認めて議論していく。
技術はそれでも進歩する。追いつけないかもしれない。けれど、私たちは文化という知恵を持っている。その武器を持ち、対話を積み重ねることが私たちを救うことになるのではないか。
光の裁判は「こんな裁判を起こすことが問題だ」と何度も言われた。インターネットでも識者からも責められた。私がこの裁判を取材し、文字にすることを暗に責めている人もいるように感じた。
それでも問いかけたかった。
光は私たちが放置してきた母体保護法の矛盾、優生思想、医療の疲弊、そんなねじれの中に陥ったのだ。そこから見えてくるものは大きい。パンドラの箱を開けたのだ。開いても皆が無視して、なかったことにするかもしれない。本人もそんなつもりはなかったかもしれない。それでも開けたのだ。
傷つけるかもしれない。不快感を持たれるかもしれない。恐る恐るであった。それでも、私はどうしても聞きたかった。
岩元に光の裁判のことを話した。写真はイメージ
岩元は詰ることなく、怒ることもない。静かに考えた末に、こう語った。
「赤ちゃんがかわいそう。そして一番かわいそうなのは、赤ちゃんを亡くしたお母さんです。検査を受けざるを得ないことがかわいそう。苦渋の選択を迫られるお母さんはかわいそう」
岩元は誰よりも光の悲しみの核を見抜いていた。
「私が言えることは、生まれてきて良かった、産んでくれてありがとうということです。できたら妊婦さんには授かった命はまっとうして欲しいけれども、個々人の事情によってはできないこともあるから、もしもまっとうできなかったとしても、今ダウン症として生きている命があることを忘れないで欲しい」
河合 香織
かわい かおり
1974年生まれ。神戸市外国語大学卒。主な作品に『セックスボランティア』『帰りたくない 少女 沖縄連れ去り事件』。『ウスケボーイズ 日本ワインの革命児たち』で、小学館ノンフィクション大賞を、『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』で大宅賞と新潮ドキュメント賞をW受賞。
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『日本の血脈』より
民間人が皇室入りするにあたっては、私たちにははかり知れないほどの困難があるだろう。しかし、紀子さまはそのような困難を乗り越え、皇統に関与する宮家の一員として、積極的に公務に取り組まれている。紀子さまの“強さ”はいったいどこから湧いてくるのだろうか。
ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。紀子さまの母である杉本和代氏のルーツ、そして紀子さまの生い立ちを振り返る。
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
◆◆◆
もうひとつのルーツ
杉本和代は杉本嘉助、栄子夫婦の長女として昭和17年、静岡に生まれた。
当時、一家は満洲国の奉天で暮らしており、栄子は出産のために静岡に一時里帰りし、無事、出産を終えると、愛児を胸に夫の待つ奉天へと再び戻っていった。
嘉助の生家は静岡で箪笥や鏡台をつくる家具製造業を営んでおり、嘉助も家具職人となることを父に望まれた。だが、勉強がよくでき、また教師の熱心な勧めもあって、旧制の県立静岡工業を卒業すると、奨学金を得て横浜高等工業学校機械工学科(現・横浜国立大学理工学部機械工学科)に進んだ。その後、技術者として満鉄に就職して渡満し、同じく静岡出身で満鉄社員であった服部俊太郎の娘、服部栄子と結婚したのである。
夫婦は最初に長男を授かったが、満洲の厳しい気候の中で病気になり、間もなく他界した。これを父親の嘉助は大変に悔やんだ。その後、長女の和代も満洲の寒さの中で長男と同じような症状を起こした。嘉助は医者に頼らずに自分の手で和代の背中をさすって介抱したという。この時の経験が、後の嘉助の生き方を決めることになる。
敗戦を一家は奉天で迎えた。満洲での日本人の立場はその日を境に大きく変わった。さまざまな悲劇が起こった。だが、満鉄の技術者であった嘉助は、こうした他の日本人たちとは少し異なる戦後を送った。占領軍となった中国側が、その技術力を欲したためである。技術者だけ集められた地域に囲われて暮らし、中国の人々に技術を教えた。故に、略奪や飢えの恐怖を味わうことはなかったという。
ようやく帰国の途に就くのは、2年後の昭和22年。嘉助一家は、家族全員がそれぞれリュックひとつを背負って引き揚げ船に乗った。満洲で築いた財産は全て失い、その後、故郷の静岡で新しい生活を始める。2020年、秋篠宮さまお誕生日に際してのご近影。紀子さまは秋篠宮さまと腕を組んで。
満鉄の技術者であった嘉助は、医療器具の開発に取り組んだ。ようやく納得のいく機械が完成し、嘉助は日本とアメリカの両方で特許を申請した。昭和33年から、いくつかの特許が下りた。結局はコストがかかりすぎて、製品化には漕ぎつけられなかったが、そこで機械を販売するのではなく、機械をつかった治療をしようと考えて、整体の治療院を立ち上げる。
その治療院は、かつて静岡駅近くの泉町にあった。東海道線が通る線路の近くで、ひっそりと営んでいたという。近所の人は語る。
「ああ、そこにありました。その路地を入っていった、奥に治療院があったんです。でも、ある日突然、治療院をやめてしまわれた。その後、間もなく紀子さまのご婚約の発表があり、とてもびっくりしたことを憶えています。杉本さんは穏やかで上品な、いい方でした」
杉本夫妻には娘がふたりいたが、慎ましい生活を送る中でも、教育費は惜しまず、静岡英和女学院というミッション系のお嬢さん学校に通わせた。その後、長女の和代は高校を卒業すると、東京の昭和女子大学短期大学部に進学する。
紀子さまの誕生
そして、この短大時代に東大在学中の川嶋辰彦と出会う。当時、辰彦は駒場祭での催し物の費用を捻出するために、同級生たちとダンス講習会を主宰していた。その講習会に、友人とともにダンスを習おうとやってきたのが和代だったという。
和代は短大を卒業すると、静岡に戻り、地元の企業に勤めた。だが、東京と静岡に離れても辰彦との縁が切れることはなく、ふたりは間もなく結婚した。とはいえ辰彦はまだ経済学を学ぶ大学院生、会費制でささやかな結婚式を挙げた。
昭和41年、ふたりは子どもを授かった。和代は静岡の生家で出産した。夫妻はこの子を紀子と名付けた。
紀子が生まれた昭和41年は、実は大変に出生率が低かった。その理由は干支にある。この年は丙午だった。丙午の女児を授かることを避けたいという親が、当時はまだ多かったのだ。だが、川嶋夫婦は、もちろんそのような旧弊な考えを持ち合わせてはいなかった。
辰彦は紀子が生まれた翌年、東京大学大学院を修了し、アメリカのペンシルベニア大学大学院に留学することが決まった。一家はフィラデルフィアに移住する。
人種による差別感情などを持たない人間にという願い
その生活は6年にわたり、紀子はここで現地の幼稚園と小学校に、それぞれ1年ずつ通った。辰彦は子どもの教育を考えて、この時、日本人学校や白人だけが集まる学校を避け、あえて生徒や教師の多くが黒人である現地校を選んで娘を入学させたといわれる。肌の色や人種による差別感情などを持たない人間になって欲しい、との願いがあった。辰彦を知る人は語る。
「本当に学者タイプで、少し浮世離れした方です。穏やかで絶対に怒らない。どんな相手に対しても常に敬語で話します。また人間は常に対等であるという考えで、日頃から『自分は国籍や肌の色による差別、他、あらゆる差別意識に反対の立場を取る』と発言しています。
親子関係でも親が子どもより上という考えは持ちたくない。一つの人格として子どもを見て、対等な関係で接するようにしたと聞きました。だから小さな子どもにも敬語で話すのだと。夫婦関係ももちろん対等、また生徒と教師の関係も、上下ではなく対等で平等であるべきだという思想の持ち主です。専門は計量経済学ですが、授業では、そういった問題意識から被差別問題なども取り上げています」
そんな父と、学者肌で理想主義者である夫を支える母のもと、異国のアメリカで紀子は育った。家での親子の会話は全て英語だった。紀子は6歳まで英語を母国語として育つ。昭和48年7月 米・フィラデルフィア・リー・スクールに通われている紀子さま 宮内庁提供
紀子が小学1年生の時、父が日本で就職することになり帰国した。ちょうど母の和代が妊娠中だったため、紀子は母とともにアメリカから戻ると、まず静岡の杉本家で暮らした。静岡市立中田小学校1年に編入している。紀子は少しも日本語が話せず、アメリカとはシステムも文化も何もかもが違う日本の小学校に戸惑いを見せたという。当時を知る人が語る。
日本の小学校に編入した紀子さまの戸惑い
「『給食を残してはいけない』『帽子をかぶらなければいけない』といった学校の規則を知って不思議に思ったようです。時には『帽子をかぶりたくない』といって駄々をこねることもあったようです。けれど、それでも、『学校に行きたくない』と言って周囲を困らせるようなことは一度もなかったと聞きました」
和代は、この静岡滞在中に紀子の弟にあたる舟を無事出産した。3か月の静岡滞在を終えて、3人は東京に移った。紀子は新宿区立早稲田小学校1年に入学し、約2年間通学する。だが、ちょうど父が学習院大学に就職したため、昭和50年4月からは豊島区立目白小学校3年に転校し、さらに同年、母、和代の考えにより学習院初等科の編入試験を受けて合格、翌年には、学習院初等科4年に編入した。
その翌年には辰彦がオーストリアの研究所に赴任することになり、また転校を余儀なくされる。オーストリアはドイツ語圏であるため、現地ではアメリカン・スクールに通学した。紀子が通った小学校は、アメリカを皮切りに実に6校に及ぶ。しかも外国から日本国内、それも市立から学習院という特殊な私立学校まで変化に富んでいる。その後、2年間のオーストリア生活を終えて昭和54年に帰国、学習院の女子中等科1年に編入したが、2年間の外国生活によって、日本語はまた後退してしまったのだろう。大変にたどたどしかったという。
「紀子さまスマイル」
それにしても、実に目まぐるしい幼少期である。外国に行けば東洋人の少女は異国人であったろうし、日本に戻れば言葉が通じなかった。「笑顔は万国共通」というが、「紀子さまスマイル」と言われた、その笑顔の原点は、この幼少期に起因するのかもしれない。どんな環境でも相手の感情を見抜き、周りに順応して異分子とならぬように溶け込んでいく。この特異な経験が紀子を鍛えた部分もあるだろう。トリノ五輪壮行会に参加される秋篠宮紀子さま 文藝春秋
昭和54年以降、辰彦は長く外国に滞在することはなくなり、学習院大学に落ち着いた。紀子も学習院女子中等科に入ってからは、転校を経験することはなくなる。
日本語力には相当なハンディがあり、それ故、学業には苦労した部分もあったことだろう。だが、高等科を卒業し順調に学習院大学に進学した。大学は男女共学であり、一学年の人数も一挙に膨れ上がる。その広いキャンパスの中で、礼宮と呼ばれていた、後の秋篠宮に出会う。
礼宮は、昭和40年のお生まれ、紀子より一つ年長であった。
構内の本屋で礼宮がたまたま紀子を見かけ、その後、ご自身が主宰される「自然文化研究会」というサークルに勧誘し、交際が始まったといわれている。学習院大学入学時の秋篠宮紀子さま 宮内庁提供
礼宮は愛車に紀子を乗せて葉山などへドライブに誘い、また、お住まいにもたびたびお招きになった。学習院近くのスナックでお酒を飲まれることもあり、自然文化研究会のサークル活動として、お二人はお仲間と一緒に木曾路や熊野などに泊まりがけの旅行もされた。そこに宮内庁の影はなかった。礼宮はいわばご自身の考えと行動力で、伴侶となる女性を見つけ、普通の若者がするような自由な交際を重ねていったのだった。
美智子妃や雅子妃の場合、皇太子からの強いアプローチがあったとはいえ、その過程には、宮内庁をはじめ、周囲の人々がさまざまな形で関与している。交際といっても、電話や手紙、あるいは、じかにお会いになるとしても、その機会は数えるほどであったろう。だが、礼宮と紀子の交際は、こうした皇室の伝統に縛られなかった。それが許されたのは礼宮が皇太孫ではなく、弟宮であったからだろう。
「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に
やがて、ご婚約が発表されると、その日から、「川嶋紀子」は「正田美智子」以来の、皇室最大のスターとなった。かつて、これほど弟宮の結婚が大きく扱われたことはなかったはずだ。昭和天皇崩御の直後とあって、国民は皇室の慶事を待ちわびていたのかもしれない。
とはいえ、もちろん、このご婚儀に関して批判が全くなかったわけではない。
「伝統を最も重んじなくてはいけないはずの家が、なぜ、昭和天皇の喪中に婚約など許したのか」
「長幼の序というものがある。先に弟宮のお妃が皇室に入っては、後からお入りになる皇太子妃がやりにくくなるのではないか」
「将来、皇太子妃が男子に恵まれなかった場合、皇統に関係する。その時のことを考えて、きちんと選んだといえるのか」
そんな声を払拭したのは、国民の紀子妃への熱狂だった。婚約者時代から始まった「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に変わって続いた。
国民は「3LDKのプリンセス」と呼ばれた女性が、果して皇室に馴染んでいけるのか、固唾を飲んで見つめた。それは幸い杞憂となった。紀子妃は折れなかった。
紀子妃誕生に遅れること3年。皇室に、ついに皇太子妃が迎えられた。だが、すでに紀子妃誕生を経験した国民には、どこか既視感があった。華やかな宮中行事もすでに紀子妃の時、マスコミに散々紹介されていた。
ご成婚前から雅子妃はマスコミにさんざん追いかけ回されるという辛い経験をされていた。紀子妃はお妃候補と騒がれる前に、正式に婚約者として紹介されている。婚約者と候補者では、報道陣の態度や報道姿勢がまったく異なる。
雅子妃が受け続けた無遠慮な批評
あくまでも一般人の、お妃候補の一人でしかなかった雅子妃は、そのため誰からも守られることなく、記者たちに追われ、たびたび雑誌やテレビで取り上げられては、無遠慮な批評を何年間にもわたり受けることになった。お辛かったことであろう。雅子妃はご結婚後、当時のトラウマから写真のフラッシュに恐怖をお感じになるようになったと言われる。ご病状は重くなり、やがて適応障害という病名が発表された。宮内庁提供
対照的に紀子妃は皇室に、見事に適応された。それだけでなく、自己実現を果たされていったようにも見える。公務には積極的で、色鮮やかな皇室ファッションで様々な行事に参加され、次々と新しいことにチャレンジし、現在は、日本学術振興会の名誉特別研究員として、お茶の水女子大学にて心理学の研究に再び取り組まれている(編集部注:2017年6月にお茶の水女子大学の人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任)という。悠仁親王を、それまでの前例を破って学習院ではなく、お茶の水女子大学附属幼稚園に入学させることができたのも、このことと無関係ではない。雅子妃が民間人であった時の輝きを失っていかれたのとは対照的だ。天皇皇后両陛下御結婚50年祝賀午餐に参加される秋篠宮紀子さま
川嶋家の家系を見つめてみると、貧しさと逆境の中から艱難辛苦を乗り越え、時代に適応していった人が多い。
農家の三男として生まれ和歌山市視学になった川嶋庄一郎、会津城で戦い斗南に流されながら、新政府のもと、大阪市長となった池上四郎、同じく幕臣として五稜郭で戦い、その後、新政府で陸軍参謀本部測量部長という要職に就いた小菅智淵、あるいは満洲鉄道で働き、リュックサック一つで引き揚げた杉本嘉助。皆、ハンディを背負い、あるいは負け戦を体験し、時代に翻弄された人々である。だが、そこで運命に押しつぶされることなく時代の変化の中で、自分の処し方を見つけ、第二の人生を切り開いていった。
紀子妃は昭和天皇が崩御された後、宮中にお入りになった。あのご婚約から平成という時代は始まり、秋篠宮夫妻の歩みは、そのまま平成という時代に重なっている。
喪を払う寿ぎ
東日本大震災が起り、日本中が悲しみに包まれた、その年の秋、紀子妃の第一子、眞子さまが成人され、ティアラを頭に頂いた煌びやかなローブデコルテのご正装姿を披露された。その時、二十数年前に服喪の中、濃紺のワンピースを着て記者会見に臨まれ、たどたどしい言葉遣いで喜びを見せた、かつての紀子妃の姿が一瞬思い出された。御成年にあたり天皇皇后両陛下に御挨拶される眞子さま
不幸の中の慶事。喪を払う寿ぎ。それがこの宮家の、ひとつの宿命でもあるのだろうか。
現行の皇室典範が改正されなければ、紀子妃がお産みになった悠仁親王が、天皇になられる可能性が高い。(編集部注:2020年、秋篠宮殿下は皇位継承順位1位の皇嗣となり、悠仁さまは皇位継承順位2位となられた)ご成婚の当初、「皇統には直接関係しない」あるいは、「弟宮だから」と見られたご一家は、「皇統に関与する宮家」へと、大きく変貌を遂げられたのだった。初めての記者会見で、恥ずかしげに言葉を選んだ乙女は、3人の親王、内親王の母となられた。
下記はAERAdoからの借用(コピー)です
お腹がスッキリしない「停滞腸」にご用心 対策は納豆に意外な「ちょい足し」
「食後、下腹部が出る」「いつもおなかがスッキリしない」。そんな症状に身に覚えがあれば、「停滞腸」の可能性がある。どうすれば改善できるのか。AERA 2021年6月14日号は医師に聞いた。
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「コロナ禍が始まってからは、先がどうなるか分からない不安や、在宅勤務で活動量が激減したことから、『停滞腸』がより増えているように思います」
こう指摘するのは、医師で松生(まついけ)クリニック(東京・立川)院長の松生恒夫(つねお)さん。健康な腸は、腸管の口側が収縮し、肛門(こうもん)側が弛緩(しかん)して内容物を先へ押し出す蠕動(ぜんどう)運動が絶え間なく起こっている。停滞腸は、蠕動運動の動きが悪く、便や老廃物が完全に排泄されなくなった状態で、松生さんの造語。腸内環境が悪化するので、ガスが発生しやすくなり、腹部膨満が起こる。停滞腸を放置すれば、肌荒れ、食欲不振、胸焼け、むくみ、肥満につながりかねない。
松生さんによれば、停滞腸に陥る人には、共通点があるという。「野菜や果物をあまり取らない」「水分を意識的に多くとっていない」「朝食を抜いている」「1日3食きちんと食事していないことがよくある」「外食が多い」「肉や脂肪分の多い食事が好き」「いつもおなかがスッキリせず、体も重たく感じている」「食後、下腹部が出る」「運動習慣がない」「最近、不安やストレスを感じる」──などだ。あなたはどうだろう?
■1週間で違いを感じる
「停滞腸は、食生活や生活習慣との関わりが大きい。ほんの少しの変化でも、影響を受けて、働きが悪くなります。しかし言い換えれば、食生活や生活習慣を良い方向に持っていくことで、停滞腸が改善されます。腹部膨満が出て間もない人なら、1週間で腸の違いを感じます」
松生さんが勧めるのは、六つの習慣で成り立つ「腸内リセット」法だ。(1)朝は1時間ほど余裕を持って起きる、(2)目覚めてすぐにコップ1杯の水を飲んで、腸をしっかり働かせるスイッチを入れる、(3)朝食を食べ、排便に重要な「大蠕動」を起こす。
「朝の大蠕動は、朝食後1時間以内に起こり、一日で最も強い便意です。時間がないからと便意を我慢すると、便秘につながりやすく、停滞腸を招きます」
さらに、(4)味噌、しょうゆ、漬物などの発酵食品に含まれている植物性乳酸菌をとる(FODMAPの悪影響を受けている人は除く)、(5)水溶性と不溶性の食物繊維をバランス良くとる、(6)食事は野菜やキノコ類の食物繊維から食べ始め、肉や魚のメイン、最後にご飯を少量とる。
「食物繊維に関しては、やみくもに量をとればいいというのではありません。水に溶けやすい水溶性と、水に溶けにくい不溶性を1対2の割合でとるのが理想的です」
不溶性食物繊維だけが多いと、便が硬くなったり、水分不足で腹部膨満が強くなったりする恐れがある。食物繊維にバリエーションを持たせて食べると良い。
これらに加えて、松生さんが提案するのは、オリーブオイルを毎日とること。
「オリーブオイルに含まれるオレイン酸は一時的に多量に摂取すると、小腸まであまり吸収されることなく腸内に残ります。そして腸内の便を軟らかくし、また腸を刺激し、排便を促す蠕動運動を活発にする働きがあります」
年をとると腸の働きが悪くなるため、高齢者から停滞腸について相談を受けることが、松生さんはよくある。オリーブオイルを提案すると、「食べ慣れていないから」と言われることもあったが、“ある食べ方”を紹介するようになってからは、「おいしい」と好評。「病みつきになって、毎日食べています」という人も出てきた。
■クリーミーで匂い消失
その食べ方は、オリーブオイルを納豆にかける方法。何も入れずに納豆をよくかき混ぜ、納豆を持ち上げるとしっかり糸が引くくらいまでネバネバになったら、オリーブオイルを大さじ1杯程度入れ、納豆全体になじむようにさらにかき混ぜる。
オリーブオイルは、エキストラバージンオリーブオイルを使う。最後に、付属のタレやしょうゆを加えてまんべんなく混ざったら出来上がり。納豆が非常にクリーミーになり、独特の匂いも消える。
「納豆そのものが消化がよく、水溶性食物繊維も豊富。オリーブオイルと納豆は意外な組み合わせかもしれませんが、停滞腸対策としては、抜群に相性のよい食材なのです」
(ライター・羽根田真智)