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幸福の科学高知 なかまのぶろぐ ばくちゃんより
仏教では、「自己卑下」も、「慢心」なんですって⁉
本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。
毎度毎度、大した悟りもないくせに、皆さまのご愛顧と、温かいはげましのおかげをもちまして、
今日も記事をお届けでき、感謝の思いで一杯でございます。
私はこうして布教ブログの編集長をしてはおりますが、実は宗教のことには苦手意識があります。(笑)
たとえば、歴史や地理や、自動車を始めとする産業関係など、宗教や政治の周辺記事なら何本も書けるのに、
「愛について書け。」と言われたら、1本書くのに、もだえ苦しみます。(爆笑)
ここに、私の悟りの限界があります。
そう私は、特に「愛」は苦手なんです。
看護師の仕事をしているのに、職業訓練が身についていなくて申し訳ないのですが、家庭や職業を通して、
「愛とは何か」を学んでいるのだと思っております。
で、苦手な愛は、また今度書くとして(笑)、仏教では慢心を戒めますが、この慢心について、
これまた私の偏狭な、偏りきった私見を述べさせていただきたいと思います。
そしてお釈迦様は、同時に、自己卑下にも名前を付けていらっやるようです。
それを仏教用語で、『卑下慢・ひげまん』というそうです。
謙虚さをなくし、驕り高ぶって人を見下す慢心が『増上慢』です。
自己卑下も慢心???
まあ、増上慢も卑下慢も、『向上する意欲がない』そして、『学ぶ姿勢なし』という意識においては
同じなのだろうと、推測いたします。
増上慢も卑下慢も、人間関係の中での現象であることに間違いはありません。
たった一人で慢心したり、自己卑下に陥ることは、余程の妄想体質でなければ(笑)、不可能だろうと私は思います。
そして増上慢と卑下慢、そのどちらも共通するキーワードは、『私だけは特別』ということではないでしょうか。
卑下慢の事例で言えば、
確かに、増上慢・卑下慢に陥るには、それなりの背景や、過去の経歴があったと思うんです。
自分が他の人より優れていたこと。そしてその逆で、自分は他の人より劣っていたことなどです。
それは事実かも知れません。
ですが、しかしそれにはある言葉を、前振りとして付け加える必要があると僕は思います。
それは、「特定のある分野においては。」という言葉が抜かっていると思うんです。
増上慢・卑下慢に陥いるだけの経験をなさっていたとしても、それは全人類を対象としたものではないはずですし、
歴史的検証をした訳でもないはずです。
たとえば、登板すれば全て勝利する、絶対的な野球のエースピッチャーであっても、その方は食べ物一つ作れません。
怪我をしたって、自分で治せません。
かっこいい自動車に乗っていても、それはその方が作ったわけでも、その方が、外国から仕入れた訳でもないんです。
またたとえば、たとえ一時期、他人との比較で自己卑下に陥っていたとしても、
後々評価されるものではないのか。
少なくとも、増上慢も卑下慢も、この世の特定の、狭い範囲においての人間関係の中における比較でしかないので、
その比較に追われている限り、人は決して悟れないはずです。
なぜなら、人間は一人では生きては行けないからです。
少なくとも、この世においては。
その事実すら、その方の考察には、入ってすらいないということなんです。
そこではなはだ僭越(せんえつ)ではありますが、『増上慢と卑下慢の中道』という考えが、あり得るのではないか。
つまり、増上慢と、卑下慢の否定であり、中道です。
「自分より優れた方がいたら、素直に学んで行こう。」と思うこと。
増上慢と卑下慢の中道であったなら、以前なら慢心していたシーンでは、むしろ身を引き締めにかかり、
そして、以前なら自己卑下に陥っていたシーンでは、優れた素晴らしい方々に
どちらも幸福であるはずです。
>ちなみに、私は慢心傾向があるので、今は想像で書いています。(爆笑)
想像ぉ?ヽ(。´Д`)ノ一生懸命、ふむふむと読んでたらぁ~~。
でも、自己卑下的な人って、結構プライド高いんだよね。
・・何か指摘されるとグサッて来た場合の念返しの恐ろしさ・・・
※映画、「キャリー」並みのエネルギー。
この記事は機嫌よく読ませていただけました。気をつけよ~。
キャリーの大逆襲。昔、初めて見た時の衝撃は大きかった。共感できた自分に驚く。リメークですが、何年たっても語り継がれる・・
1976年にブライアン・デ・パルマ監督の実写版もヒットした、人気ホラー作家スティーヴン・キングの代表作を再映画化。
http://www.cinematoday.jp/movie/T0016050