私は中国歴史が好きなのですが、こう書くと「故事から君主とは…名臣とは…」という話になると思われる方も多いと思いますが、今回はそうではありません。(そういう展開も好きは好きですが)
また、この手の話題はその背景や関連人物(さらにその背景)にまで話しが及ぶと、大河ドラマみたいになってしまうので、超々ダイジェスト風にいきたいと思います。
紀元前の中国は戦国時代と呼ばれる時代があり、列強が群雄割拠しておりました。当時「斉」という国が力を持っており、隣国の「燕」は斉の謀略により王を謀殺され属国扱いを強いられながら、報復の機会をうかがっていました。
そこで、まず楚、韓、魏、趙と五ヶ国で連合し斉軍を打ち破り、そして燕一国は楽毅(がつき)の陣頭指揮で斉を蹂躙し、国都をはじめ70余城を獲り、ほぼ斉を手中にするという大躍進を遂げました。
そして残り2城をあとわずかで落城する…というところで、燕本国では王が崩御し次の王が即位し、そして楽毅は司令官を交代させられることになりました。
ちなみに楽毅というのは非常に優れた将軍で、各国が渇望するほどの人物です。
楽毅は燕に戻って謀殺されては先王に申し訳が立たないと、趙へ亡命しました。
ではなぜ交代になったかというと、斉の2城で抵抗していた「田単(でんたん)」という将軍が次王と楽毅の仲があまりよくないことを利用し、間者を放って噂をバラまき、それを信じた燕王が楽毅を罷免したのです。
司令長官の変わった燕に対し今度は田単が大反攻を開始し、わずか1年で70城を全て獲りかえしてしまいました。そして逃げていた王を国都に迎え、斉は息を吹き返しました。
しかし、斉の王も田単が小役人の出であることなどから尊重しないことが多く、その後趙王に迎え入れられて宰相に奉じられました。
さてこの二人、共に私利私欲ではなく国のために闘い、しかしながら主君に冷遇され、楽毅は亡命の憂き目にあいますが、共に趙へ行くことになります。田単は燕軍を破ってから10年後に移ったことになるそうです。二人とも生年没年は不明であり、また私が知る限り二人が趙において交友を深めたという記録はないようですが、その時期からすると趙で顔を合わせている可能性はないとは言えないでしょう。
二人が直接矛を交えたことはないにせよ、死力を尽くして戦ったことを趙において互いに杯を交わしながら談笑したかもしれない………と思うと、なんとも不思議な、またある種の清々しさを感じずにはおれません。
この後趙からは、趙奢、藺相如、廉頗といった優れた人物が現れたことから、もしかしたらそういうことがあったのかもしれません。
いや、歴史は面白いです。
ps
ここに書いた二人が趙であったかもしれないというのは、私の浅い知識の範囲内の「想像」ですので、もし史実をご存知の方がおられましたら、コメントをいただければ嬉しいです。
また、楽毅、田単、廉頗と一発変換されたのは少々驚きました。
金型、金属加工について何でもお問い合わせ下さい。
有限会社木村製作所
http://www7b.biglobe.ne.jp/~meister-kimura/
また、この手の話題はその背景や関連人物(さらにその背景)にまで話しが及ぶと、大河ドラマみたいになってしまうので、超々ダイジェスト風にいきたいと思います。
紀元前の中国は戦国時代と呼ばれる時代があり、列強が群雄割拠しておりました。当時「斉」という国が力を持っており、隣国の「燕」は斉の謀略により王を謀殺され属国扱いを強いられながら、報復の機会をうかがっていました。
そこで、まず楚、韓、魏、趙と五ヶ国で連合し斉軍を打ち破り、そして燕一国は楽毅(がつき)の陣頭指揮で斉を蹂躙し、国都をはじめ70余城を獲り、ほぼ斉を手中にするという大躍進を遂げました。
そして残り2城をあとわずかで落城する…というところで、燕本国では王が崩御し次の王が即位し、そして楽毅は司令官を交代させられることになりました。
ちなみに楽毅というのは非常に優れた将軍で、各国が渇望するほどの人物です。
楽毅は燕に戻って謀殺されては先王に申し訳が立たないと、趙へ亡命しました。
ではなぜ交代になったかというと、斉の2城で抵抗していた「田単(でんたん)」という将軍が次王と楽毅の仲があまりよくないことを利用し、間者を放って噂をバラまき、それを信じた燕王が楽毅を罷免したのです。
司令長官の変わった燕に対し今度は田単が大反攻を開始し、わずか1年で70城を全て獲りかえしてしまいました。そして逃げていた王を国都に迎え、斉は息を吹き返しました。
しかし、斉の王も田単が小役人の出であることなどから尊重しないことが多く、その後趙王に迎え入れられて宰相に奉じられました。
さてこの二人、共に私利私欲ではなく国のために闘い、しかしながら主君に冷遇され、楽毅は亡命の憂き目にあいますが、共に趙へ行くことになります。田単は燕軍を破ってから10年後に移ったことになるそうです。二人とも生年没年は不明であり、また私が知る限り二人が趙において交友を深めたという記録はないようですが、その時期からすると趙で顔を合わせている可能性はないとは言えないでしょう。
二人が直接矛を交えたことはないにせよ、死力を尽くして戦ったことを趙において互いに杯を交わしながら談笑したかもしれない………と思うと、なんとも不思議な、またある種の清々しさを感じずにはおれません。
この後趙からは、趙奢、藺相如、廉頗といった優れた人物が現れたことから、もしかしたらそういうことがあったのかもしれません。
いや、歴史は面白いです。
ps
ここに書いた二人が趙であったかもしれないというのは、私の浅い知識の範囲内の「想像」ですので、もし史実をご存知の方がおられましたら、コメントをいただければ嬉しいです。
また、楽毅、田単、廉頗と一発変換されたのは少々驚きました。
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