センムのブログ

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第4回 聖書から見る国際問題-3

2011-10-18 | 日記
最初に断っておきますが、ユダヤ人迫害の背景というのは多くの側面と、非常に複雑な宗教的、民族的な考え方があり、一方的な見方考え方をしてはいけないのですが、それを言及するのではないので、ある一方から見方として受け取ってください。

さて、イエスを十字架につけたことによって事無き(?)を得たと思いきや、そのイエスの弟子たち(十二弟子と言われる)が復活した(とされる)イエスを延べ伝えるという伝道活動を開始します。そして、その弟子及び信者(初代教会)を迫害する、いわばイエスの残党狩りの主導者であったパウロまでもがイエスを延べ伝えるにいたりました。
そのパウロは異邦人(この場合はユダヤ人以外)に伝道したということもあり、またたく間に世界中に広まります。
当時、世界を支配していたローマ帝国の国教にもなりました。

こうしてイエスはユダヤ人の手を離れ、キリスト教の神として広がっていきます。

ここで一つ疑問がでてきますが、なぜユダヤ人のために現れたイエスが、異邦人の神としてキリスト教になってしまったかというと、前述のパウロが異邦人伝道したことと、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になったとする「置換神学」によるものです。
この新しいイスラエルというのが、民族としてではなく、霊的、信仰的にイエスを信じるものは、新しい選民であるとする考え方です。

このことにより、神聖なるイエス様を十字架につけたユダヤ人は忌むべき者となり、迫害されることになりました。
ユダヤ人側にとっても、自分たちへの迫害は、イエスと十字架が旗印となっているので、それらは忌み嫌うべきものになってしまいます。
ユダヤ社会では、新約聖書は発禁本扱いとなり、数学などで使うプラス"+"は十字架に見えるというので、アルファベットのTを逆さまにした記号が使われているそうです。

これらのことにより、ユダヤとキリスト教社会は、お互いに敵対する構図が出来上がってしまいました。

これで、大雑把に背景の説明となるのですが、次回、まとめとしてみたいと思います。


第1回  国際問題の解決の道をある一面から言うと…… http://blog.goo.ne.jp/sakura448/d/20111012
第2回  聖書から見る国際問題-1  http://blog.goo.ne.jp/sakura448/d/20111014
第3回  聖書から見る国際問題-2  http://blog.goo.ne.jp/sakura448/d/20111017