私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書12 『図説雑学 パラドクス 富永裕久 著』

2020年04月16日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『図説雑学 パラドクス 富永裕久 著』

この本を読んだときに、思ったことを書きます。

言語は、人間の知能において最高のものだと思っていました。
私の問いに、「一秒たりとも苦を感じないでいられる思考はあるのか?」というものがありました。
例えば、「前世では逆のことをしたから仕方ない」「この世は魂の修行場」「児童虐待は親も虐待を受けたことによる連鎖」こんなふうに今の苦境を受け入れるための思考っていろいろあります。その究極が「一秒たりとも苦を感じないでいられる思考」です。「快を常(じょう)とするための思考」のことです。
結果、そんなものは存在しないという思考に落ち着きました。言語は、日常の範囲内でしか役に立たないものだと思いました。人間の知能において最高のものというような輝かしいものではなくなりました。一見、優秀そうな“言語”というものに、思考が停止するほど落胆しました。生命維持はするロボット状態になりました。
不完全な状態がこの世の基本の状態と理解しました。(今は、言語に頼ってブログを書いています。)

範囲を限定しないと思考は使い物にならない。「おなかがすいた」「ありがとう」「ちょと待ってて」思考は、日常の範囲で使うもの。
思考によって独立自存の絶対の真理はつかめない←この思考も独立自存在の絶対のものではない←このように突っ込み入れる思考も独立自存の絶対のものではない←以下無限
何もかもが確定しないことすら確定しないことすら確定しないことすら確定しない・・・以下無限
無記か沈黙かするしかない。数学も例外ではないです。というより、そもそもこの世の全ては数学的です。
何をどう思考するかは、本人の好みになります。それが数式に従います。
この世にあらわれるには、有限の範囲に振動し循環しなければなりません。循環振動することによって有限が存在できます。
端っことか、確定とか、存在しなように設定されてこの世は存在します。

それでも、唯一、常(じょう)は存在します。全知は存在します。それは、この世と反この世を一度に全て観ることです。反この世の“反”は反物質の“反”と同じ意味です。
この世の存在は、波の性質で展開するので、全てを観ることは、干渉して潜在し一見、無の状態に至ります。それは無次元の点であって、常です。
全てが無でも存在するのが観自在です。観る自己が存在するという意味で、自己感のことです。普段使っている「私」という主観のことです。「私」は無次元の点に割り当てられた情報で、時空に遍在します。「私」は、唯一として存在し、全ての人に共有されています。全ての人は同一人物となります。誕生と死は、端っこではないことになります。誰かの前世来世ではなく、全て自分の前世来世です。そして、悟りとは、むきだしの「私」を領解することです。

今回の読書P214 輪廻転生のパラドクス~転生を考え、すべての自我が本質的に同じと考えると~「いま」これを書いている私と、時空を隔てて「いま」これを読んでいるあなたは、ひょっとすると同一人物かもしれない。(引用終わり)

『図説雑学パラドクス』の最後の二行の文章です。
ここを読んだとき、体験ではなく、思考のみでこの思考を持つ人がいることにとても驚きました。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

 


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