夕風桜香楼

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【史伝旅行記】あの赤マンテルを撃て ――篠原国幹、最期の地

2010年09月21日 22時45分55秒 | 旅行


    君見ずや、吉次の険は城よりも険なり
    突兀、空を摩して 路、崢嶸……
(佐々友房)


 明治10年西南戦争において、有名な田原坂と並んで最激戦地となったのが吉次越(吉次峠)である。


田原坂より見た吉次越方面。

 吉次越は、田原坂より南西へ約5kmほどの地点に位置する小高い峠である。東西を結ぶ坂道の幅はせまく、また左右を半高山(はんこうやま)と三ノ岳(さんのたけ)との峻険に囲まれている。


吉次越・山頂部の案内板。

 北九州から熊本へ至る際の本道が田原坂だとすれば、吉次越は脇道ということになろう。熊本目指して南下する官軍と、それを是が非でも阻止したい薩軍。両軍はこの地をめぐり、血みどろの死闘を繰り広げることとなる。


吉次越より玉名方面(官軍の進行方向)を臨む。

 官軍は3月3日より田原・吉次方面へ進出、優勢な火力をたのんで一挙に攻勢に出、各所に薩軍を破って前進した。

 思わぬ苦戦の報に、植木の薩軍出張本営(吉次越から南東約2km)から援軍を引き連れて駆けつけたのが、一番大隊長・篠原国幹らであった。




篠原冬一郎。戊辰戦争ごろ。

 篠原国幹、通称は冬一郎。
 西郷隆盛に従って下野した元陸軍少将で、私学校勢力の長老格である。

 篠原氏は齢五十許、頭半は禿げ顴骨高く秀で眼光射るが如く謹厳剛直の風あり、一見人をして畏敬の念を起さしむ。
(篠原氏は年齢五十歳くらい、頭髪の半分は禿げていて、頬骨が高く、射るような鋭い眼光を持っていて勤厳剛直の雰囲気があり、ひと目見ただけで畏敬の念を生じさせる人物である。)
(『戦袍日記』)

[カナ・旧字・難読字改、場合に応じ適宜句読点補。以下同]  

 これは、薩軍とともに吉次越を守っていた熊本隊(西郷に呼応して決起した、熊本の保守勢力)の佐々友房の記述である。篠原とは初対面ということもあり、その特徴がよくとらえられている。当時まだ40過ぎでしかなかった篠原が、50歳ほどと見られているところは面白い。

 また、司馬遼太郎は篠原という人物について、『西南記伝』などの記述をもとに以下のように解説している。あくまで小説の一節であり、司馬ならでは誇張的な表現が随所にみられるが、全体として篠原という人物の特徴がうまく解釈されている。

 陸軍部内で人心を得ているという点では桐野以上の存在がいた。
 陸軍少将篠原国幹である。
 桐野と篠原とは、ひょっとすると比較しがたいかもしれないが、表面的にはいかにも対照的であった。(…)
 篠原国幹は藩校造士館でぬきんでた秀才であった。ただその詞藻はわずかに遺した詩において想像できるだけで、同時代人も篠原がどれほどの学殖をもっていたか、見当がつかなかった。その理由は極端に無口だったことによる。日常、ほとんど口を開かなかった。この点、朗々として世界政策を語って聴く者を倦ませない桐野とはよい対象であろう。
 さらに相違しているのは、桐野が郷士身分であるのにひきかえ、篠原は父が記録奉行をつとめたほどの門地の出身であることである。挙措、品がよく、かれが座敷にすわれば一座が自然にしずまるといわれた。
 ただ共通しているのは、勇敢であることであった。篠原が、上野に籠る彰義隊攻めのとき、最激戦地の黒門口の攻撃を指揮した場合の沈着さと勇敢さは、ほとんど神を仰ぐような観があったという。
(『翔ぶが如く』)



東京出仕中の軍服再現。

 なお、「国幹」の読みは「くにもと」で正しいが、「コッカン」と有職読みする場合もある。彼のクールで無骨な感じが伝わってくような気がして、個人的にはこちらのほうが好きだ。




吉次越山頂、佐々友房歌碑。

 さて、篠原らの来援後も、官軍は攻撃の手を緩めなかった。薄暗い曇天の下、両軍は一進一退の激闘を繰り広げた。

「官兵猖獗塁を奪て進む、我兵苦戦、終に支う可からざるを恐て、已に援兵を乞と雖ども、未だ至らず」
(「官軍は凄まじい勢いで我が軍の陣地を奪って進んでくる。我が軍は苦戦しており、とうとう支えられなくなるおそれがあるから、すでに援軍を要請しているのだが、まだ来ないのだ」)
(『西南役懲役人筆記』)


 弾雨のなか陣頭指揮する篠原は、戦況を問うてきた部下にそう言ったという。

 いかに勇猛な薩軍といえども、態勢をととのえて一挙に積極果敢な攻勢に出た官軍のまえには、苦戦を免れなかった。結局この日、吉次越の西側一帯は、ほぼ官軍に占領されてしまったのである。

 翌4日、篠原は他将と協議のうえ、一斉に打って出ることに決した。
 しとしとと降る雨のなか、薩軍の猛反撃が開始された。

 時に篠原、身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ、始終戦線に挺立して自ら率先風励す。英姿颯爽、遠近目を属す。
(篠原は裏面が緋色の外套を着て、手に赤銅装飾の日本刀を提げ、始終最前線に立ちはだかって自ら部隊の陣頭指揮に当たった。その颯爽とした勇ましい姿は、遠近問わずあざやかに目立った。)
(『薩南血涙史』)


 陸軍少将の軍服のうえに赤い裏地のマントを翻し、腰に西洋拵えの銀装刀を佩びた篠原は、この日も陣頭に立って指揮にあたった。その凛然たる姿に、薩軍の士気はおおいにあがったという。
(篠原の刀は、上記『血涙史』の記述では「烏金装飾」となっているが、一次資料たる『戦袍日記』では「銀装刀」となっている。もしかすると、当初銀装刀で戦っていて、途中で日本刀に持ち替えたのかもしれない。)



 弾丸啾々雨の如し……といわれるほどの戦場を、篠原はものともせず進んでゆく。
 これを見かねたひとりに、薩軍五番大隊の小隊長で石橋清八という男があった。石橋は篠原に駆け寄り言った。

「閣下は本営の重任、其進退は全軍の安危に繋る。宜しく危地を避けて後方に退却すべし。余、代て其任に当らん」
(「閣下は本営で重要なお立場にあり、そのお命は全軍の安危を左右します。このような危険な場所は避けて後方に下がってください。ここは私が引き継ぎます」)
(『西南記伝』)


 これに対し、篠原は答えた。

「余は戦闘せんが為に来りしなり。戦闘は死地、弾丸雨注は常事のみ。足下、危険を避けんと欲せば、須らく自ら之を避くべし」
(「私は戦闘するために来ているのだ。戦場とはすなわち死地であり、弾丸が雨のように注ぐのは当たり前のこと。貴公が危険を避けたいのなら私には構うな、自分だけ後方に下がれ」)
(『西南記伝』)


 『薩南血涙史』によれば、篠原はこのとき微笑を浮かべていたという。
 寡黙で実直ひとすじ、つねに周囲から畏怖にも近い念をもたれていた篠原である。微笑という表情ほど、彼に似合わぬものはない。石橋はおそらく察したであろう。

(篠原さんは、ここで死ぬつもりだ……!)


戦死時の軍装再現イメージ。




篠原国幹戦死の地。吉次越山頂から1~2km南西にある。

 峠の坂道を逆落としに攻める薩軍には勢いがあった。
 機を見定めた篠原は、全軍に斬り込みを命じた。

 兵士抜刀、左右正面より切入、官兵狼狽支うること能わず、銃器・弾薬及び死屍を棄て散乱せり。
(薩軍の兵は抜刀して左右正面から一斉に斬り込んだ。官軍は狼狽して防ぎきれず、銃や弾薬を棄てて潰走した。)
(『西南役懲役人筆記』)


 雨と霧に覆われた天に、薩兵の猿叫がこだまする。閃く白刃に、官軍の兵はただただ逃げ惑った。

 このとき、前線指揮にあたっていた官軍の一指揮官・江田国通少佐は、ふと視線をやった前方の路上に、敵将篠原の姿をみとめた。燃え立つような赤い裏地のマントと腰に輝く銀装刀が目を引いたのみではない。江田は鹿児島の出身、かつて近衛において篠原を上官として仰いだことのある男で、その顔もまたよく見知っていたのである。


官軍進行方向より臨む、篠原国幹戦死の地。後方には半高山が見える

 味方はもはや恐慌状態に陥り、潰走寸前……。江田に躊躇している暇はなかった。彼は射撃の達者な兵(村田銃の開発者にして狙撃の名手、村田経芳少佐だったとの説もあるが、眉唾な感は否めない)を呼び寄せると、いまだ前方に仁王立ちし続けている篠原の狙撃を命じた。その際、江田はおそらくこう叫んだのだろう。

「あの赤マンテルを撃てッ!!」

 狙いをすました銃先が、轟然と火を噴いた。
 たちまちにして、一弾が篠原の胸元にうなりこんだ。

 篠原弾丸に中る、暫く敵を睨て斃る、然ども顔色変せず。
(篠原に弾丸が命中した。篠原はしばらく敵を睨みつけて倒れたが、顔色はまったく変わっていなかった。)
(『西南役懲役人筆記』)


 戦場に倒れ伏した篠原は、ただちに後送された。だが手当の甲斐なく、その日のうちに息を引きとった。42歳だった。

 時に天色暗澹細雨霏々、斯の名将の死を哭して万斛の涙を濺ぐものに似たり。
(このとき、天の色は暗くふさぎ、雨がしとしとと降り注いでいた。そのさまは、この名将の死を悲しみ涙しているかのようであった。)
(『薩南血涙史』)

 人望あつき勇猛な指揮官の死に、薩軍はますます奮起、官軍にむけて猛攻を続けた。篠原を狙撃させた江田少佐も、復讐の念に燃える薩兵の集中狙撃をうけた。そして篠原が斃れた数時間ののちには、早くもこの世の人でなくなっていた。

 この日夕刻、官軍の指揮官・野津道貫大佐は吉次方面からの退却を決断。以後官軍はしばらくの間、攻撃方面を田原坂一本に絞ることとなった。
 惨憺たる敗戦に、吉次越は以後、官兵の間で「地獄峠」と呼ばれたという。




篠原が最後に見たであろう風景。玉名市街地や有明海が一望できる。

「あんなところで死ねるのは、男児の本懐だ」

 今回ともに熊本を旅行した筆者の父は、篠原戦死の地の雄大な眺めに、大きな感銘を受けたらしい。

 西南戦争は、薩軍諸将の大多数にとって本意ならざる戦だった。ゆえに、力及ばず決起に至った彼らの一念はやがて、「サムライの最期を飾る」一念に収束していった観を禁じ得ない。
 薩摩隼人たちの「死の決意」と「ラストサムライ」としての矜持……。篠原戦死の地を訪れて、これらをあらためて肌で感じたような気がする。


▼ ▼ ▼

 夏の帰省中、熊本に旅行してきた際の記録。
 熊本城とか田原坂にも行ったんだけど、個人的に大好きな篠原国幹という人物ゆかりの戦場が、何よりも印象的でした。

 さてさて、この日記では、史書と旅行記との融合をこころみたんだけど、どうも読みづらくなっちゃった感じがしますねェ……。
コメント (6)
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