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還暦おやじの洋楽日記

八九六四 完全版 / 安田峰俊著

天安門事件を取り上げた「八九六四」は単行本として2018年に刊行され、大宅壮一ノンフィクション賞等を受賞した作品。その後に起きた香港デモに関する新章を加えた「完全版」が最近になって新書判で刊行された。
現代中国の状況について語るジャーナリストや評論家は数多くあるが、政治的にバイアスがかかっている人が結構多いので、なるべくそういうのは避けつつこれまで読んだのは富坂聰や福島香織あたり。安田峰俊はまだ三十代で若いけど、「さいはての中国」みたいに底辺から見た中国社会という切り口が新鮮で好ましく、自分の中では「たぶん信頼できる中国ウォッチャー」と勝手に位置付けている。

「八九六四」でのアプローチは、発生から四半世紀を越えた天安門事件についての回顧を、様々な立場の人に取材して羅列するというもの。取材の対象は当時デモに参加していた人だけでなく、日本にいて参加しなかった人もいれば、事件後に”目覚めた”中国人もいる。デモの学生リーダーであった王丹やウアルカイシもいるし、取材時点では雨傘運動からまだ間もなかった香港の学生運動家たちもいる。
「天安門事件とは何だったのか」については、それぞれの人達がそれぞれの立場で振り返っているから一律ではないのは当然。読み進めていく中で、自分はこの事件のことをそれほど知らなかったことを痛感したが、あの時代ってソ連をはじめとする東側諸国が崩壊したり国際情勢が劇的に変わっていたから一般人には目まぐるしかったし、まだ中国情報も今ほどオープンでなく詳しい情報が入ってこなかったからなあ。

全体を通して浮かび上がってきた印象は、これは日本での1960年代末の学園紛争の中国版みたいだな、ということ。日本の場合は高度成長末期の出来事、中国の場合は毛沢東後の開放政策が軌道に乗り始めた時期の出来事。主役となった大学生というのは、当時はいずれも一部のエリート層であり、決して一般大衆の運動ではなかった。社会が豊かになっていく過程で様々な歪みが露わになり、そのことに敏感に反応した学生達が社会体制に異議を唱えたという構図は同じではないか。そして「反体制的な運動は必ず一部の人間が尖鋭化して反社会的な暴徒となる」という鉄則通り、最後はペチャンとやられてしまう。
但し、終わり方は違う。日本の場合は暴徒化した連中が更に過激化して最後は連合赤軍事件で自滅していったが、天安門の民主化運動は人民解放軍の武力鎮圧によってたった一日で潰されてしまった。そしてその残虐な終わらせ方と、その後の国家ぐるみでの「なかったこと化」によって天安門事件は現代中国の最大の汚点のひとつとなり、悪い意味でその後の中国での反体制運動への対処方針を決定づけたのだろう。

香港デモに関する新章も興味深く読んだ。当初は民主的に行われていた2019年のデモが一部の人間により過激化してしまった理由は、雨傘運動の挫折により既存の政党や学生団体が香港市民に信用されていなかったことのようだ。つまり黄之鋒や周庭といったスポークスマンに実権はなく、リーダー不在だったということ。デモが始まった頃はそれが逆に功を奏して幅広く支持を広げることに役立ったそうだが、あの中国共産党を相手に戦うのにリーダーがいなければ戦略も戦術も立てられまいて。だから、ああいう結果になってしまったのはある意味必然だったと言える。

僕が中国に駐在していたのは10数年前。今から思えば胡錦涛時代は表面上はまだ自由な雰囲気があったと思うけど、中国共産党の本質は天安門事件の頃から変わっていないだろう。仕事で接していた中国人の多くは聡明な人達だったが、政治的な発言をすることはほとんどなかった。それでも世間話の合間に、例えば「あ、こいつはきっと江沢民が好きではないのだな」といった反応を時折見せることもあったが、おそらく今じゃそんな反応も見せられないのじゃないかな、外国人には特に。
心ある中国人は本心を隠して暮らしていかなければならない。そういう生き方は想像以上に息苦しいだろう。なまじっか少しばかり縁ができただけに、あの国のことは今でも心に引っ掛かる。

(かみ)

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