こんなに
こんなに
美しい光景を
毎日見せていただいているのに、
気の効いた
詩のひとつも書けないなんて、、

何かできないかな。
ドキドキした気持ちで、胸の中で叫びながら撮った写真を見た
そのままの光景
を
そのまま
詩や
文にできたら
どんなに嬉しいだろう。
どんなに楽しいだろう。

やってみるかな。
下手でも。
なんでも。

ああ、
自然すべてに
感謝。
こんなに
美しい光景を
毎日見せていただいているのに、
気の効いた
詩のひとつも書けないなんて、、

何かできないかな。
ドキドキした気持ちで、胸の中で叫びながら撮った写真を見た
そのままの光景
を
そのまま
詩や
文にできたら
どんなに嬉しいだろう。
どんなに楽しいだろう。

やってみるかな。
下手でも。
なんでも。

ああ、
自然すべてに
感謝。
でも、言葉は思いのほか出て来ない事が有りますね。
理由は簡単に言うと二通り。一つは、言葉の無力さ。言葉では表現出来ないものが有るという事。私にも経験が有りますよ。八重山に居た頃、その素晴らしさを同じ内地からの旅行者に伝える言葉が見つからず、とにかく「観れば解る」としか言えなかった事が有ります。自分自身が納得する為の言葉も、語彙不足・・・と言えばそれ迄ですけれど、思い浮かばない・見つけられない・閃かない時って、必ず有るものです。それは言葉自体、そのものが無力さを内包しているからです。
もう一つは、意識過剰の時です。やたらと言葉が頭の中に溢れていると、もう自分では収拾がつかなくなり、焦りにも似た気持ちが膨らみ、何を表現・表明したいのかすら混沌の中に陥ってしまうという時です。
まだまだ他にもも有りますが、言葉を操ろうとする時には、この事が大いに関係してくるのを心の何処かに留めておく事をお薦めします。
さて、詩(詞)の概念をどの様に捉えているのでしょう?
それに依っても状況は大分変って来ます。どの様な物を書きたいのか、どの様な表現に仕立て上げたいのか、何かビジョンの様なものは有りますか? 漠然は形を生み出したりはしません。
S・フォスターが『スワニー河』を書いたのは、自宅の屋根裏部屋で、黒人の召し使いと一緒にアメリカの地図を広げて、何と一度も行った事の無いスワニー河に目を付け、そこから創作をしたと云う話しが有ります。またジョン・レノンはヨーコと一緒に、半ば遊び半分で楽しみながら、(ポールの事を皮肉ったとされる)『How Do You Sleep』を書いたのは当時話題になりました。目的と感性が有れば、言葉戯びの様に詩を書く事が出来るという、いい例です。また逆に(これはメロディーですけれど)ポールはベッドに横たわっていたところに、或る旋律が頭の中に、何の予告も無くやって来て、それがあの『Yesterday』として名曲と言われるようになりました。こちらの方は、閃きの賜物…と言えるでしょう。
みんながみんな、初めからいいものを書ける事は無いでしょう。でも大切な事は、言葉を楽しむ事、言葉戯びの楽しみ方を知る事だと思います。
貴女には目の前に材料がふんだんに有るのですから、そこで言葉戯びをしていれば、書ける様になると思いますよ。
どうも何か誠に勝手な事ばかりを長々と書き綴ってしまい、お気に障られたら、どうぞご容赦を願います。
どうか頑張って下さい。期待しています。
コメントが
届いていたので、真剣に読ませていただきました。、、スワニー河、、
今はなき、母が大好きだった曲です。、、だから、かなり驚きました。だって、わたし、この曲、もうずいぶん長い間忘れていたのですよ。
母が亡くなってから大分経ちますし。
Junne さんのコメント読んでいたら、仕事をしながらスワニー河や、オールドブラックジョーを口ずさんでいた母の事を思いだし、懐かしさで胸がいっぱいになりました。
そうですね、詩なんて、書こう書こうとして書くもんじゃないし、かけるものじゃないですね。朝夕のあの、驚きの連続である光景をみて、沸き上がるものはあるのだから、それを素直に受け止め、書けたらいいなと思ってます。今夜も、すごかった✨💍✨
コメント、ありがとうございます。