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完璧にサボりモード。。

渟足柵の存在理由は?

2012-09-08 14:13:55 | 徒然なるまゝに
俺は歴史が好きだ。大学も史学科を受験した程に。
ま、受けた大学側から入学拒否されたんだけど。。
そんなこんなで、結局は経済学部。どうでも良いけど。
好きな時代は室町後期から安土桃山~江戸期に入る前あたり、いわゆる戦国時代。
しかし研究しようとしてたのは2世紀から3世紀。弥生時代の最終盤。生活集団体が“村”から“国”に変わるあたり。
正式には歴史学ではなくて考古学の分野ですな。

ほいでもって本題。
中条の城の山古墳が大和の政権と関連があると思われるっていう調査結果が出たんすわ。
興味ない人にゃどうでも良いニュースなんだけど、これはこれまでの考古学(歴史学にも踏み込んでる時代)の常識を覆す大発見なのですよ。

各地の古墳調査なんかで中央の勢力は日本海側では石川県までしか見つかっていないものの、古事記や各地の伝承(奴奈川姫の古事(諏訪神社機縁なども含む)や彌彦神社の建立機縁など)から、かなり初期の段階で新潟市付近まで支配権が及んでいたと考えられてはいたんす。
7世紀あたりに北方の守りの為の渟足柵が置かれたという記録から、この頃の大和朝廷の勢力範囲はせいぜい巻あたりまでやろって思われてたんだわ。
んで、一旦魚沼方面へ行ったと言う説もあって、日本海側を北上するのはもうちょい後って話しだったんだわ。
なお、初期のころの大和朝廷は国家統一じゃなくて各地の国を傘下に収める国家連合だったらしい。
そんな事で、大和の中央集権だった訳ではないので、今はあえて“ヤマト”ってカタカナで書くようにしちょるらしい。
馴染みが無いんで漢字で書いてるけど。

んで、日本書記の四道将軍の話しでは大彦命が阿賀野川を上って会津に行くのだが、上記の事から“んなこたぁ、無い!”って言ってた歴史家も多いんですよ。
でも、今回の発見で史実なのかもしれんって事になったんだわ。
日本書記は実際の事象を神話化したものっても言われちょりま。

ただ疑問も有るんだよね。
阿賀北に同盟国が有りながら、なぜソコよりも南方に渟足柵が必要になったのか?
中条国(仮)がそこより北方の国とかに攻め取られちゃったとか崩壊してたとか?
中条国(仮)が大和政権からの独立戦争(謀反)でも起こした?
大和政権が連合解消して統一国家を建設する為に武力で中条国(仮)を攻める拠点?
実は渟足柵は新潟市ではなく、荒川とか神林のあたりに有ったとかって言う大どんでん!?
(当時の沼垂郡は信濃川から荒川にかけてだったらしい)

渟足柵は現在の新潟市の沼垂とか河渡あたりに有ったとされ、北方の蝦夷に対する備えって言う説が一般的なのですが、出来て1年で(約40㎞離れた)村上あたりに磐舟柵が作られてるって事も不思議なんだよねぇ。
最前線が1年で40㎞進むのは早過ぎねぇか?
その事は以前から気になってるんですけど、何かこの中条のあたりの変遷がポイントになってる気がするんだよなぁ。

あ~、現地説明会に行きて~!
でも天皇杯のチケット買っちゃってる~!

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