私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

★乾パンは入らない        私の 母は・・・

2015-09-25 20:30:49 | 日記
          千葉の海で船を出し漁の最中にグラマンに機銃掃射で船を沈められたり
          浜で遊ぶ子供達に機銃掃射をしながら頭上を過ぎ去っていく戦闘機を何度も目撃しています
          千葉県は 海軍基地や航空隊基地また陸軍の鉄道部隊、騎兵連隊、特殊気球爆弾連隊や数え切れない
          基地が今でも存在し当時千葉も空襲は 行なわれて居ましたが殆んどは 東京や各地の空襲に来る 
          B‐29爆撃機の護衛に飛んで来る 戦闘機グラマンの弾薬を残しては 帰れない為に千葉で
          遊びながら使い果たして行くんだと母は 聞いていた相です

          この写真は 空襲後の我が子以外には 全てを失った母を捉えた者ですが
          写真に書かれている本々の文章は 矢張り当時を経験した
          方々でないと書けない文面だと思います
          
  空襲から非難する市民

東京大空襲

これが乾パンですね

19世紀頃のアメリカ軍用携帯食料ハ‐ドタックだそうです

日本の乾パンは 1877年に西南戦争が発生した 時に海軍の戦闘用糧食であったハードビスケット
略称ハービスを参考とし乾麺麭が非常糧食として採用された 
分類は非常用の予備食料で携行量は 一食分を2枚として
計6枚であったそうです

★この作品は 観覧人数三位でした 有り難う御座いました

s10683726@ybb.ne.jp          

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