私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

8月15日          すなわち 終戦の 日で・・・

2015-08-31 23:35:46 | 日記
天皇陛下の玉音放送を聴き皇居で参拝サンパイをする日本人の姿を戦後 写真やドキュメントで知る
外国の人達が日本人の伝統と慎ましさを学ぶと言いますが・・・
この家族は 東京も空襲で焼け野原に成り リャカ-に何を積み変え今後 心に何を託し戦前は 
欲しがりません勝つまではの暗黙の誓いを子供達から聴き全てを失い戦いに敗れ昭和20年8月15日の正午
過ぎに敗戦を慎ましく受け リャカ-を引き行く家族の前に写る風景の行き先と日本の明日は 誰にも
分からなかった 終戦の日は どの様な日差しの夏だったのだろうか・・・

私が6才の時に亡くなった実の父は 中国大陸で足に銃弾を受け除隊して来た後に元もとの土建業と任侠道で
組を持っていた 為に仕事には 恵まれた地位と立場で居ました
8月15日に敗戦を国民が知り東京、都会ではで その日に三国人(中国、台湾、朝鮮)人達そして 日本軍の
軍服や飛行服に身を固めた朝鮮進駐軍らが暴動を興し婦女子を強姦して日本人を殺し始め焼け野原に成った
土地を不法占拠して自分達の土地にし始めました
当時 日本の警察は 無力で進駐軍GHQも終戦日には 居ませんでした
そこで 自警団や任侠道に携わる私の父などが戦い鎮圧して行き戦争で戦い終戦前に帰って来た父は 終戦を
日本で向え 今度は 東京と千葉で闘う事に成り日本は 戦争に負けて此れからが日本は 最も大変な時期を
迎えて行くかも知れないと日本刀や銃で武装した 組員や自警団と戦争が終っても日本で戦って暮れたんだよと
母は 私に話しをしていました

s10683726@ybb.ne.jp

★心の色 #2        何所から 何所までが・・・

2015-08-31 19:59:04 | 日記
アメリカ合衆国民でしょうか
第2次世界大戦中に12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所へと送られて行った
彼らの大半は 戦時移住局が管理をする 10ヶ所の強制収容所に入れられて残りの人々は 司法省や
その他の政府機関の管理する 収容所に入れられて日米開戦の翌年1942年にアメリカ西海岸とハワイの
一部の地域に住む日系アメリカ人達は その7割りがアメリカ生まの二世で市民権を持ち地域に
貢献していたにも関わらず強制的に立ち退きを命じられた
何の補償も当然されずに全ての財産を其の場で失いボストンバック一つでその日中に・・・
日系アメリカ人が国家の安全保障に対する 脅威キョウイに成るとの理由の元に日本を戦争に追い込んだ
フランクリンル-ズベルト大統領が国家命令9066号の軍事的必要性によって
あらためて歴史的に原因を考えれば人種差別は アメリカの事ですから当然です
そして 戦時的ヒステリ-で有り暴動や内乱を興さずに差別をしない大和民族の血と優秀さを調べて居た
ル-ズベルトとコミンテル(共産党世界組織)の策略も当然ありました
又 アメリカ人は 嫌いだと言う市民の多いカナダ政府も同じ事を遣っていました
確かにアメリカ国内に創られた 強制収容所ですから広大の土地で施設、食料諸々には 凄かった
らしいですがアメリカ国民として生きて居る 日系人に取って屈辱クツジョク的なアンケ-トを取らされて
絶え貫いていた 日本人の血が有りました

1988年8月10日レ-ガン大統領は 1988年市民の自由法(日系アメリカ人保障法)により全員に2万ドルの補償を
して今後 学校で効した事実がアメリカで有った事を教えて行く為に12億5000万ドルの教育基金が設立されました

アメリカに対する愛国心を示す為にも戦争へ志願をして行った 日系アメリカ人部隊の歩兵第442部隊の存在が
有りイタリア戦線で戦いフランスの村をドイツ軍から開放させたりアメリカのテキサス部隊を無傷で救い出して
大半のドイツ兵を捕虜にして来る などの優秀で勇敢、愛国心をアメリカに認めさせた 日系人部隊を書いた
心の色№1を以前の作品に出していますので442部隊の事を知って見て下さい



当時の日本人男子の身長は 平均158cmでした写真を見ての通り米軍将校と歩兵第442部隊の日系アメリカ人
日本人の血筋と比べると可也の身長さが有りますが彼らは 実戦なしで教育訓練期間だけでイタリア戦線に出向き
ドイツ軍と戦いフランスの街を開放して行きます日本人の血を研究して勝れた民族だと知っていたアメリカでも
差別を前提にしで物事を判断し愛国心うんぬんの問題の中で兎に角 最前線で突破口を切り開いていく勇敢な血と
肉弾戦に掛けては 小さく刃バねの有る身体でチ-ムワ-クに勝れドイツ兵を倒していく姿は 見事に尽きると
アメリカの部隊長が認め必要以上には 敵を殺害しないで捕虜にして帰ってくる姿と仲間を絶対に置き去りには
して来ない442日系部隊は アメリカ陸軍の手本と成り現在のアメリカ海兵隊の教育にも活かされています



歩兵第442日系アメリカ人部隊の優秀な戦いを認めたル-ズベルト大統領は 全員を表彰してあなた方は 
差別と偏見にも勝利を勝ち取り戦いでも勝利を勝ち取りズバ抜けた兵士で有るとスパ-ク者たちと語り全員に勲章を
与え大統領は 全員を集めろと言ったはずだと指揮官に言うとハイ此れで全員です後は 全員戦死しました・・・
効した 日系人兵士の愛国心とテキサスの部隊を無傷で敵前から連れ帰る 事実を知った アメリカ国民が有りました
又 大隊に付かして貰えなかった 日系人兵士達は 完璧な功績と多大ならぬ戦死者を出した中で
第100大隊歩兵第442日系人部隊と成りハワイやアメリカ国内の収容所から続々と日系人たちか志願して行きました

★この作品は 観覧人数が二位に成りました 有り難う御座いました
★2016年1月に観覧人数が三位に成りまして有り難う御座いました
この心の色は 以前に一作目を出しているのでもし好ければ古い作品も観覧して頂ければ嬉しく想います

s10683726@ybb.ne.jp



加藤隼戦闘隊        戦闘に 厳しく ・・・

2015-08-31 00:56:38 | 日記
己オノレ自身に苦しみ悩み艱難辛苦カンナンシンクの心は 他の為でなく人間を成長させて行く

第64戦隊第5飛行師団加藤隼戦闘隊
1938年S13年8月から1945年S20年廃止
日中戦争(支那事変)において国民革命軍と戦いノモンハン事件では ソ連軍、モウコ兵と戦い
駐屯地の広東から2千㌔以上を35機の戦闘機隼でフコク島ズオンドンに進出した兵ツワモノ部隊
加藤建夫は1903年明治36年9月28日に北海道上川郡に生れ
1942年5月22日ビルマ(現在のミャンマ-)アレサンヨウ ベンカル湾上空で戦死38歳

エンジンの音 轟々ゴゥゴゥと隼は征ユく 雲の果て
翼ヨクに輝く 日の丸と胸に描けし 赤鷲の印はわれらが戦闘隊
寒風酷暑カンプウコクショもかまうなと艱難辛苦カンナンシンク打ちたえて
整備に当る 強兵が しっかりやってきて来てくれと
愛機に祈る 親ごころ
過ぎし幾イク多の空中戦 銃弾うなる その中で必ず勝つの
信念と死なばともにと 団結の心で握る 操縦桿ソウジュウカン
干戈カンカ交ゆる 幾星霜イクセイソウ七度重なる 感状のいさおの蔭に
涙あり ああ今は 亡き武士モノノフの 笑って散った その心
世界に誇る 荒鷲の翼のばせし幾星霜 輝く伝統
受けつぎて 新たに興す大亜ジア われらは皇軍コウグン 戦闘隊

軍歌 加藤隼戦闘隊より 


加藤建夫陸軍航空隊中尉






当時 陸、海の航空隊がスロ-ガンに仕手いた 八紘一宇の言葉と旗
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