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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

侵略に耐えたアイヌの歌や踊り

2021年12月01日 | 展覧会・コンサート

 

11月27日(土)午後、有楽町マリオンでアイヌ文化フェスティバル2021(主催:公益財団法人アイヌ民族文化財団をみた。
アイヌは北海道の先住民族で、固有の文化を発展させた。この日の演目は、口承文芸、紙芝居、舞踊、音楽の4つだった。内容が芸能なので、写真や動画で紹介するのが最適だが、残念ながら場内撮影はいっさい禁止だった。録音禁止は著作権の関係もあり仕方ないが、撮影はフラッシュを焚かなければよいのではないかとも思うが仕方ない。下記の出演者の写真はすべてプログラムからであることをお断りする。

山田良子さんは曾祖母がアイヌで、千歳市在住。千歳アイヌ文化伝承保存会に所属。口承文芸というものの、わたしには歌に聞こえた。「良子のヤイサマ(即興歌)」と「新冠イヨンノッカ(子守唄)」「千歳のイヨンノッカ」など4つの子守唄だったからだ。楽譜がなく、口移し、言い伝えで伝承するということなのかも。オホルルルル、トゥルルルルなど巻き舌を使って声をふるわせる発声が独特だ。

三橋とら紙芝居は「サランポ」(アイヌのエコバッグ)と「武四郎物語り」。サランポは魚、山菜、弁当などを入れるカゴで、シナやオヒョウの木の樹皮を剥ぎ取り、洗い、晒し、干し、ほぐして糸にし、直径10-30センチに編み上げたもの。北海道の名付け親・松浦武四郎(1818-1888)は三重県松阪の生まれ、16歳から旅を始め、1844年から蝦夷地探検をスタートする。1869(明治2)年北海道と名付け、アイヌ文化の紹介も行った。
演者の三橋さんは、東京都荒川区出身、どうもアイヌとの関わりはないようだ。母も紙芝居師で跡を継いだという。

アイヌルトムテは、釧路市出身者とその家族のグループで、名前は道を照らすという意味だそうだ。この日舞台に上ったのは8人、うち男性が1人だった。古式舞踊となっていたが、踊りだけでなく歌も歌えば、ムックリ(口琴)も演奏していた。他との違いは、(1、2人でなく)グループで演じている点だった。
舞踊なので、立って踊るのがメインだが座り歌や輪になって踊るものもあった。
アイヌはあらゆるものに魂が宿ると考え、動物や水・風など自然になりきる踊り、たとえばツル、キツネ、クジラ、バッタ、トドマツ、ハンノキなどを表現したり、狩猟を描写したり、豊穣を祈る踊りなどがある。

カピウ&アパッポは姉・床絵美と妹・郷右近富貴子の阿寒湖の姉妹デュオで、アイヌ語でカピウはカモメ、アパッポは花の意味だそうだ。口琴ムックリと撥弦楽器トンコリの演奏も交え歌を歌った。トンコリは琴をタテにしたような楽器だが、フレームはなく弦をただはじくだけのようなので、5弦であれば音は5音しかないらしい。したがってシンプルな音楽だったが、音はとてもクリアーだった
「眠くなる音楽」との解説があったが、シンプルなのでたしかにそのとおりだった。
最後に、演奏者全員が登場し、輪踊りや歌を歌ってフィナーレとなった。2時間半弱(休憩20分含む)のステージだった。
「ヘイホー」「ヤッセー、アッセイ」など日本の民謡の掛け声に似た歌詞、こぶしを回すような歌い方、朗々とした声など日本の民謡大会を聞くような気がした。そういえば盆踊りに似た手の振りもみられた。これなら民族音楽や民謡を聞く芸能コンサートとそう変わらない。

しかしプログラムとともに配布された「アイヌ民族――歴史と文化(2021.3 A5判 40p  公益財団法人アイヌ民族文化財団 以下ページ数はこのパンフのもの)を読んで考えさせられることが大きかった。
アイヌの祖先は擦文人オホーツク(文化の)人だが、アイヌ文化の成立は12-13世紀といわれる。史料のうえで確認できるのは15世紀なので、日本中央の室町時代、それほど遠い昔ではない(p4)。15世紀のコシャマインの戦い、17世紀のシャクシャインの戦いなどで和人に反抗したが、和睦の際のだまし討ちで支配下に置かれ漁場労働を担うことになる。支配体制は、徳川幕府直接統治の時期と松前藩統治の時期が交互にあった。
アイヌはもとは昆布、干サケ、ニシンを収穫し、本州からの鉄製品、漆器、酒などと交換する交易者でもあった。しかし松前藩が支配すると、和人の商人に商場を運営させ手数料を取る場所請負制に入れ替わった。アイヌは交易者の地位を奪われ、商人がアイヌに低賃金で過酷な漁場労働をさせるようになった。幕府はロシアへの対抗もあり、髪形、着衣、名前などを本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、クマの霊送りなど伝統的な風俗・習慣を禁じようとし強い反感をかった(p7)
維新後の1869(明治2)年、新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め一方的に日本の一部にし、アイヌを「平民」とする戸籍を作成した。開拓使はアイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制した。またアイヌの土地や資源を取り上げ、サケ漁やシカ猟を禁止した。開拓優先の政策でアイヌの人は食べるものにも困るようになった。また1875(明治8)年の千島・樺太交換条約で、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを北海道や色丹島に強制移住させた(p8)
1899(明治32)年、アイヌの生活困窮が極まると政府は北海道旧土人保護法を制定した。これは農業のための土地を「下付」し、日本語や和人風の習慣による教育でアイヌ民族を和人に同化するものだった。しかしアイヌ民族への土地下付の上限が1万5000坪だったのに対し和人へは150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるもの(1897年の北海道国有未開地処分法 1872年の北海道土地売貸規則では和人1人に10万坪)だったので、明らかな民族差別だった。また学校も和人児童とは別学が原則で、アイヌ語など独自文化を否定し、教育内容にも格差が設けられた(p8-9)
このあたりまで読むと大日本帝国の朝鮮への植民地支配の歴史や敗戦後の朝鮮学校への仕打ちとほとんど同じであることに気づく。土地を取り上げ移住させ、名前や文化を奪い日本人風にする。職まで奪ったことは知らなかったが、生活に困窮したため朝鮮から日本本土に移住し、日本人があまりやりたがらない鉱山、道路工事、ダム建設、炭鉱労働に就かざるをえなかったことは、同じかもしれない。植民地経営は、明治後期に始まったわけでなく、明治初期あるいは江戸時代に北海道で練習した「成果」だったわけである。
おそらく島津の琉球征伐や1879年の沖縄県設置もアイヌ支配と類似していると考えられる。

こうした歴史を背負った芸能・文化だと思って、思い返すと違う光景が見えてくる。 
また舞台で、紙芝居師の三橋とらさんが「自分が何民族か、考えたほうがよい。しかし答えはまだ出ない」と語っていた。たしかに自分の国籍はわかるが、民族というとなにかピンとこない。「民族」という言葉からは、ナチスの「ゲルマン民族(アーリア人)、映画「民族の祭典(1838)が思い浮かぶ程度だ。
わたしはアイヌのことをほとんど知らない。思い返しても、学生のころ北海道旅行に行き、阿寒湖の観光施設で舞踊や芸能をみたこと、1年半くらい前に東京駅近くのアイヌ文化交流センターをみに行ったことくらいの知識しかない。
今後、アイヌ差別を、沖縄や朝鮮、台湾、中国東北部、その他アジアへの日本の「侵略」の歴史と並行してながめ、考えるようにしたい。 

☆上記のパンフのほかに、もう1冊「人権の擁護(2021.8 A5判 64p 法務省人権擁護局)が入っていた。12月4-10日が人権週間ということもあるのだろう。主な人権課題として、女性、子ども、高齢者、障害のある人のほか、アイヌの人びと、差別、感染者等(HIV・肝炎)、ホームレス、北朝鮮当局によって拉致された被害者等、17の課題が列挙されている。
「アイヌの人びと」の項には、「近世以降のいわゆる同化政策等により、今日では、その文化の十分な保存・伝承が図られているとは言い難い状況」とあり、「アイヌの人びとに対する理解を深め、偏見や差別をなくすことが必要です」と訴えている。
しかし17のなかに在日朝鮮人の項がない。「外国人」はあるが、内容をみると欧米、ブラジル、中国、東南アジア、中近東、アフリカなど一般的な外国人差別のようにみえる。「ヘイトスピーチを許さない」にはもちろん賛成だ。しかし特別永住者を含め75万人(2020末)もいるのに1ジャンルとして在日朝鮮人がないのはどうも変だ。
考えてみると、自公政権が率先して高校無償化除外など差別政策を行っているのだから、法務省で扱うことがそもそもムリなのかもしれない。

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葛谷舞子が撮った親子の笑顔「life」

2021年09月29日 | 展覧会・コンサート

自閉症やダウン症など障がいのある子を持つ親29組の写真展「life――笑顔のカケラ」が9月17-23日に富士フォトギャラリー銀座で開催され、見にいった。

フラダンスの親子、空手の道着を着た娘と母、キーボードを前にした息子と母、どの写真もサブタイトルのとおり「笑顔」があふれている。
29組の親子の笑顔の写真がメインなのは当然だが、子どもの障がいの種類と年齢、1)これからの夢、2)障害がわかった時の気持ち、3)今の気持ちの3項目のアンケートが、作品1点ごとに掲示されていた。障がいの種類では、やはりダウン症、自閉症が多いが、知的発達障害、最重度知的障害の自閉症、重度知的障害、脳性麻痺、未熟児網膜症の子やヌーナン症候群などわたしがはじめて聞く病名もあった。年齢は5―32歳(一人だけ43歳の方がいた)。

1)「夢」は、親の回答、子どもの回答で大いに違う。数は親の回答が圧倒的に多く「世界のいろいろなものを見せたい」「家族で世界中のいろいろなところへ旅行したい」「映画・舞台を一緒に見に行きたい」など、子どもの体験、子どもの世界を広げたいという希望、「自分らしい人生を謳歌するように」「自信や誇りを持ち暮らしていけるよう」と幸福を願うもの、「親亡き後も安心して生きていけるコミュニティを作りたい」「障がい者の仕事の場を作りたい」「障害者と高齢者が共存できるシェアハウスを作りたい」といった、今後子どもが安心して暮らせることを祈る現実的・具体的なプランもあった。
2)は深刻だ「わたしの人生は終わった」「ショックな気持ち」「頭が真っ白」などなど障がいがあることを知ったときの衝撃の大きさがよくわかる。
3)は人それぞれで、「生まれてきてくれてありがとう」「チャームポイントの笑顔を忘れずに」「一緒にいると楽しい。いまがとても幸せ」「いつまでも一緒にいたい」など、感動的なコメントがいくつも並んでいた。どう解釈するかは、なかなか難しい。
(いわゆる)健常児と異なることからさまざまに苦心し、親子ともに太く強い人生を紡いできたことを推測させるコメントが並んでいた。写真の大半は母と子どものカップルで、父と子は5組だけだった。撮影はおそらく日中なので平日に父が同行することは難しいという事情もあろう。しかし日ごろ母親にかかる負担と喜びの大きさもしのばれる。1枚1枚の写真の奥に、それぞれのドラマがあることを感じさせた。

何年か前に、障がい者調査の手伝いで、訪問調査員をしたことがあった。相手は30代から70代の知的障害の方6人、本人同席だったのは3人のみ、うち二人は「あんたはしゃべらなくていいから」と親に厳しくいわれ、ほとんど本人とは話ができなかった。話ができた人は、職場の雰囲気や人間関係などでガマンしながら働いていることを切々と訴えられ、涙を流していた。こちらはまったくの門外漢なので、素人考えで無責任に励ましてよいものかどうなのか、悩んでしまった。
ということでほとんど親や親族の方にお聞きしたが、自分の死後、この子はどうなるのか、財産や住居をどう手当てすれば子どもが安全に暮らしていけるか、が最大の関心事だった。また企業や作業所で働いている人もいたので、受入れ環境の整備もいろいろ問題があるようだった。そのときは、精神障害の方の面談もしたが、障がい者にとって「仕事」の問題は深刻であることを実感した。

たまたま作者の葛谷舞子さんご自身が会場にいらっしゃって、少しお話を伺うことができた。ここからは、朝日新聞2021年9月10日横浜版21面や東京新聞の6回連載記事2021年8月29日1・22面)、31-9月4日22面)も参考にした。
葛谷さんは学生のころ「出生前診断で中絶する親が多い」という新聞記事に疑問をもち、障がい児問題に関心をもった。就職、独立を経て、職業としては料理や建物の撮影をメインにしているそうだ。そのかたわら自宅兼用の写真スタジオを運営しポートレートを撮る。
ただ「ライフワーク」は障がい児問題のほうで、今回の展示作品は足かけ4年撮りためたものとのこと。5歳未満の子どもの写真がないのは、たまたまこの2年コロナで、スタジオに来るのが難しいという事情もあったからだそうだ。

☆会場の富士フォトギャラリー銀座は、プロ写真家や写真愛好家の写真の現像、プリント、額装・パネル加工などを行う富士フイルムの関連事業部門クリエイトが運営するギャラリーだ。六本木の富士フイルムフォトサロンには行ったことがあるが、ここは初めてだ
たまたま隣の部屋(会場)でハッセルブラッドフォトクラブジャパン第28回フォトコンテスト作品展を開催していた。ハッセルブラッドは6×6サイズの高級カメラということは知っていたが、スウェーデンの会社(ただウィキペディアによれば2017年に中国の企業に買収された、とある)ということは知らなかった。さすがハッセルで、色濃く鮮やかな作品が並んでいた。
画廊同様、見るのは無料なので今後、興味あるテーマの作品展のときには立ち寄ってみたい。
富士フォトギャラリー銀座
住所 東京都中央区銀座1丁目2-4 サクセス銀座ファーストビル4F
電話:03-3538-9822
営業時間 平日10時30分~19時 土・日・祝日11時~17時
開館日: 展示スケジュールを参照

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室内合唱団日唱の「音で巡る世界旅行」

2021年08月13日 | 展覧会・コンサート

8月6日(金)夜、室内合唱団日唱33回定期演奏会「音で巡る世界旅行豊洲シビックセンターホールで聴いた。
日唱は、1963年に発足した日本合唱協会(通称 室内合唱団日唱)の意思を継承し2014年に設立されたプロの合唱団だ。この日の演奏は指揮・山崎滋、ピアノ・松元博志、出演したのは男声6人、女声9人だった。

2020東京オリの閉会式2日前ということで、プログラムは1964東京オリのファンファーレとオリンピック讃歌から始まった。オリンピック讃歌はわたしも好きな曲だが、日本語で歌われた。「大空と大地に精気あふれて、不滅の栄光に輝く高貴と真実と・・・」という訳詞があることは知らなかった。
またこのコンサートには、4人のトランぺッターが2度登場した。最初がファンファーレだった。紺、銀、黄、赤のコスチュームを装う若い女性たちだった。

コンサートは「世界の名曲から」と「首藤健太郎編曲アルバム」の二部編成だった。
「世界の名曲から」は、オリンピック旗の象徴である5大陸の歌、すなわち南北アメリカの「コンドルは飛んでいく」、アジアの「茉莉花」、オセアニアの「ワルチング・マチルダ」、アフリカの「南アフリカ共和国国歌」、ヨーロッパの「フィンランディア」の5曲だった。茉莉花はジャスミンの花のことで、中国民謡だそうだ。曲名は知らなかったが、メロディは聞き覚えがあった。プッチーニのオペラ「トゥーランドット」やアテネオリンピック閉会式で少女が歌って注目され、いまは日本の小学校の音楽教科書にも出ているそうだ。ソプラノが美しい曲だが、本国ほどキンキンした声でなく、日本向け(?)にマイルドな声質で歌われた。
南アフリカ共和国国歌はまったく知らなかった。アパルトヘイト後の1994年に大統領に就任したネルソン・マンデラが97年に制定した曲だそうで、30年足らずの若い勇壮な曲だった。南アフリカには公用語が11あり、うちコサ語・ズールー語・ソト語・アフリカーンス語・英語の5つの歌詞があるとのこと。この日何語で歌っていたのかはわからなかった。
訳は「神よ、アフリカを祝福してください その栄光を高く掲げて我らの祈りを聞いてください・・・」という意味だそうだ。
フィンランディアは、もちろんシベリウスのオーケストラ曲のほうはよく知っているが、シベリウス自身が合唱用に編曲した曲もあるとは知らなかった。コスケンニエミが「おお、スオミ あなたの夜は明け行く・・・」と歌詞を付けた。最後の和音の響きがきれいだった。

間奏として、トランペット4本による歌劇「アイーダ」の凱旋行進曲が入った。アイーダトランペットはつかわれなかったが、4本のバランスがよく音楽として十分な演奏だった。

第2部との表示はないが、ここで作曲家・首藤(しゅとう)健太郎氏が登場。
首藤氏は1993年生まれ。東京藝術大学作曲科と大学院を修了、作曲家・編曲家。声楽曲では「金子みすゞの詩による歌曲集」「自然への喜びの讃歌」などがある。
プログラムはアンコールを含め首藤氏の作曲、編曲作品だった。10分ほど君が代の歴史紹介のトークがあった。君が代は最初イギリス人軍楽隊長フェントンがエディンバラ公来日に合わせ1869年に急ごしらえでつくった。その後雅楽版、ニ長調の曲、トランペット曲を経て1888年林廣守作曲で落ち着いた。なお歌詞は古今和歌集読み人知らずで、変わっていない。
まず「君が代幻想曲」の初演演奏が行われた。日唱から「オリンピック・イヤーでもありなんとか君が代をモチーフに」という委嘱で作曲したそうで、5つのシーンから成り最後は「悠久」で締められた。「日の丸・君が代」というと、個人的には複雑な思いがあるが、合唱団の名が「日唱」なのだから、まあ仕方がない。
最後の「キラキラ星で世界旅行!」はアジア、南北アメリカ、アフリカから地中海、ドナウ川流域のヨーロッパ(主として東欧・中欧)と4つの地域を1地域4-5か国で回る。それぞれの国を表すために、キラキラ星のメロディをその国(あるいはその音楽)の音階っぽい音やリズムで歌われる。たとえばドナウ川流域のヨーロッパは、ブルガリア(ブルガリアンヴォイス風 女声)、ポーランド(ポロネーズ風 女声)、ハンガリー(ハンガリー舞曲風 女声)、オーストリア(ワルツ風 混声)の4曲だった。
観衆にとっては、音楽世界旅行で、それも女声合唱あり混声あり、主題+18変奏の合計19曲、しかもメンバーによるマラカス、タンバリン、カスタネットなどの伴奏付きで、楽しめた(うち11を合唱ではないが、このサイトで聴くことができる)。
作曲家(編曲家)にとっては楽しい「遊び」のようなものかもしれない。ただ指揮者はどうまとめるか困ったのではないかと思った。たとえばフランス(メヌエット風)、スペインなど混声のヨーロッパの曲はさすがは日唱なのでうまいが、ブルガリアンヴォイス風やアメリカ(ゴスペル風)などは、それらしい曲に仕上がっているとはいえ、もっと専門的にやっている団体の演奏を知っているので、もうひとつという感じがあった。逆に遊びの音楽に徹した演奏にすれば、まさに冗談音楽になってしまう。また、歌手の方々もいろんな言語、いろんな音楽スタイルが出てくるのできっと大変だっただろうと思う。

ホールはこの建物の5階にある
アンコールは「ありがとう」(作詞:鹿目真紀)だった。当初首藤さんと大学同期のソプラノ歌手のアンコール曲として作曲され、その後、混声や女声二部などいろんなバージョンがつくられた。Nコンの課題曲になっても不思議でないようないい曲だった。
合唱団後方の幕が開き、透明ガラスを通して、豊洲の高層ビルの夜景が見えるようになっていた。1時間半ほどのコンサートだったが、なかなか楽しくいい夜だった

会場周辺の高層ビル群
豊洲シビックセンターホールは席数300。合唱団のコンサートでしばしば利用される。わたくしも、コーラス蝶ちょうという混声合唱団(もちろんアマチュア)の定期演奏会を聴いたことがある。
豊洲は、もとは関東大震災の瓦礫などで大正末から昭和初めにかけてつくられた埋立地(五号地)である。1939年IHI(石川島播磨重工業)の造船所がつくられたが、2002年閉鎖し、三井不動産などが再開発した。リバーサイドにあるので、IHI本社ビル、日本ユニシスなどのオフィス街とららぽーと豊洲などの商業施設、タワーマンション、学校、病院などが立ち並ぶ。
豊洲シビックセンター(豊洲文化センター)は、地下鉄豊洲駅のすぐ近くにある12階建ての建物だ。3階に区の出張所、4-8階がホールを含む文化センター、9-11階が図書館、12階は屋上広場(ただし一般公開していない)の複合施設になっている。
高さ70mなのでそこそこ高いが周囲の高層ビルが150-180mあるのでむしろ小さく見える。それでも9階から周囲を見るといい景色だった。
ビルの入り口に白虎のモニュメントがあった。なぜだかわからなかったが、豊洲は江東区の西方に位置するので、四神のひとつ、区の西方の守り神だそうだ。

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埼玉会館で聴いた馬場管の「運命」

2021年07月08日 | 展覧会・コンサート

小雨のなか、高田馬場管弦楽団第98回定期演奏会を浦和の埼玉会館大ホールで聴いた。演目はウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲とベートーヴェンの交響曲5番、そうあの「ン・ダダダダーン」の「運命」だ。2曲ともポピュラーな名曲だった。

指揮は森山崇さんのはずだったが、5月下旬に前庭神経炎という病気になり急遽降板、松林慧さんに交代した。わたくしが馬場管定期を聴きに行くのは、半分は森山さんの指揮目当てなので、正直がっかりした。コンサートに行く直前に団のHPをみてたまたま知った。馬場管の定演は夏冬の年2回で、うち1回が森山さんの指揮のことが多かった。コロナのせいで1回中止になったせいもあり、19年7月の94回定演以来の登場となるので、5番のフィナーレをどのように盛り上げるのか、期待していた。なお、森山さんは自分が指揮台に立たないときも打楽器奏者として出演する回もあり、森山ファンとしてはそちらも見ものだった。
松林さんは1986年生まれとあるので、今年35歳、もともと学生オケのコンマスで2008年から指揮をしているようだ。馬場管の「元団員2世」とプログラムに紹介されている。馬場管も世代交代の時期に入りつつあるということかもしれない。
松林さんの指揮は、見かけはやや華美な感じがした。できるだけ重くならないよう、「軽い運命」を目指しているように感じた。フィナーレの盛り上げは、森山さんならいったいどう振ったのだろうとやはり妄想を膨らませてしまった。それはこちらが森山ファンだからだろう。アンコールでも4楽章の最後の部分を再演したが、2度目のほうが力が抜けていて生き生きした音楽に感じた。
なお、交替したのは5月末か6月と推測されるので、本番まで1か月あるかないかの時期だ。馬場管は50年近い伝統と歴史のある楽団なので、たぶんいろんなクセがあると思う。それを短時間でまとめ上げていくのだから大変だっただろうと思われる。演奏終了後、各パートのトップ紹介と拍手はたいていあるが、松林さんは各パートそして各団員に心から感謝しているように見受けられ、感じがよかった。

「運命」はもちろん名曲だと思う。わたしが4楽章を通しで聴くのはずいぶん久しぶりのような気がする。一番初めに聞いたのは、中学2年のころ。場所はなんと小学校の校庭で夏休みの夜のことだった。指揮者がだれだったのか覚えていないが、演奏は京都市交響楽団だったので、そう悪くはなかったはずだ。偶然、小学校のときのクラスメイトに出会った。わたしは公立中学の吹奏楽部でサックスを吹いていたが、その友人は中高一貫私立校のオーケストラでクラリネット担当、ちょうど「運命」の練習をしているところと言っていた。その人は、気の毒なことに20歳のころ所属していた大学山岳部の槍ヶ岳大量遭難で亡くなった。その前夜、お母さんにピアノで「月光」を演奏したと後で聞いた。
以上は昔話だが、この曲ベートーヴェン中期の37、38歳のころに作曲された。ピアノソナタ第23番「熱情」(1805)、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー1-3番」(1806)より後、ピアノソナタ第26番「告別」(1809)、ピアノ三重奏曲第7番「大公」(1811)の前で、難聴がひどくなった時期だ。1808年12月ウィーンで6番と同時に初演された。今回通しで聞いてみて、変奏やリズム、ダイナミクスをいろいろ試してみた作品のように聞こえた(ちゃんと分析したわけではないので単なる印象にすぎない)。そういう聞き方もあることに、改めて気づいた。
1月の97回に続き今回もコロナ禍の定演で運営するスタッフもたいへんだっただろうと思われる。
埼玉会館に来るのははじめてのつもりだったが、中に入ってなぜか来た覚えがあるような気がしてきた。思い出すと50年も前のことだが、高校生のころ吹奏楽コンクール関東大会を聴きに一度訪れたことがあった。とくに知り合いが出ているというわけではなく、レベルを知りたいと興味本位で訪れただけだったのだが。
建物の外に、説明板があった。埼玉会館は、1926年岡田信一郎の設計により「御成婚記念埼玉会館」として開館。1966年に建て替えられたが設計は前川国男で、丹下健三の師匠格の方だった。打ち込みタイルが特徴で、ホールでは世田谷区民会館(1959)、京都会館(60)、東京文化会館(61)なども手掛けており、そういう点からも懐かしく感じたのかもしれない。

じつは往復とも電車の乗り方を間違えてしまった。浦和といえば京浜東北線で大宮より手前というくらいの知識で、東京駅から乗ってしまった。しかし正解は上野東京ラインに乗るべきだった。停車駅が10も少なく時間も10分早い。おかげで、浦和駅に到着したのがすでに14時2分くらい。会場に着くと「魔弾の射手」が始まり3-4分たったところで、ロビーのディスプレイをみるはめになった。
帰りは、逗子行きが来たので当然東京駅に停まると思ったら、これは湘南新宿ラインで赤羽の次は池袋に行ってしまった。正解は高崎線に乗るべきだった。おかげで、山手線回りで戻る羽目になり、20分以上損してしまった。あまり知らないところに行くときは、よく調べて行くべきだと肝に銘じた。
なお時間的には、1時間弱の短いコンサートだった。しかし第4次緊急事態宣言も近いなか、生のコンサートを聴けるだけでありがたい1時間だった。少額だが、カンパさせていただき家路についた。
次回99回は22年1月30日、ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」、プーランク:シンフォニエッタ、チャイコフスキー:交響曲第五番の3曲、指揮は石崎真弥奈さん、会場は今回と同じく埼玉会館とある。半年後、コロナはどうなっているかわからないが、無事成功することを祈りたい。

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埼玉会館で聴いた馬場管の「運命」

2021年07月08日 | 展覧会・コンサート

小雨のなか、高田馬場管弦楽団第98回定期演奏会を浦和の埼玉会館大ホールで聴いた。演目はウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲とベートーヴェンの交響曲5番、そうあの「ン・ダダダダーン」の「運命」だ。2曲ともポピュラーな名曲だった。

指揮は森山崇さんのはずだったが、5月下旬に前庭神経炎という病気になり急遽降板、松林慧さんに交代した。わたくしが馬場管定期を聴きに行くのは、半分は森山さんの指揮目当てなので、正直がっかりした。コンサートに行く直前に団のHPをみてたまたま知った。馬場管の定演は夏冬の年2回で、うち1回が森山さんの指揮のことが多かった。コロナのせいで1回中止になったせいもあり、19年7月の94回定演以来の登場となるので、5番のフィナーレをどのように盛り上げるのか、期待していた。なお、森山さんは自分が指揮台に立たないときも打楽器奏者として出演する回もあり、森山ファンとしてはそちらも見ものだった。
松林さんは1986年生まれとあるので、今年35歳、もともと学生オケのコンマスで2008年から指揮をしているようだ。馬場管の「元団員2世」とプログラムに紹介されている。馬場管も世代交代の時期に入りつつあるということかもしれない。
松林さんの指揮は、見かけはやや華美な感じがした。できるだけ重くならないよう、「軽い運命」を目指しているように感じた。フィナーレの盛り上げは、森山さんならいったいどう振ったのだろうとやはり妄想を膨らませてしまった。それはこちらが森山ファンだからだろう。アンコールでも4楽章の最後の部分を再演したが、2度目のほうが力が抜けていて生き生きした音楽に感じた。
なお、交替したのは5月末か6月と推測されるので、本番まで1か月あるかないかの時期だ。馬場管は50年近い伝統と歴史のある楽団なので、たぶんいろんなクセがあると思う。それを短時間でまとめ上げていくのだから大変だっただろうと思われる。演奏終了後、各パートのトップ紹介と拍手はたいていあるが、松林さんは各パートそして各団員に心から感謝しているように見受けられ、感じがよかった。

「運命」はもちろん名曲だと思う。わたしが4楽章を通しで聴くのはずいぶん久しぶりのような気がする。一番初めに聞いたのは、中学2年のころ。場所はなんと小学校の校庭で夏休みの夜のことだった。指揮者がだれだったのか覚えていないが、演奏は京都市交響楽団だったので、そう悪くはなかったはずだ。偶然、小学校のときのクラスメイトに出会った。わたしは公立中学の吹奏楽部でサックスを吹いていたが、その友人は中高一貫私立校のオーケストラでクラリネット担当、ちょうど「運命」の練習をしているところと言っていた。その人は、気の毒なことに20歳のころ所属していた大学山岳部の槍ヶ岳大量遭難で亡くなった。その前夜、お母さんにピアノで「月光」を演奏したと後で聞いた。
以上は昔話だが、この曲ベートーヴェン中期の37、38歳のころに作曲された。ピアノソナタ第23番「熱情」(1805)、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー1-3番」(1806)より後、ピアノソナタ第26番「告別」(1809)、ピアノ三重奏曲第7番「大公」(1811)の前で、難聴がひどくなった時期だ。1808年12月ウィーンで6番と同時に初演された。今回通しで聞いてみて、変奏やリズム、ダイナミクスをいろいろ試してみた作品のように聞こえた(ちゃんと分析したわけではないので単なる印象にすぎない)。そういう聞き方もあることに、改めて気づいた。
1月の97回に続き今回もコロナ禍の定演で運営するスタッフもたいへんだっただろうと思われる。
埼玉会館に来るのははじめてのつもりだったが、中に入ってなぜか来た覚えがあるような気がしてきた。思い出すと50年も前のことだが、高校生のころ吹奏楽コンクール関東大会を聴きに一度訪れたことがあった。とくに知り合いが出ているというわけではなく、レベルを知りたいと興味本位で訪れただけだったのだが。
建物の外に、説明板があった。埼玉会館は、1926年岡田信一郎の設計により「御成婚記念埼玉会館」として開館。1966年に建て替えられたが設計は前川国男で、丹下健三の師匠格の方だった。打ち込みタイルが特徴で、ホールでは世田谷区民会館(1959)、京都会館(60)、東京文化会館(61)なども手掛けており、そういう点からも懐かしく感じたのかもしれない。

じつは往復とも電車の乗り方を間違えてしまった。浦和といえば京浜東北線で大宮より手前というくらいの知識で、東京駅から乗ってしまった。しかし正解は上野東京ラインに乗るべきだった。停車駅が10も少なく時間も10分早い。おかげで、浦和駅に到着したのがすでに14時2分くらい。会場に着くと「魔弾の射手」が始まり3-4分たったところで、ロビーのディスプレイをみるはめになった。
帰りは、逗子行きが来たので当然東京駅に停まると思ったら、これは湘南新宿ラインで赤羽の次は池袋に行ってしまった。正解は高崎線に乗るべきだった。おかげで、山手線回りで戻る羽目になり、20分以上損してしまった。あまり知らないところに行くときは、よく調べて行くべきだと肝に銘じた。
なお時間的には、1時間弱の短いコンサートだった。しかし第4次緊急事態宣言も近いなか、生のコンサートを聴けるだけでありがたい1時間だった。少額だが、カンパさせていただき家路についた。
次回99回は22年1月30日、ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」、プーランク:シンフォニエッタ、チャイコフスキー:交響曲第五番の3曲、指揮は石崎真弥奈さん、会場は今回と同じく埼玉会館とある。半年後、コロナはどうなっているかわからないが、無事成功することを祈りたい。

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