つれづれのままに・・・WebLog

心に移り行くよしなしごとを不定期更新で書き留めます

将棋とボクシング

2005年07月31日 11時30分43秒 | 教育・科学・スポーツ
昨日のエントリーハリぼんさんからトラックバックを頂きました。
ハリぼんさんは将棋とボクシングついて書かれていますが、格闘技等のスポーツと将棋とで、戦い方に共通する点があるのは興味深く読ませて頂きました。

ハリぼんさんは弱い者ほど攻めなければ勝てないとタイトルを付けていらっしゃいますが、確かに「弱いからこそ攻める」と言う事もあるのでしょうね。
そして、それを見た素人が「攻めているから強そう」と思ってしまうのでしょうか。

将棋とボクシングでは違う点も(当然の事ながら)多々あります。
ボクシングには死角が生じる事がありますが、将棋では相手の駒は全て見られます。
ボクシングでは相手と自分とで動きのスピードが違う事がありますが、将棋は一手ずつ交互に指します。
ボクシングでは怪我をすれば次の試合に影響しますが、将棋ではどれだけ駒を取られても次の対局の駒に影響する事はありません。

短い時間で考えただけでもこれだけ違う点がありながら、それでも「相手に攻めさせながらカウンターで相手の隙を突く」戦い方が共に通じるのは、改めて深く考えさせられるところです。
この戦い方は他の事にも応用出来るのではないでしょうか。
実際に名人巧者と言われる人は、既に応用しているのかも・・・。

攻めるタイプ・攻めさせるタイプ

2005年07月30日 00時26分10秒 | 教育・科学・スポーツ
格闘技の経験のある方や格闘技に詳しい方には解り易い事なのでしょうが、格闘家には「自分から積極的に攻めまくるタイプ」や「相手に攻めさせながらカウンターで相手の隙を突くタイプ」等があるようです。
これは何も格闘技に限らず、サッカーやバスケットボール等のスポーツでも言える事かも知れません。

これらは、言わば“流儀の違い”とでも言うべきもので、「どちらが良い」とか「どちらが悪い」というものではありません。
また、同じ格闘家であっても相手や状況によって戦術を使い分ける人もいるようです。

一般的には、素人等のよく解らない人から見れば、「攻めまくるタイプ」の格闘家の方が動きが大きい上に解り易く、“ウケ”も良いようです。

私も過去にあまり詳しくない格闘技をTVで見ていて、「攻めまくるタイプ」の格闘家が激しく攻撃している姿を見て「このまま勝つのでは・・・」と思ったがありました。
ところが詳しい人によれば「いや、あれは攻めさせられているだけだ」との事で、実際にその試合では果敢に攻めていた筈の側が気が付けば負けていました。

やはり経験を重ねた“玄人”には、素人には解り得ない“勝負の勘”があるものなのでしょうか?

国家の力と方針の一貫性

2005年07月29日 00時12分24秒 | 国内政治
日本を含めて、国家は個人と比べれば大きな力を持っているものですが、(当然の事ながら)その力は無限のものではなく、有限に過ぎません。
この場合の「力」は金銭は勿論の事、信用等の外交関係やインフラ等の社会資産も含む「総合的な力」と言っても良いでしょう。

その国家がどのようにして力を得るか、得た力をどのように分配して使うか、それを決めるのが国家の行政機関(日本では内閣)です。
円滑な国家運営には、効率良く力を得て効率良く使う事や無駄な使用を避ける事等、力の“入口”から“出口”に到るまでの一貫性のある方針が取られています。

どんなに素晴らしい政策であっても、それを実行するだけの力が無ければ「絵に描いた餅」となってしまいます。
また、多くの“素晴らしい政策”があった場合、それら全てに手を出しても全てを実行するだけの国力が無ければ、全てが中途半端になってしまうでしょう。
それら“素晴らしい政策”を確実に遂行する為にも、国家の力を無駄に使う事のないような行政が求められます。

国家の力の使い方に一貫した方針が無ければ、中途半端な無駄が生じて効率が悪くなり、実行の為には力不足と言う事にもなります。
一貫した方針が無く無駄が生じて効率が著しく悪化してしまえば、いくら国力があっても足りなくなってしまう事でしょう。

北朝鮮船舶の保険と六者協議

2005年07月28日 00時09分30秒 | 国際政治
今年三月の改正船舶油濁損害賠償保障法(以下「油濁法」)の施行以来、北朝鮮の船舶の日本への入港が減っているようです。
そんな中北朝鮮船舶と契約している保険会社の信用度に疑念が持たれている問題が国会で取り上げられました。
日本は(何度も書いている事ですが)良い意味でも悪い意味でも「自由の国」ですから、この報道は北朝鮮にも伝えられている事でしょう。

北朝鮮船舶と契約している保険会社の信用度に問題があり保険支払い能力にも問題があるとなれば、場合によっては再調査となるかも知れません。
その再調査の結果によっては“法令の規定に適合しない保険会社”という事になり、今の保険のままでは北朝鮮の船舶の日本への入港を認められなくなる事も考えられます。

26日より朝鮮半島の核問題を巡る六者協議が開幕しましたが、その日程の中で日朝の二国間協議や話し合い等が行われる事でしょう。
北朝鮮船舶の保険の問題が国会で取り上げられた直後に日朝の話し合いが行われる事は、日朝双方の担当者の心理に影響を与えると考えられます。
そうであれば協議や交渉の中では心理的な駆け引きが繰り広げられますから、北朝鮮船舶の保険の問題は六者協議期間中の日朝協議の行方に影響を与える事となります。

しかし北朝鮮船舶と契約している保険会社の信用度については、インターネット等では以前から問題視する意見が多くありました。
以前から問題視する意見があった事が「六者協議開催決定以降」且つ「六者協議開幕前」の国会で公式に取り上げられたのです。
このタイミングが全くの偶然なのか誰かの意図によるものなのか私には解りませんが、六者協議と日朝協議に良い影響が出る事を望みます。

六者協議始まる

2005年07月27日 00時07分04秒 | 国際政治
北朝鮮の核問題をめぐる六者協議(六ヶ国協議)の第4回会合が中国・北京で始まりました。
冒頭で、日本代表の佐々江賢一郎・外務省アジア大洋州局長が日本人拉致問題を提起したようです。

この六者協議では、拉致加害者である北朝鮮だけでなく中国・ロシア・そして韓国が拉致問題の取り上げに難色を示していたようです。
これで以前に書いたように、各国が「拉致事件の解決に向けての頼りになる国か否か」「人権問題をどのように考えているか」が改めて解り易くなったと言えるでしょう。

このように他国が反対する中で日本代表が敢えて拉致問題を提起した事で、却って拉致事件解決に対する日本の姿勢を内外に示す事が出来ました。
つまり「例え反対する国があったとしても核・ミサイル・拉致の諸懸案を包括的に解決する」「核・ミサイル・拉致の解決がなければ日本からの援助はない」と言う基本姿勢を改めて明確に示したと言えます。

日本国内には様々な考え方の人がいるようですが、核・ミサイル・拉致の解決を望むならば、日本国としての方針を再確認し“茶々を入れる行為”や“肘を制する行為”は避けるべきでしょう。
この日本は良い意味でも悪い意味でも民主主義の国家ですから、世論が大きく分断される事は政府(国家の行政機関)にとってあまり良い事ではないでしょう。

核・ミサイル・拉致の解決に向けて、六者協議の今後に注目したい所です。

事は密なるを以って・・・

2005年07月25日 07時42分02秒 | 国内政治
以前のエントリーで、「善い事」「悪い事」と「可能な事」「不可能な事」について書きました。
ところが、その中で書いた「可能な事」と「不可能な事」の判断はなかなか難しいものがあります。

判断の基準となる情報を秘密にしておけば可能である事でも、その情報を公開する事によって不可能になる場合も多々あります。
日本は「自由の国」ですから、一度一般に公開されてしまった情報はすぐにでも国外にまで伝わってしまいます。

このように日本は良い意味でも悪い意味でも自由の国である事は忘れてはならない事でしょう。

重要な情報は出すべき時に出せるように、普段は隠しておく事も国家にとっては必要です。
日本が隠しておくべき情報を公開してしまうような国であっては困りますし、もし隠しておいた筈の情報が漏れてしまっても気付かないような「極めて間抜け」な国であれば、国家としての存続は不可能となります。

これらの「情報を知る人」や「情報を公開するか否かを判断する人」を(間接的にとは言え)決めるのが選挙であり、選挙の結果によって方針が決められているのです。
日本は良い意味でも悪い意味でも民主国家である事もまた忘れてはならない事でしょう。

道順・道を決める人・「道を決める人」を決めた人々

2005年07月24日 00時10分00秒 | 雑感・雑談・娯楽
例えば、旅行等で東京から大阪へ行く場合、どの道を通るでしょうか?
東名高速道や長野経由或いは新潟から北陸経由等、考えられる道順は多数ありますが、一度の往路で実際に通る道順は一つだけです。
旅行の場合は幹事さんが通る道を決める事になるのでしょうか。

多くの人が行動を共にする場合、先に幹事さん等「道を決める人」を決めたのならば、その人の決定に従うべきです。
例えば渋滞を避ける為に迂回路を選択した場合に、「道が違う」「時間が掛かった」と批難する人がいるかも知れません。

長い道程であればある程、「目的地まで一直線」に行ける事は無いものです。
早い道や遅い道、安全な道や危険な道等、様々な面から考えて通る道を選択するのが幹事さん等「道を決める人」の役目です。

道を決めた後や走り出した後で「あっちの道が良かった」と言っても仕方がありませんし、そんな事を言っていては何処にも行く事が出来ません。
「道が気に入らない」場合でも、それは「道を決める人」を決めた人達の責任でもあると言えるでしょう。

政党政治と二大政党制

2005年07月22日 00時08分10秒 | 国内政治
今月末の六者協議開催が迫る中、北朝鮮元工作員で警察庁が国際手配している辛光洙(シンガンス)容疑者が日本人拉致被害者の教育係をしていたとの報道がありました。
この辛光洙容疑者は原敕晃さん拉致の実行犯でもあり、拉致事件の解決に重要な情報を多く持っていると考えられます。

辛光洙容疑者は韓国で一度逮捕されて裁判で死刑判決を受けたたものの、南北首脳会談を受けて釈放されて北朝鮮に帰国しています。
韓国で死刑判決を受けた後、辛光洙容疑者を釈放するように要望を出した日本の政治家がいます。
更には、この要望の件が発覚した後も署名した政治家を党首とし続けた政党・党員があるというのが日本の政治の現状なのでしょう。

現在の日本は(政府に批判的な人達が好むと好まざるとに関わらず)議員内閣制の国であり、政党政治が行われ、国会は二大政党制に近い形となっています。
選挙制度等に問題が無い訳ではありませんが、現実として現在の制度で選挙が行われ、議員が選ばれて、政治が行われているのです。
一方の党に多少気に入らない点があるからとの理由でその党を批判して弱くしてしまえば、相対的にもう一方の党が強くなるのは当然の事です。
その相対的に強くなる政党が辛光洙容疑者の釈放を要望する人物やその行為を擁護するような人物を党首としているような政党では、拉致事件の解決が遠のく事になるでしょう。

勿論、普通には政党間の駆け引き等は考えずに支持する政党を応援して投票すれば良いのでしょうが、「国家主権が・・・」等と掲げて大々的に政治を語るならば、その程度の基本的な自覚は必要となるでしょう。

他の政党を利する事になるとの自覚も持たずに「国家主権」を大々的に掲げて政府・政党を批判する事は、日本の主権がどのような構造で支えられているかを無視した無責任な行為としか思えません。
日本人として国家主権を論ずるには、一主権者としての責任と自覚が必要ではないでしょうか。

六者協議と拉致事件

2005年07月21日 00時07分03秒 | 拉致事件
今月末に予定されている六者協議(六ヶ国協議)の中で拉致事件を議題として取り上げるか否かで他国の意見が分かれています。
参加各国が人権問題をどのように考えているか、今後拉致事件の解決に向けての助けになる国か否かが(国に限らず、日本国内の政党やメディア等に関しても言える事ですが)解りやすくなっているようにも感じます。

六者協議中での拉致事件の取り上げに関しては、難色を示す国がある中で日本がアメリカと連携を深めて取り上げる方向で進めているとの事です。
日本人しては、メディア等には横から協議が始まる前から政府や担当者に“茶々を入れる”ような事や“肘を制する”ような事はせずに、是非とも拉致事件を取り上げて解決への進展等があるように見守って頂きたい所です。

しかし、今回の協議の中で北朝鮮から誠意のある回答や進展を確約する言葉を得られる可能性はそんなに高くはないように感じます。
その場合でも多国間協議の場で周辺国から見ても不誠実な回答をすればそれだけ国際社会の北朝鮮に対する眼は厳しくなり、小さいながらも事件解決への一歩となるでしょう。

参加各国の利害の思惑が複雑に入り組んだ協議の中で目に見える進展を得る事は簡単な事では無く、小さな事の積み重ねを解決に繋げる事が重要となります。
その“小さな事”を得る為に、或いは状況の些細な変化を読み取りそれに対応して次の手を打つ為にも、粘り強く参加し続ける事もまた必要となります。

最初から協議に参加していなかったのならばともかく「途中から不参加」では今後の国際社会における日本の立場を考えた上で、良い選択とはならないでしょう。
そして今更「最初から協議に参加していなかったら・・・」と言い出しても仕方の無い事です。
現実の世界は常に動き、時は流れていますから、それに乗り遅れる事なく対応していく必要があります。

「善い事」と「可能な事」と

2005年07月19日 00時07分19秒 | 雑感・雑談・娯楽
世の中には「善い事」「悪い事」があります。
日本では幼い頃から「善い事をするように」「悪い事をしないように」と教育されています。

「善い事」「悪い事」だけでなく、世の中には「可能な事」「不可能な事」もあります。
いくら「善い事」であっても「不可能な事」であれば行動に移しても遂行出来ず、実行しても結果は伴いません。

となれば、責任のある人は「善い事、且つ、可能な事」を選択して実行する事になります。
しかし、場合によっては善悪を度外視したかのように「可能な事」を実行してくる相手もいるでしょうし、可能・不可能の判断を誤ったり度外視したりしてしまえば『「善い事」だから実行しろ』と主張する人が出て来るかも知れません。

「可能な事」や「善い事」に比べれば「善い事、且つ、可能な事」は条件が限定されていますので、選択の範囲は当然狭くなります
ですから、周囲から見れば「相手に比べて動きが少ない」「善い選択肢なのに選択しておらず消極的だ」と見えることもあり、そのような批判も出てくるでしょう。

これらの批判を受ける事もまた責任ある立場の人の勤めなのかも知れません。