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つれづれのままに・・・WebLog

心に移り行くよしなしごとを不定期更新で書き留めます

謀反の兆しあり(1)

2005年09月27日 00時10分13秒 | 歴史・文化・思想
歴史を学ぶ事は比較的簡単なようですが、歴史に学ぶ事はなかなか難しいようです。
日本だけでなく世界の歴史を見ても、様々な“謀反”がありました。
中には最初は謀反を起こすつもりが無かった人でも、「謀反を計画している」との噂を流される事で、いつの間にか謀反を起こしてしまっていたケースもあるようです。

歴史上、領主に対して謀反を企てた集団は多くありますが、謀反側の力が不足している場合も多くありました。
相手が領主である上に謀反を起こすのはその臣下ですから相手に比べて力が不足しているのも当然と言えるのかも知れません。

力不足の謀反集団が自分等を正当化する為に、「領主は悪政を行っている」と大義名分掲げ、自分達こそが善政を行うと主張した事もありました。
また場合によっては、有力な重臣に謀反を起こさせたり、自分達の首領にしようとしたりした事もありました。

重臣に謀反を起こさせる場合、「あの重臣は敵と通じている」「あの重臣は謀反を企てている」「あの重臣に謀反の兆しあり」との噂を流し、領主と重臣の間の信頼関係を損ねる手法も使われました。

これらの噂・流言飛語を耳にして検証もせずに「重臣は謀反を考えているのではないか」と真に受けてしまい、他の人に伝えてしまう人も出て来ます。
噂が噂を呼ぶとはこのような事を言うのでしょうか。
そうなると噂を流している人達は、自分達が謀反集団の思惑に乗せられていると気付かないうちに、自分は真実を語っていると思って“謀反の噂”を流し続ける事となるでしょう。

長くなったので、以下次回に続きます。

敗戦の日に思う(3)

2005年08月17日 00時10分35秒 | 歴史・文化・思想
前々回前回に続いて第二次世界大戦の話です。
第二次世界大戦で日本は大敗しました。
しかし「外交の延長」と言われる戦争で、大敗しながらも政治目的を果たしたと言う極めて稀な戦争だったとも言えます。

日本は戦闘に負けたものの、戦争の目的の一つとして掲げていた「アジアの開放」は不完全ながらも達成し、アジアの多くの国は独立しました。
更には、日本を敵として戦った国や日本を敵として戦ったと自称する極一部の国を除いて、日本と共に戦ったアジアの国の多くは日本に好意的です。
これは第二次世界大戦前後の日本の外交政策(およびその延長)の結果です。

大戦で犠牲となった日本兵の多くは「後世の日本の為に」との思いを持ちながら命を落としました。
つまり、今を生きる私達日本人の為に命を落としたとも言えるでしょう。

「アジアの開放」の為に共に戦い、(今も良好な関係にある)アジアの国々と更に友好を深め今後も良い関係を築き続ける事が、当時の日本のアジア外交の政策であり、その為に多く日本人が命を落としました。
この関係を今後も続け発展させる事が、第二次世界大戦を無駄にせず、第二次世界大戦で散った命を無駄にしないと言う事ではないでしょうか。
その為にも日本自身がしっかりと自立し、毅然とした国である事が必要となるでしょう。

敗戦の日に思う(2)

2005年08月16日 00時18分41秒 | 歴史・文化・思想
前回のエントリーに書いたように、第二次世界大戦では多くの命が失われました。
戦争で散った人の中には覚悟を決めて死に臨んだ人はあっても、最初から死を望んでいた人はいなかった事でしょう。
そう考えると死の瞬間には覚悟が出来ていた人も含めて死者はそれぞれに無念だった事と思います。

確かに“最初”から死を望んだ人はいませんでしたし“最初”から敗戦が判っていた訳ではありませんが、歴史を振り返れば第二次世界大戦では多くの人が死に日本は大敗しました。
この“最初”を何時と考えるかによって、第二次世界大戦の捉え方が大きく異なる事でしょう。

私の考えでは、日本の敗戦が決まったのは昭和20年8月15日ではなく昭和16年12月8日よりも前の事です。
特攻隊員の死が決まったのは特攻の朝ではなく、戦線の拡大を決めた頃の事です。
そして、第二次世界大戦の開戦が決定的となったのは昭和16年12月8日ではなく、国際連盟を脱退した時には既に流れは定まっていました。

「あの時にそんな先の事が判るはずがない」との御意見もある事でしょう。
しかし国家は“百年の計”を以って運営すべきものであり「戦争は外交の延長」と言われるものです。
更に、戦争については、『算多きは勝ち、算少なきは勝たず。而るを、いわんや算無きに於いておや。』『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、 敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。』との有名な言葉もあります。

これらの見方に立てば「やってみなければわからない」のではなく「やってみなければわからないにも関わらず戦争したから負けた」と言うべきなのでしょう。
判断ミスが焦りを生じ焦りが判断ミスを誘う悪循環の中で、確かな勝算の無いままに開戦し戦線を拡大した結果が昭和20年8月15日に敗戦と言う形となったとも言えます。
或いは希望的観測に基く「甘い読み」を以って開戦に踏み切り、戦線を拡大してしまったのかも知れません。

長くなったので更に次回に続きます。

敗戦の日に思う(1)

2005年08月15日 00時06分14秒 | 歴史・文化・思想
8月15日は第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本が敗れた「敗戦の日」です。
中には「敗」と言う字に抵抗があってか、「終戦の日」と言う言葉に拘る方もいらっしゃるようですが、あの戦争が日本の敗戦に終わった事には違いなく、日本が敗れる事で戦争が終わりました。
また国際的には終戦は9月2日でしょうが、日本が敗戦受け入れを決めて表明したのは8月15日であり、多くの国民もこの8月15日に敗戦を認める事となりました。

私は日本の敗戦に終わったとは言え、第二次世界大戦の全てを否定するつもりはありません。
かと言って、あの戦争を肯定するつもりもありません。

日本は第二次大戦の敗戦で多くの事を学ぶ機会を得ました。
あの大戦を全肯定する事も全否定する事も、それら学ぶ機会を無駄にする行為であり、日本にとっての第二次大戦そのものを無駄にする行為に思えます。

どのような戦争であれ、敗れた側には過ちがあったからこそ敗れたのでしょう。
過去の過ちを無駄にしない為にも「過ちは繰り返さない」事が求められます。
この60年後の敗戦の日を機に、改めて第二次世界大戦による多くの死者を悼みたいものです。

長くなったので以下、次回に続きます。

愛知万博・リトアニア館

2005年05月10日 21時38分25秒 | 歴史・文化・思想
今回も以前に続いて愛知万博の話。
万博でいくつかの外国パビリオンを見に行きましたが、今後日本との交流が増えそうな国を中心に・・・と思って見て回りました。
とは言っても、待ち時間が長くて諦めたパビリオンがあったり、目当てのパビリオンのすぐ近くに待ち行列の無いパビリオンがあったので必ずしも当初の思いの通りではありませんでしたが。

外国館の中で特に印象に残ったのがリトアニア館でした。
このリトアニア館に関してははやしの日記さんノビイズムさん万博裏ガイドさんlikethatさんマーミンカ通信さん等、多くのブログで紹介されているだけでなく、2chスレッドでも取り上げられています。

万博ヘッドラインには書かれていませんが、リトアニア館と他国のパビリオンとの大きな違いは、日本人とリトアニア人との対談と言う形でリトアニアを紹介するビデオ映像が流れている点です。
「日本人から見たリトアニア」と「リトアニア人から見た日本」とを、冗談交じりの対談にする事で両国を対比させ、リトアニアへの関心が高くなるような構成になっていました。
中には、冗談が過ぎるような場面もありましたが・・・。

一つ難を言えば、同時通訳が聞き取り難い事。
私が最初に聞いた時は「リトアニアは外国投資家にとって魅力的ですか?」との内容の話だったので、「万博のパビリオンで投資の誘致でもしているのだろうか・・・」と思って聞いていると、だんだん冗談がエスカレートして・・・。
それぞれのパビリオンにそれぞれの良さがあるのでしょうが、こんな笑って親しめるパビリオンも良いのではないでしょうか?

愛知万博

2005年05月09日 23時34分26秒 | 歴史・文化・思想
このGWに愛知万博に行って来ました。
正式には「愛・地球博」との名称だそうですが、正式名称が決まる前から開催地問題等でも「愛知万博」と報道されていたので、「愛知万博」で馴染んでしまいました。

この万博に関しては賛否両論様々な意見があるようですが、概ね良かったと思います。
個人ではなく社内旅行や修学旅行で万博に行く人も多いと思うのですが、折角時間を掛けて行くからには楽しんで頂きたいものです。
万博会場は広くパビリオンも多いので、それぞれの人が良いと思えるものを見れば良いかと思います。

私が見た企業パビリオンは「トヨタグループ館」「日立グループ館・Nature Contact」「JR東海・超電導リニア館(超電導ラボ)」「ワンダーホイール展覧車(日本自動車工業会)」「ワンダーサーカス・電力館」。
外国館は「イタリア館」「ブルガリア館」「スペイン館」「リトアニア館」「イギリス館」「インド館」「アフリカ共同館」「タイ館」「南太平洋共同館」「インドネシア館」「オーストラリア館」「サウジアラビア館」でした。
他に「マンモスラボ」「長久手日本館」「台湾料理(イラ・フォルモサ)」等にも行きました。

全体的に北ゲート周辺のパビリオンや飲食店が混んでいて待ち時間も長く、北ゲートから離れる程空いているように感じました。
愛知万博は9月25日まで開催されているので、また行く機会があるかも知れません。
他に万博に行った方からの感想やアドバイス、これから行く予定の人からの質問等もコメントに頂ければ幸いです。

背水の陣

2005年03月10日 00時44分56秒 | 歴史・文化・思想
『孫子』の話が続きますが、今日も『孫子』の言葉から。(決してネタ切れと言う訳ではないのですが)
この『孫子』に書かれている事を応用した事例として「背水の陣」と言う言葉がよく挙げられます。

戦場で布陣する際、『孫子』には基本的に水を前にして布陣するようにと書かれています。
しかし漢の高祖に仕えた名将・韓信はある戦いで、川(水)を背にしての布陣(背水の陣)をとりました。
戦いの後に部下が、「何故基本に反して水を背に布陣したのですか?」と訊ねたところ、韓信は「『孫子』にはこれを死地に置いて然る後に生く(意訳:軍隊を絶体絶命の地に置く事で兵士が奮戦し活路を開く事が出来る)とも書かれている。」と答えました。
この戦いでの韓信が率いた部隊は寄せ集めで戦意が低い兵ばかりでした。
逃げ道があると兵士が逃走する事も考えられたので、韓信は兵士が逃げられないように敢えて水を背にして陣を敷き、兵士を奮闘させました。
これが「背水の陣」の言葉の始まりと言われています。

このように韓信は「然る後に生く」という見通しがあり、他に有効な手段が無かったからこそ「背水の陣」を敷いたのです。
韓信のように「背水の陣」で成功したのはケースとしては少ない方で、だからこそ故事として語り継がれているのです。
歴史を読めば「後に生く」との見通しが無いままに水を背にして布陣し、退路を断ったままの戦いで全滅してしまった軍の話が多く出てきます。

その都度その都度で状況が変われば、その状況に合わせて作戦も変更しなければなりません。
韓信が「水を背にしての陣」で成功したからと言って他の人も「水を背にしての陣」で成功するとは限らず、むしろ「水を背にしての陣」では全滅してしまうケースの方が遥かに多いのです。
その為にも周囲がどんなに熱くなっても、常に状況を冷静に捉え、正確に判断できる参謀の存在が重要視されて来たのでしょう。

兵は国の大事にして

2005年03月09日 01時03分58秒 | 歴史・文化・思想
昨日は『孫子』について触れましたが、孫子の冒頭は表題の言葉「兵は国の大事」・「兵、つまり戦争は国家にとっての重大事である」という言葉から始まっているのです。
『孫子』は兵法・戦争の書ですが、戦争を肯定している訳でもなければ美化している訳でもありません。
「戦争は可能な限り避けるべき」との立場で書かれています。
そして「避けるべき」としながらも「避けられない場合は断固戦い勝たなければならない」との主張です。

『孫子』は戦争を避ける為にも、軍事力を整え備えよと説いています。
現在における核兵器がそうであるように、「持っているから」「作ったから」と言って「必ず使わなければならない」と言う訳ではありません。
常に整備しておく事で、逆に、使わなくても良くなる事が多々あるのです。
このように『孫子』は、核兵器など無い2500年前から既に、今で言う所の「抑止力」としての軍事力を唱えていました。
持っているけど使わない」これが『孫子』の理想とした軍事力のあり方のようです。
勿論、現実は理想の通りではなく、軍事力の行使は何度も行われています。

現在の法律も同じ事で、法律で禁じられているから、罰せられるから・・・との「抑止力」が働いているから犯罪数が抑えられていると言われています。
制定されてから長い間一度も適用された事が無くても、抑止力として働いている法律や条文もあります。
これも「持っているけど使わない」の例と言っても良いでしょう。

このように「実際に使わなくてもそれを持つ事が圧力になる」・・・との考え方が2500年前から既にありました。
『孫子』は日本にも伝わり、平安時代~戦国時代には主に武家の間で研究されています。

道家と兵家

2005年03月08日 00時05分03秒 | 歴史・文化・思想
前回、儒教と道教について少し触れましたが、儒教も道教も奥が深い上に歴史も長くとてもこのブログで語り尽くせるようなものではありません。
それを承知の上で今日も中国の古典について書きます。

昨日書いた儒教と道教は、中国(特に紀元前の中国)において、根底となる思想と言えます。
儒教は秩序を重んじる建前の思想、道教は自然体を重んじる本音の思想として、共に中国の歴史に深く関わっていると言えるでしょう。

思想だけでなく政治や軍事の分野に於いても中国の書物は「儒教的なもの」と「道教的なもの」に大別出来る事が多いようです。
例えば政治家では管仲の書物には『老子』の思想と共通する部分が多く、晏嬰の政治には儒家の思想と共通する部分が多くあります。
また、軍事に関しては儒教的な色が強い『呉子』に対して、『孫子』には『老子』と共通する部分が多いと言われています。

中国の兵法書として『孫子』と『呉子』は双璧と言われていますが『孫子』の方が奥が深く、研究も多くされているようです。
『孫子』は兵法の書はありますが、その内容は「如何に戦争をするか」だけではなく、「戦争をするかしないかの判断」や「戦争を避ける方法」等にも触れています。
日本の今後の周辺諸国との関係を考えるには、この道家の思想と共通点の多い『孫子』の内容が役に立つ事でしょう。

儒家と道家

2005年03月07日 19時57分47秒 | 歴史・文化・思想
日本で「中国の思想」と言えば、真っ先に挙げられるのは儒教でないでしょうか。
六世紀には日本においても五経博士によって五経(『詩経』『書経』『易経』『春秋』『礼記』)が伝えられる等、四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)五経は古くから研究されており、儒教との関わりは深いようです。

一方で「中国の思想」として「儒教」とよく比較されるものに「道教」があります。
孔子(孔丘)が「儒教」を代表する人物であるのに対して「道教」を代表する人物は老子(李耳)で、その著書とされる『老子』(全81章)が道教思想をまとめた書物であると言われています。

他に道教では「荘子」や「列子」がといった人物が挙げられますが、老子以後の道教は「隠遁思考」や「仙人思想」と結び付けて語られる事が多いようです。
私も正直な所、老子以外の道教については殆ど知識がありません。
日本でも儒教ほど研究はされていないようですが、「上善は水の如し」「大器は晩成す」「天網恢恢疎にして漏らさず」といった言葉は共に『老子』の中の有名な言葉です。
柔道の「柔よく剛を制す」も『老子』の言葉から来ているものです。


多少の誤解は覚悟で簡単に言ってしまえば、「儒教」が秩序を重んじる思想であるのに対して、「道教」は自然体を重んじる思想です。
秩序を以って国を治める為に「儒教」が研究された事に比べれば、自然体で自由を追求し場合によっては隠遁思想に繋がる「道教」を政治に用いる事は難しかったのかも知れません。

何故思い出したかのようにこんな事を書き始めたかと言えば、現在の日本の政治を見る上でこの「道教」の考え方が大変参考になるように思えるからです。
『老子』の57章には「天下に忌諱(きい)多くして民弥(いよ)いよ貧し(天下に禁止事項が増えると、民は自由を失ってどんどん貧しくなる)」との言葉があります。
他にもこの『老子』や「道教」には現在の日本の政治を見る上で必要なキーワードが多くあるようです。