さる10月23日、北街コミュニティ計画推進市民会議が主催する、「はりまや橋界隈史跡めぐり」が企画されていたので、参加しました。
9時30分、30人を超える参加者が、新堀小学校内の新堀コミュニティホール前に集合しました。
史跡めぐりは10時にスタートして、 ①魚の棚 ②はりまや橋 ③河田小龍生誕地 ④武市半平太道場跡 ⑤岡本寧浦塾跡 ⑥中江兆民誕生地 をゆっくりと巡って、12時少し前に出発地点に帰ってきました。
地元の参加者が、自分が住んでいるところに、こんな史跡があることを知りませんでした・・・と話していました。
また、家族連れで参加された方も多く、中でも新堀小学校の4年生の二人は、歴史に関心が深く、説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。
その子達は、すでに相当な知識を持っているのです。"歴女"ならぬ、歴史好きのこども"歴チル"とでも言うような感じで、大変嬉しく思いました。
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その1 新堀コミュニティホール前に集合
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その2 ①魚の棚
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その4 ②はりまや橋2 地下広場ギャラリー
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その5 ②はりまや橋3 からくり時計
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その6 ③河田小龍生誕地
はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その7 ④武市半平太道場跡
⑤岡本寧浦塾跡
横堀公園から北へ、高知市桜井町1丁目で、意外と目に付きにくいところにありました。しっかり場所を覚えていないと、次回に一人で来るには・・・と言う感じです。
出典・・・土佐の人物伝: 岡本寧浦(おかもと ねいほ)
寛政6年(1794年) - 嘉永6年(1853年)
藩末にその名を博した儒学者。その門下には、岩崎弥太郎や中江兆民、清岡道之助、河田小龍など幕末から明治にかけて活躍した人物もおり、その総数は千人を超えています。
寧浦は吉田東洋や武市瑞山といった要人との交流がありました。また、岩崎弥太郎は寧浦の甥にあたります。
寧浦は、寛政6年(1794年)に、安田浦の裏宗西本願寺派乗光寺に生まれました。
幼い頃から勉学に励んでおり、安芸国(広島)や大阪で、詩文、儒学、仏教などを学びました。その後、仏教から儒学に転向しました。
そのうち寧浦の評判は高くなり、土佐藩主に招かれ藩の教授方となりました。そして、その才を大いに振るった寧浦は、大学者へと成っていったのです。
寧浦の門下には、岩崎弥太郎や中江兆民、清岡道之助、河田小龍など幕末から明治にかけて活躍した人物など多くの人材を輩出しました。門下の総数は千人を超えています。
寧浦は土佐にとっての吉田松陰のような存在でした。武市瑞山、吉田東洋、岩崎弥太郎、河田小龍といった人物にも影響を与えたと言われています。
嘉永6年(1853年)、60歳で没しました。
http://video.moglik.com/t/%E5%AF%A7%E6%B5%A6.htm
★2010 10 03 高知の街めぐりウォーキング&動画サービス#1 №2 寧浦
出典・・・南国土佐へ来てみいや:岡本寧浦塾舎跡
NHK大河「龍馬伝」1回目に出て来た、岡本寧浦生の塾・紅友舎跡の碑ながです。
劇中、岡本寧浦に関しては唯の塾の先生程度の表現しかしちゃーせんき、土佐人としてこりゃー遺憾と思うて書いちょります。
岡本寧浦ちゅう人は、幕末の土佐藩屈指の儒学者で、長州の吉田松陰よりもすごい人物じゃと言うたら長州人が怒るかも知れんけんど、げにまっこと吉田松陰に劣らぬ重要人物じゃたがです。
また、岩崎弥太郎との関係もあやふややったけんど、弥太郎の母の姉の夫が岡本寧浦じゃき、弥太郎は「甥」になるがよ。
せめてこれくらいの説明は、ナレーションででも入れて欲しかったぜよ。
門人は1000人以上で、「岩崎弥太郎」は勿論のこと、東洋のルソーと呼ばれる「中江兆民」、龍馬に西洋事情を解いた「河田小龍」、坂本龍馬や武市瑞山に次いで幕末の土佐を代表する人物の一人「清岡道之助」など、幕末期に活躍した逸材を多く輩出しちゅうし、土佐藩の参政「吉田東洋」や土佐勤皇党首領「武市瑞山」とも交流があったがです。
兎に角、多くの志士達を倒幕に駆り立てた根本的な思想は、此処から始まっちゅうかも知れん。
HN:史跡探訪者
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もも★さん じゃあないよね・・・
ご存知、ももでございます
そーです~
来てくれてよかった
坂本龍馬さんだ~いすき
まだ連絡ついておりません