とりあえず、某スレから転載。
【重大な疑問点】
◆ 富田氏メモに関するまとめ ◆
【重大な疑問点】
- 「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」
にも関わらず、なぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。 - 「だから私はあれ以来参拝していない。」
天皇陛下は75年(三木首相私人参拝)から参拝していないのに、「私はあれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では辻褄が合わない。 - 貼り付けメモにあったとされる「発言」が合祀から10年後の昭和63年(1988年)の4月。
昭和64年の崩御の前年 - 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたりすることはそもそもできない。それをできると思うのは、天皇制を専制君主か何かと勘違いしている外国人、あるいは日本の官僚機構を知らない人達。
- 勅使は陛下の私費で現在も靖国神社に派遣されている。
- 天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国戦没者追悼式に毎年参列して御言葉も述べている。
- 一部記事中の「白鳥」を「白取」と誤字。普通間違えるか?日本人が「しらとり」という苗字を聞いて思い浮かぶ漢字は?
- 理論構成、概念、時系列が中国(特に中国共産党)にとって、あまりに都合が良すぎるステレオタイプのような文章。「平和に強い考え」って何それ?中国共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。この場合、「平和に強い考え」=「平和への熱い思い」と同義でしょ。
- 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」 「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
合祀された78年ならまだしも、合祀から10年後の崩御の前年の88年に語ったとすると、日本語としてあまりに不自然な発言。 - 「それが私の(本)心だ。」文末でわざわざもう一度総括(笑)する不自然極まる文章。
- 日記のページは黄色く変色するほど経年劣化しているにも関わらず、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
- ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化(18年以上)で退色したりかすれたせず、綺麗なまま(まるで最近書いた様)である点。
- 1988年4月28日に富田宮内庁長官の拝謁の記録なし。徳川侍従長とは打ち合わせの記録アリ?(※未確認情報)
- 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる
「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(朝日新聞1995年8月19日) - 日記メモ記述の当日、陛下と面会が無かった事が判明。