2006年 2月 8日の某新聞夕刊のコラムを読んだ。「コミュニケーシ
ョン」がテーマであった。「人間関係の確立と維持」「双方向コミュ
ニケーション」「対話」「話すことよりも聞くこと」など。コミュニ
ケーションをテーマとした書籍も次から次へと出版されている。
「他人を理解するとは、どういうことであろうか」と問われたら、
あなたはどのように回答するであろうか。「共感することだ」という
回答が多かったという。しかし、「関係が破綻したところから(その
相手の理解が)始まるのではないか」という意見を述べた人がいると
いう。
「あなたとは考えかたが違うから、これ以上何を言っても無駄だ」
というセリフを吐く人がいる。私も実際、ビジネスの場面でそのよう
に相手から言われ、ひどく傷ついたことがある。しかもその相手から
は「だからあなたとは一緒に仕事をすべきではない」とまで言われ、
拒絶されてしまった。その時から私は、その相手に対しては表面的な
議論でその場を過ごすようになってしまった。理由は、その相手と意
見をぶつけるプロセスの中で、自分がストレスを感じてしまうからで
ある。しかし、先ほどの意見を述べた人は違う。
相手との違いを痛感したときに初めて、相手の理解が始まるのだと
いう意見である。「そうか」。
自分の考えを相手にぶつけても「きっとまた平行線だ」という先入
観があるがために、自分の考えと合わない人を避けてはいないだろう
か。事実、それでは何も始まらないのである。現状を維持できるかも
しれないが(いや、現状維持も難しいであろう)、新たな段階へ進む
ことはできないのではないだろうか。
「正・反・合」。ヘーゲルによって定式化された、弁証法における
論理展開の3段階のことであり、定立・反立・総合の意である。
相手と衝突し、平行線をたどる。「なぜなのだろう」。「どうした
ら、自分の考えを相手に伝えることができて、理解してもらうことが
できるのであろう」。あるいは、頭に血がのぼっているかもしれない
自分が冷静になって、謙虚に自分の誤りに気がつき、相手に素直に謝
まることができるであろうか・・・。
相手と正面から向き合うこととは?
「対話」とは?
そんなことを考えた1日であった。
ョン」がテーマであった。「人間関係の確立と維持」「双方向コミュ
ニケーション」「対話」「話すことよりも聞くこと」など。コミュニ
ケーションをテーマとした書籍も次から次へと出版されている。
「他人を理解するとは、どういうことであろうか」と問われたら、
あなたはどのように回答するであろうか。「共感することだ」という
回答が多かったという。しかし、「関係が破綻したところから(その
相手の理解が)始まるのではないか」という意見を述べた人がいると
いう。
「あなたとは考えかたが違うから、これ以上何を言っても無駄だ」
というセリフを吐く人がいる。私も実際、ビジネスの場面でそのよう
に相手から言われ、ひどく傷ついたことがある。しかもその相手から
は「だからあなたとは一緒に仕事をすべきではない」とまで言われ、
拒絶されてしまった。その時から私は、その相手に対しては表面的な
議論でその場を過ごすようになってしまった。理由は、その相手と意
見をぶつけるプロセスの中で、自分がストレスを感じてしまうからで
ある。しかし、先ほどの意見を述べた人は違う。
相手との違いを痛感したときに初めて、相手の理解が始まるのだと
いう意見である。「そうか」。
自分の考えを相手にぶつけても「きっとまた平行線だ」という先入
観があるがために、自分の考えと合わない人を避けてはいないだろう
か。事実、それでは何も始まらないのである。現状を維持できるかも
しれないが(いや、現状維持も難しいであろう)、新たな段階へ進む
ことはできないのではないだろうか。
「正・反・合」。ヘーゲルによって定式化された、弁証法における
論理展開の3段階のことであり、定立・反立・総合の意である。
相手と衝突し、平行線をたどる。「なぜなのだろう」。「どうした
ら、自分の考えを相手に伝えることができて、理解してもらうことが
できるのであろう」。あるいは、頭に血がのぼっているかもしれない
自分が冷静になって、謙虚に自分の誤りに気がつき、相手に素直に謝
まることができるであろうか・・・。
相手と正面から向き合うこととは?
「対話」とは?
そんなことを考えた1日であった。
あたかもグリーグ作曲のペールギュント組曲を聴いていると、北欧の静かに広がるフィヨルドの湖面が目に浮かぶように、「あなたとは考えかたが違うから、これ以上何を言っても無駄だ」という言葉が発せられる状況ってのは、人類共通の深層心理に訴えかけますな。
う~ん、自分でもなにいってんだかわかんない。
う~む・・・深い・・・。