らば~そうる “IN MY LIFE”

旅、音楽、そしてスポーツのこと。過去、現在、そして未来のこと・・・「考えるブログ」。

3048.平安京

2014-03-11 | 52.The Past
 かつて横浜市鶴見区に住んでいました。それは、1960年代半ばから
1970年代前半にかけての頃、ちょうど日本が高度経済成長期の後半に
あたる時代でした。

 住んでいたのは「平安町」で京浜工業地帯に隣接するエリアに位置
していたため、風向きによっては洗濯物が黒く煤けたようになったり
小学校の窓のサン(木製!)をぞうきんでなぞると、すぐに真っ黒に
なってしまったのを覚えています。

 現在の基準で言えば、環境的には「よい」とは言えない場所だった
のかもしれませんが、空き地にあった土管で遊んだり、広場や道路で
野球をしたり、缶蹴りをしたり、日が暮れるまで汗だくになって遊ん
でいました。

 平安町の東側は川崎市。今ではすっかり埋め立てられてしまいまし
たが、かつてその市境には運河がありました。私が遊んでいた時代、
市境のほうにダンボール工場があり、そのあたりに小さな水路のよう
なものがあった記憶があります。「京浜運河」とずっと認識していた
のですが、あらためて調べてみると、正式名称は「川崎運河」という
ことでした。

 さらに調べてみると、面白いことがわかってきます。俗称の「京浜
運河」はてっきり、一般的に使用されている「京浜」の意味だと思っ
ていたのですが、そうではありません。川崎運河が開発されたのは、
大正時代のことですが、その後に運河を挟んだ現在の鶴見側が「新浜
町」、川崎側が「京町」と制定されたため、京町の「京」と新浜町の
「浜」をとって京浜と呼ばれたのです。現在でも鶴見と川崎の沖合に
ある水路を「京浜運河」と呼びますが、二重呼称ではなかったのです
ね。

平安町と京町(個人利用のための掲載です)


 新浜町はその後「平安町」に変わります。私が住んでいた時代には
横浜市の「平安町」と川崎市の「京町」が隣接しており、さらに両方
の街並みは「碁盤の目」のように整然と区画されていました。従って
この命名の由来は「平安京」にあるのだなと思っていました。両者は
同時に制定されたわけではないので、この仮説は成り立ちませんが、
「平安町」を制定したときに、その命名者がこのことを考えたのでは
ありますまいか…。と信じたいのです。だって、京浜工業地帯の中に
ある「平安京」ってなんだかいいじゃないですか。

 その答えは、調べないことにします。たとえ真実でなくとも、信じ
たことは真実を超える魅力があるのですから。


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2 Comments

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川崎と横浜との市境 (mensurazoirri)
2014-03-20 23:10:52
元神奈川県民としても興味のある話題でした。
概ね鶴見川が境なのかな?との先入観も有ったのですが、
良く考えてみると鶴見川よりも東京方面にある京急の駅名が
「鶴見市場」なわけですから話は単純ではないわけですね。
今回の「京浜運河」のいわれは全く知りませんでした。
驚きです。

「平安町」と「京町」。
このような地名が出ると旧東海道踏破経験のある者は
沿道かな?とも思ったりしますが少し離れていますね。
(添付の地図だと左上端の畑医院付近に僅かに載っています)

それでもこれらの地名は古くからあって、その云われも何かありそうですね。
返信する
平安・京 (らば~そうる)
2014-03-21 22:18:47
to:mensurazoirriさん

云われを知りたくもあり、仮説のままそっとしておきたい
気持ちもあります。複雑。
返信する

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